第198話 両手は、いらない
布のつつみを、かかえ直した。
朝の通りのむこうで、祝祭の笛が鳴っていた。
陽の月の、ふつか。
炭の字で書かれた日づけが今日になった。
町じゅうが浮き立つその朝に、わたしたちは講義棟のわきへ歩いた。
「祭りの日にやるなんてな」
となりでティオが笑う。
「みんな笛のほうへ行っちまうかもよ」
「それでも、いい」
見る人がひとりでも、百人でも、仕掛けのやることは変わらない。
そう思えるまでに、ゆうべ半分かかった。
ふるい広間のおもい戸を押すと、ひんやりした空気が顔にあたった。
天井ばかり高くて、声がすいこまれそうにがらんとしている。
石の床は夏だというのに、くつの底からしんと冷えてきた。
ながいこと人の入らなかった場所の、底の冷え。
「台は、まんなかにすえろ」
先に来ていたカーン先生が腕組みのまま言った。
「見せる場所だろう。すみに置くやつがあるか」
ティオとふたりで、広間のふるい台をまんなかへ運ぶ。
その上で、むすびめをほどいた。
布が四隅へひらいて、見なれた盤があらわれる。
蓄魔石の座。ためる器。関と、ばね。灯りの陣を刻んだちいさな盤。
きのうまでと、おなじ顔ぶれ。
ちがうのは、置かれた場所だけ。
よそゆきの顔に見えたのは、あさってまでの話。
日づけが来てしまえば、これはただの、わたしの仕掛けだった。
覚え書きの紙を、盤のわきにならべた。
一の番号から十まで。ゆうべ十ぺんめにたしかめた、いつもの順。
銅の道を、はしからはしまで目でたどった。
ゆるみはなく、ほこりもなし。
さいごに盤のふちを、指のはらでひとなでした。
「石、見るか」
ティオが腰の袋から蓄魔石をだした。
朝の光にすかすと、すきとおった芯まで光がとおる。
「けさ、まんまんにした。三度たしかめた」
「うん。ありがとう」
「言っとくけど、おれの仕事はここまでだからな」
ティオはそう言って、わざとらしく両手をうしろに組んだ。
ひるまえの鐘が鳴るころ、人が集まりはじめた。
革の前かけの教授。長衣の教授。名前を知らない顔がならんでいく。
生徒は思ったよりも多かった。
祭りの笛より、こちらを選んだ顔ぶれ。
壁ぎわにずらりと立って、こちらを見ていた。
ひそひそと、声が水のように低く流れた。
見に来たというより、たしかめに来た顔だった。
魔力なき者がなにをするのか。
灯らないはずの子がなにを置くのか。
そのなかに、上等な服の令嬢がひとりいた。
胸に家紋の札。手には、ちいさな扇。
顎をすこし引いて、人を見る。
「魔力もないのに、なにをしているの」
だれに言うでもない、ひとりごとの高さの声がした。
悪気の音はしない。ほんとうに、ふしぎがっているだけの声。
そういう声のほうが胸のおくには長くのこる。
とん、と。
石の床を打つ、かわいた音がした。
戸口から、白い髪がはいってくる。藍の長衣。手には、つかいこまれた杖。
(——来た)
胸の音がひとつ、大きく鳴った。
あの人はだれとも話さずに、いちばんうしろの席へすわった。
まえには来ない。ただ、来た。
「そろったな」
カーン先生が広間をゆっくり見わたした。
「品評の場だ。魔力のことは、ここでは問わん。動くか、なにをする仕掛けか。見るのは、それだけだ」
みじかい言葉に、ざわつきがしずまっていく。
先生の顎がわたしへ向いた。
「はじめてくれ」
台のまえに、ひとりで立つ。
耳のおくで、心の臓がうるさく鳴っている。
十三の体は正直だ。
それでも頭のすみは、もう一の番号を指していた。
(——段取りは、かわらない。あの隅でも、この広間でも)
横でティオが聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「……いけるさ」
うなずきは返さずに、息だけひとつ、深く吸った。
蓄魔石を、座へはめる。
こと、と石の落ちつく音。
爪を起こして、手をはなす。
支度は、それでしまいだった。
わたしは両手を、体のわきへおろした。
あとは、なにもしない。
なにもしないことが今日のぜんぶだった。
器が満ちるのを、待つ。
作業場なら、息を三つ数えるあいだ。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
——灯らない。
よっつ。
まだ、灯らない。
広間がしずかになって、そのしずかさが重さに変わっていく。
だれかの上着の、すれる音。
扇の音が止まった。
どこかで、ちいさく息を鳴らす音がした。
笑いの形をした、みじかい息。
横目のはしで、ティオのこぶしがかたく丸まっているのが見えた。
約束どおりに、動かないでいてくれている。
わたしの指の先がうずいて、盤へのびたがっている。
石をたしかめたいし、爪ももういちど起こしなおしたい。
(——動くな)
ここで手を出せば、それは「人の手」だ。
それで見せたいものがひとつ消える。
頭のなかで、順番に数えはじめた。
(——まず動力。つぎに記法。さいごに点火。ひとつずつ、疑う)
前世の机で身にしみた、ゆびぐせのような順番だった。
動力。石はけさティオが満たした。芯まで光のとおる、まんまんの石。
記法。順はゆうべたしかめた。紙は、まちがえない。
のこるのは点火。器と、関。
……ちがう。器でも、関でもない。
床だ。
くつの底から来ている、この石の冷え。
朝からこの石の上にいた器は、作業場よりずっと冷えている。
冷えた器は、満ちるのがおそい。
(——こわれてない。おそいだけ)
満ちれば、関はかならず外れる。
十ためして、十とも外れた。
きのうまでの十回がそう言っている。
だから、待つ。
両手は、わきに垂らしたまま。
背すじだけ、まっすぐに。
しずまりかえった広間で、わたしはただの見物人みたいに、自分の盤を見ていた。
だれかがまた、息を鳴らしかけた。
その音のとちゅうで。
いつつめの息を、ゆっくり吐いた。
ぱちん。
はじけた音が高い天井にはねかえった。
ぽう、と。
台の上で、陣が灯った。
ためた一拍のぶん、光がつよく跳ねる。
いつもの灯りなのに、いつもよりあかるい——そんな気さえした。
広間は、まだしずかだった。
一呼吸おくれて、ざわめきが来た。
「……唱えて、ないぞ」
「触れてもいない。見てたか、いま」
「両手とも、下りたままだった」
壁ぎわの声がたがいにぶつかりあう。
さっきの、笑いの形をしたみじかい息は——もうどこからも聞こえなかった。
前かけの教授が身をのりだしていた。
となりあった教授たちが早口でなにか言い合っている。
そのざわめきのなかで、白い髪の人の声だけが、なかった。
仕掛けを組んだ本人だけがまだ息をつめていた。
……ともった。
だれの口も、だれの指もかりずに。
この広間の、まんなかで。
扇の令嬢は——目を、伏せていなかった。
顎を引いたまま、まばたきもせずに灯りを見ている。
扇は、止まったまま。
カーン先生が台へ歩みよった。
灯りではなく、金物の側へ顔を寄せる。
石、器、関、火の走った銅の道。
節くれだった指が順にたどっていく。
「魔力で灯したんじゃない」
ひくい声なのに、広間のすみまでとおった。
「石が力をわたして、ばねが火を出した。お前さんは、その段取りを組んだ」
先生の指が覚え書きの紙をこつんと突いた。
「神々のさずけものじゃない。これは、お前さんが組んだ物だ」
ぶっきらぼうな言いかたは、いつもとおなじ。
なのにその声の底には、たしかな熱があった。
「……はい」
それだけ言うのがやっとだった。
胸のおくがじんとあつい。
組んだ、という言葉がほめ言葉のどれよりも深いところに落ちた。
さずかったのでも、めぐまれたのでもなく。
組んだ。この手で、ひとつずつ。
(——見せられた。人の手をかりない灯りを、見える場所で)
入学の日の、あの広間の問いがとおくで揺れた。
あの問いへの返事は言葉のかわりに、いま台の上で灯っている。
ざわめきは、まだおさまらない。
そのなかでわたしには、ひとつだけたしかめたいものがあった。
目だけで、いちばんうしろの席をさがす。
白い髪は、そこにあった。
膝のうえに、杖。
その目は、台の上のちいさな灯りへまっすぐ向いている。
なにを思っているのかは、ここからは読めない。
台の上では、灯りがまだともっていた。
だれの手も、かりないままで。
■あとがき・解説
第198話は、この物語がずっと目指してきた場面のひとつです。祝祭の月のはじまり、講義棟わきの古い広間。リナは蓄魔石をはめて爪を起こし、両手を体のわきへおろします。唱えない。触れない。それなのに、台の上の灯りの陣がともる——魔力なき者が、人の手をひとつもかりずに、公の場で魔法を動かした瞬間です。
今回は、「両手は、いらない」「石床の冷え」「組んだ物」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「両手は、いらない」——なにもしないことが、今日のぜんぶ
この日のリナの仕事は、じつは「なにもしないこと」でした。石をはめ、爪を起こしたら、あとは仕掛けが自分で火を入れる。途中でひと呼吸でも手を出せば、それは「人の手」になって、見せたいものが消えてしまいます。だから灯りが遅れても、両手はわきに垂らしたまま。魔力の量でも詠唱のうまさでもなく、「手を出さずに待てるだけの裏づけ」こそが、この日いちばんの見せ場でした。
■「石床の冷え」——こわれたのではなく、おそいだけ
ながいこと人の入らなかった広間の石床は、夏でも底が冷えています。冷えた器は満ちるのがおそい。作業場なら息みっつで灯るところが、この日はいつつかかりました。静まりかえる広間、止まる扇、笑いの形をした息。そのなかでリナが回したのは、あやしいところをひとつずつ疑う、いつもの切り分けの順番です。動力は満たした。記法はたしかめた。のこるは器——ちがう、床だ。原因が「所要時間」だと見切れたから、待てました。十ためして十ついた検証は、こういう日のためのものです。
■「組んだ物」——さずけものではなく
カーン先生の評はみじかいものでした。石が力をわたし、ばねが火を出した。お前さんはその段取りを組んだ。「神々のさずけものじゃない。これは、お前さんが組んだ物だ」——魔法を神秘の側から、人の手の側へひとつ引き寄せる言葉です。ただし先生に見えているのは、あくまで石とばねと火の道すじという「段取り」まで。灯りを見つめる白い髪の人が、この日のことをどう受けとめたのかは、まだだれにもわかりません。
次の話もお楽しみに。




