第186話 発つ日
夏の入りの朝は草のにおいから始まる。
戸を開けると、夜のあいだ濡れていた庭の草が朝日にあたためられて青くにおった。
竈の煙がひくく土間を流れていく。
王都を出て村へ帰ってから、ひと月あまりが過ぎていた。
晩春の雨の季節がいつのまにか終わり、朝の風はもう夏のものになっている。
そして今日、わたしはまた村を発つ。
帰ってきたばかりのような気がした。
(——みじかい、ひと月だった)
畑の手伝いをして、父の工房で鐘時計の歯車を磨いて、ノラに字を教えた。
なんでもない日が指のあいだをこぼれるように過ぎていった。
それがいとおしかった。
もう一度この村で暮らせる日がいつ来るのか、わからない。
だから、目をつむって朝のにおいだけを胸に吸いこんだ。
◇◇◇
土間のすみに、旅の荷がまとまっていた。
布でくるんだ図面。炭。替えの上着。
父がくれた古い歯車も、布にくるんで荷の底にしまってある。
その上に、母が新しい布を一枚のせた。
「これ、持っておいき」
畳まれた布を広げると、端のところに細かい穴の並びが織りこんであった。
短い間と、長い間。
機械に読ませる、あの並びだ。
(——わたしの織り)
母の織機がここまで細かい穴を布のなかに並べられるようになっている。
「村のみんなにも、織り方を教えてるのよ」と母は言った。
「はじめはこわがってたけど、いまじゃ、わたしより上手な人もいるんだから」
わたしのいちばん最初の作りものが母の手から村の女たちへ渡っていく。
布のはしを、指でなぞった。
穴の並びがつめたく指の腹にあたる。
村の女たちの指がひとつひとつ開けた穴。
それが布のうえに小さな地図みたいに散っている。
「使わなくてもいいの」と母は言った。「ただ、持っておいで。村が、布のなかに入ってるから」
(——おまもりだ、これは)
◇◇◇
母は荷の口をきゅっと締めて、結びめを指の腹で押さえた。
それから、わたしの顔をまっすぐ見た。
「リナがきめたなら、それでいいの」
低くて、やわらかい声だった。
学院へ行くと言ったときも、母はおなじ顔をしていた。
止めもしないし、急かしもしない。
ただ、わたしの選んだほうへ手を添えてくれる。
きっと母はこわいとも寂しいとも言わないだろう。
言えば、わたしの足が鈍ると知っているから。
「帰る道は、ここにあるからね」と母は言った。
「なくしたりしないから。いつ帰ってきてもいいように、ちゃんと置いておく」
うん、とわたしはうなずいた。
声に出すと泣いてしまいそうで、それしか言えなかった。
◇◇◇
戸口で、ノラが待っていた。
八つになって、背がすこし伸びた。
両手で、なにかを握っている。
「ねぇね、これ」
差し出されたのは、細い織りの帯だった。
糸の太さがふぞろいで、ところどころ目が飛んでいる。
端のほうに、穴がひとつだけ織りこんであった。
「ノラが、おった」
母の織機をこっそり使ったのだろう。
不格好な、けれど確かに一本の帯になっている。
まだ、機織りのにおいがした。
母の糸箱の、あのにおいだ。
「ありがとう」とわたしは言って、それを手首に巻いた。
ノラの顔がぱっとほどけた。
◇◇◇
帯を巻いた手首を、ノラがじっと見ていた。
それから、すこし口をとがらせた。
「ねぇね。ノラね、ねぇねにだけ、おはなししたいのに」
「光じゃ、できないの。みんなが、見ちゃうもん」
胸の奥がちくりとした。
いつだったか、ノラはおなじことを言った。
おにいちゃんだけに伝えたいことは光では送れない、と。
みんなに見える光には、ひとりへの言葉を載せられない。
いまは、わたしにも。
(——みんなには見えなくて、決めた人にだけ届く光)
そんなものを、わたしはまだ作れない。
作り方も、それを起こす陣も、まだ思いつかない。
それでも、いつか。
「手紙を、書くね」とわたしは言った。
封をして、ノラだけに開けてもらう。
いまのわたしに送れるのは、それだけだった。
「うん」とノラは言って、ようやく笑った。
ノラはわたしの巻いた帯をもう一度なでて、母の前掛けのうしろに半分かくれた。
泣くのをこらえているのが、わかった。
八つは、もう赤んぼうではない。
笑って見送ると、自分で決めたのだ。
◇◇◇
父は、もう荷車の支度をすませていた。
荷台に荷を積み、馬の腹帯をたしかめている。
「行くか」
短く、それだけ言った。
わたしは荷台に乗り、御者台のとなりに腰を下ろした。
板の上は思っていたより高くて、足が地面から浮いた。
十三の足では、踏み台がいる高さだ。
頭のなかでは何度も遠くへ旅をしてきた気がするのに。
(——身体は、まだ子どもだ)
板の縁を、両手でぎゅっとつかんだ。
母とノラが戸口の前に並んで立っている。
父が手綱を引くと、荷車がぎい、と鳴って動き出した。
◇◇◇
車輪が村の道をがらがらと進んでいく。
うしろで、ノラの声がした。
「ねぇねー!」
ふりむきたくなった。
もう一度だけ、あの戸口を、母とノラを目に焼きつけたくなった。
けれど、わたしは前を向いたまま手だけを高くあげて振った。
ふりむけば、足がそっちへ戻りたがる。
それを、いまはもう知っている。
うしろの声がだんだん遠くなって、やがて風と車輪の音にまぎれた。
◇◇◇
村のはずれに、古い木が一本立っている。
ここを越えると、もう村の外だ。
子どものころ、レオとここまで駆けてきて、いつも引きかえした。
木の根もとには、いまも誰かの結んだ布きれが下がっている。
村の境を守る、ふるい印。
荷車がその木の影をくぐった。
低い枝が頭の上をさらりと撫でていく。
(——いってきます)
胸のなかで、そっと言った。
「父さん」と呼ぶと、父は手綱を握ったまま「ん」と返した。
「ありがとう。送ってくれて」
「ふむ」
父はそれきり黙った。
横顔はいつもの工房の顔のままだった。
◇◇◇
街道に出ると、両がわに麦の畑がひらけた。
青い穂が夏の入りの風に低くうねっている。
馬のひづめが土を規則よく打った。
ぱか、ぱか、と。
畑のむこうに、見たことのない村がいくつも過ぎていった。
知らない屋根。知らない井戸。知らない人の声。
村を出るというのは、こういうことなのだ。
世界が知らないものでできている。
(——でも、こわくない)
となりに、村のにおいのする大きな背中がある。
それだけで、足が浮いたままの板の上でもこわくなかった。
途中の宿場で、父は馬に水をやった。
わたしは荷台で、固いパンをかじった。
村のかまどで焼いた、母のパンだった。
口のなかで、すこしだけ村の味がした。
父は多くを語らない。
けれど、語らないことがいまはありがたかった。
言葉をさがさなくていい。
ただ、となりにいてくれる。
昼を過ぎても、父はおなじ姿勢で手綱を握っていた。
その背中はすこしも揺れなかった。
大きくて、しずかな背中だった。
◇◇◇
陽が高くのぼり、また傾きはじめたころ。
街道のずっと先に、灰色の影が見えてきた。
畑のむこう、丘のあいだに、いくつもの尖った輪郭が重なっている。
村でも、町でも、王都でもない。
塔のような、屋根のような、見たことのない形の連なり。
胸がとん、と鳴った。
怖さと、それからもうひとつ、名まえのつかないもの。
あそこへ、わたしは自分から入っていく。
読まれることを承知で。
影は、近づくほどに大きくなった。
尖った屋根のひとつひとつに、小さな窓が並んでいる。
あの窓のどれかの下に、わたしの机がある。
まだ顔も知らない、誰かのとなりに。
「あれが、エルディンだ」と父が言った。
学園街——わたしの向かう先。
わたしは手首の、ノラの織った帯にそっと触れた。
それから、荷の底の歯車の固いふくらみを布ごしに確かめた。
村は、ちゃんとここにある。
荷車はぎい、ぎい、とその影のほうへ進んでいった。
■あとがき・解説
第186話は、リナが村を発つ回です。前の回までで物語の舞台は王都でしたが、リナは学院の招待状を受け取ったあと、いったん故郷の村へ帰っていました。雨の季節のあいだを家族と過ごし、夏の入りの朝、いよいよ学園街エルディンへ旅立ちます。ここから物語は第3部「学院」へ入ります。
別れの回ですが、家族はだれも引きとめません。母エマは旅の荷に、自分の織った布を一枚そえます。端には、機械に読ませるための細かい穴の並びが織りこまれた、改良した布です。「村が、布のなかに入ってるから」——使わなくてもいい、ただ持っておいで、と母は言います。リナのいちばん最初の作りものが、いまでは母の手から村の女たちへ広がっている。その布は、村ごとお守りにして持たせる一枚になりました。
妹のノラは、自分で織った不格好な帯をくれます。八つになって、すこし背が伸びました。手首に巻いてもらうとうれしそうに笑い、それから泣くのをこらえて、母のうしろに半分かくれます。「笑って見送る」と自分で決めたのです。ノラは前にも、「おにいちゃんだけに伝えたいことは光では送れない」と言ったことがありました。みんなに見える光には、ひとりだけへの言葉を載せられない。いまは、村を離れるねぇねにも同じことを言います。リナにはまだ、その光を作る手だてがありません。けれど、いつか——という小さな宿題として、胸にしまいます。
別れをすませ、リナはお父さんの荷車に乗ってエルディンへ向かいます。村の境の古い木をくぐるとき、ふりむきたくなる気持ちを、前を向いたままこらえます。麦の畑のひらける街道を、馬のひづめが規則よく打っていく。夕暮れどき、街道のずっと先に、塔とも屋根ともつかない灰色の影が見えてきます。「あれが、エルディンだ」。怖さと、名まえのつかないもうひとつの気持ちを胸に、リナはその影のほうへ進んでいきます。
今回は、「穿孔布」「エルディン」「御者台」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「穿孔布」——母の手から、村の手へ
リナがいちばん最初に作ったのが、この「穿孔布」でした。母の織機を使って、布の地に短い間と長い間の穴を並べ、それを機械に読ませる——いまの符号の出発点になった布です。今回、母はその改良版を一枚、旅の荷にそえます。大事なのは、その織り方がもう母ひとりのものではなくなっていること。村の女たちにも教え、いまでは母より上手な人もいるといいます。穴をこわがっていた人たちの指が、ひとつひとつ開けた穴。それが布のうえに、小さな地図のように散っています。発明が作った本人の手を離れ、村の暮らしのなかに根を張っていく——その一枚を、リナは「村ごと」持って旅立ちます。
■「エルディン」——学園街
ヴァルジア王国の学園街です。王立魔導技術学院のある町で、王都から南西へ馬車で半日ほど、リナの村からは馬車で二日半ほどの道のりにあります。村でも町でも、見慣れた王都でもない、塔のような尖った屋根がいくつも重なった、見たことのない形の連なり。リナがこれから学び、暮らす場所です。今回は、まだその影が遠くに見えてくるところまで。門をくぐるのは、次の回からになります。
■「御者台」——荷車のいちばん前
荷車の前のほう、手綱を握って馬を御す人が座る板の席です。お父さんのとなりに腰かけたリナは、板が思っていたより高くて、足が地面から浮いてしまいます。頭のなかでは何度も遠くへ旅をしてきたような気がするのに、十三の身体は、踏み台がいるくらい、まだ小さい。寡黙なお父さんは、道中ほとんど口をききません。けれど、語らないでいてくれることが、いまのリナにはありがたいのです。村のにおいのする大きな背中が、ただとなりにある。それだけで、足の浮いた板の上でも、こわくありませんでした。
次の話もお楽しみに。




