第185話 二通目の手紙
朝の宿はまだ少し冷たかった。
窓の木枠に、夜のあいだの湿りが残っている。
晩春の朝の空気が肌のうえでぬるむまでに、もうしばらくかかる。
机のうえには、ひもでくくった便りの束が積んであった。
ここ数日、便りはこうして毎朝この机に届く。
祝いの言葉。問い合わせ。名のある家からの、改まった一筆。
塔が動いて、王が認めて、学院が招いた。
そのひとつひとつがこうして紙になって、わたしを追いかけてくる。
◇◇◇
部屋のすみには、旅の荷がもう半分ほどまとまっていた。
布でくるんだ図面。炭。替えの上着。
藍色の封書はその荷のいちばん上に、薄紙にはさんで寝かせてある。
学院の招待状だ。
割れた蝋の縁を、この数日でもう何度も指でなぞった。
決めてからの日々は思っていたより、ずっと静かに流れていった。
村へどう伝えるかは、まだ言葉にならない。
母の顔。ノラの押し花。それはもう少しあとでいい。
いまは、発つ側に立っている。
村を出ていくのだという、その手ざわりに、まだ慣れずにいた。
◇◇◇
戸が軽く叩かれた。
「リナ嬢。今朝の分を、お持ちしました」
テオドールだった。
戸をあけると、平たい紙の束を抱えて立っている。
いつもの取り次ぎの手つきだ。
机の脇に、束をそっと置いた。
「町からの返事も、いくつか交じっています」
そう言って、テオドールは束の上に手を置いた。
それから、その手をすぐには離さなかった。
「一通、宛名のないものがありました」
「宛名の、ない」とわたしは繰りかえした。
テオドールは束の中ほどから、一通の封書を抜いて机に置いた。
ほかの便りとは紙のいろがちがった。
(——これは、なに)
白くも生なりでもない、うすく灰色がかった、見たことのない紙だった。
表をあらためる。
差出の名も、受取の名も、どこにも書いていない。
ただ封蝋だけがぽつりと押してあった。
(——だれ宛て)
その蝋を見て、指がとまった。
藍でもなく、獅子の紅でもなかった。
くすんだ、灰みがかった緑だった。
苔のような、古い水のような、しずんだ色。
押された印はどの紋にも似ていなかった。
獅子も、剣も、ひらいた本もない。
細い線が幾本か、内から外へほどけて流れていく——そんな形。
それだけだった。
「これは、どなたから」とわたしは訊いた。
「わかりません」とテオドールは言った。
「門の使いが託された、と。名は告げなかったそうです」
「お礼を言う相手も、いないんですね」
そうつぶやくと、テオドールは小さくうなずいた。
その声にはいつもの落ちつきがあった。
それでも目は一度だけ、灰緑の蝋をたしかめている。
「では私は、これで」
テオドールは軽く頭をさげて、戸の外へ退いた。
宛名のない封書だけが机のうえに残って、灰緑の蝋がにぶく光っていた。
◇◇◇
蝋に、爪をかける。
藍の蝋とはちがって、もろかった。
ぱき、ではなく、ほろ、と崩れる。
かけらが細かい粉になって、机に散った。
ずいぶん古い蝋だ、と指が思った。
中からは、墨のにおいも紙のにおいもしない。
つめたい紙の手ざわりだけが指の腹にかえってきた。
紙を、ひらく。
一行だけだった。
ほかには、なにも書いていない。
宛名も、署名も、日付もない。
ただ、一行。
「あなたの書いた符号は、わたしには読めました」
◇◇◇
その字を、目で追った。
細い、しずかな字だった。
急いでいない手の字——けれど、ミラさんの字とはちがう。
もっと角ばって、すこし古い書きぶりだった。
(——読めました)
息が浅くなった。
符号なら、たくさん書いた。
短い煙と長い煙の組み合わせ。
言葉を入れかえる、あの覚書。
物を数える塔に、順を追って読ませる命令の列。
それを読む人はもう何人もいる。
信号士は煙を字に直す。
用人は覚書で、荷の知らせをやりとりする。
けれど、あの人たちが読むのは表のことだ。
この煙は、この字。この印は、この言葉。
決まった対応をひとつずつ覚えて、引きあてているだけだ。
でも、この一行はそれとちがうことを言っている。
(——わたしの、いちばん奥)
符号を「読めた」と書いている。
ただ解いた、ではない。
なぜ、その順に並べたか。
なぜ、中身と道具を分けたか。
なぜ、まちがえても自分で気づける形に組んだか。
その底まで読んだ、と言っている。
底まで届くのは、表をなぞる人ではない。
わたしと同じところを見て、同じ順で考える人だけだ。
そうでなければ、あの底には手がとどかない。
◇◇◇
胸の奥で、三つのものがひとつにつながった。
村で見せられた、作者の知れない古い図面。入口をたしかめてから先へ進む、あの分け方。
押収された暗号文の、外から来たような手つき。
その束にまじっていたという、古い神の字の欄外の書きこみ。
どれも、だれかの残した跡だった。
跡は、ものに残る。
けれど、こちらを見てはいなかった。
いま、はじめて——その跡が声になった。
紙の向こうから、わたしへ、まっすぐ宛てて。
(——ひとりではなかった)
いつか、思ったことがある。
わたしのほかにも、世界をこう読む人がいるのかもしれない、と。
あのときは、まだ、かもしれない、だった。
いまは、ちがう。
いる。
わたしの書いたものの底まで読んだ人がこの世界のどこかにいる。
◇◇◇
胸のなかに、あたたかいものがひとつ点った。
ひとりではないのかもしれない。
そのことを、どこかでずっと待っていた気がした。
声にしたことはなくても、ずっとどこかで、その人をさがしていたのだと思う。
けれど、すぐ後ろからつめたいものが追いついてくる。
紙のはしをつまんだ指に、力がこもっていた。
読まれた、ということは。
わたしがいちばん隠してきたものに。
いちばん近いところまで、もうだれかが来ている、ということだ。
眼のこと。前世のこと。
だれにも言えずに、底の底にしまってきたもの。
その手前まで、顔も知らない人がもう立っている。
明るいところへ出たとたん、影のいちばん濃い場所を見抜く人が現れた。
光が強ければ、影は濃くなる。
このあいだ王都の通りで、そう思い知ったばかりだった。
それがこんなに早く、こんな形で当たるなんて。
喉のあたりがつめたくなった。
◇◇◇
頭の隅を、昔きいた話がかすめた。
遠いむかし、世界をこう読む目を持つ者がいて、世界の外へ消えた、という話。
まさか、と打ち消した。
そんな古い言い伝えに、いまのこれを結びつけるのははやすぎる。
この人がだれで。
いつの人で。
味方なのか、そうでないのか。
なぜ、いま。
なにひとつ、わからなかった。
わかるのは、ただひとつだけ。
わたしの書いたものを底まで読んだ人がたしかにいる。
それだけだった。
◇◇◇
荷の上の、藍色の封書に手をのばした。
学院の招待状——自分で選んで、向かうと決めた先だ。
それを、左の手に取る。
もう一方の手には、宛名のない灰緑の手紙。
向かう先に、もうわたしを読んでいるだれかがいる、というしるし。
行く道の先にあるのが光なのか闇なのか、まだわからないもの。
両の手に、一通ずつ。
胸のまえで、そっと合わせるように握った。
厚い紙の角と、もろい蝋のかけらがてのひらに触れた。
学院へ行く。
それは、変わらない。
ただ、向かう道の先に、知らない目がひとつ待っている。
◇◇◇
戸のそばで、お父さんが旅の荷の紐を締めなおしていた。
きつく引いて、結びめを指の腹で押さえる。
わたしがしばらく動かずにいるのを、見ていたはずだ。
それでも、なにを持っているとは訊かなかった。
ただ結びめから手をはなして、こちらを一度だけ見た。
「……どうした」
低い声だった。
「ううん」とわたしは答えた。「なんでもない」
お父さんは、それ以上は訊かなかった。
また、手もとに目を落とす。
部屋に、朝の光がゆっくり満ちてくる。
わたしは、二通の手紙をもう一度つよく握った。
握ったまま、しばらく立っていた。
■あとがき・解説
第185話は、二通目の手紙が届く回です。前の回でリナは、学院の招待状を受け取り、「学院へ行く」とはじめて声に出しました。その数日後の朝、便りの束のなかに、一通だけ毛色のちがう封書が交じっています。宛名がありません。差出人の名もありません。届けた使いに訊いても、「託された」というだけで、誰からのものかわからないのです。
封蝋は、王都で見慣れた紅でも、学院の藍でもありません。苔のような、古い水のような、見たことのない灰緑の色をしています。割って中をあらためると、紙には一行だけ書かれていました。「あなたの書いた符号は、わたしには読めました」。署名も、日付もありません。
リナの作った符号は、もう何人もの人が読んでいます。信号士は煙を字に直し、用人は覚書で荷の知らせをやりとりします。けれど、あの人たちが読むのは「表」です。この手紙の主は、そうではありません。なぜその順に並べたのか、なぜ中身と道具を分けたのか——符号の「底」まで読んだ、と書いています。底まで届くのは、リナと同じところを見て、同じ順で考える人だけ。つまりこの手紙は、リナが世界をどう読んでいるかを、顔も知らない誰かが、もう見抜いている、という報せなのです。
これは、リナにとって、希望でもあり怖さでもあります。ひとりではないのかもしれない——ずっとどこかで待っていた手応えです。けれど同時に、いちばん隠してきたものの、いちばん近いところまで、もう誰かが来ている、ということでもあります。明るいところへ出たとたん、いちばん濃い影を見抜く人が現れた。相手が誰で、いつの人で、味方なのかどうか——なにひとつわかりません。わかるのはただ、確かにその人がいる、ということだけ。リナは、学院の招待状と、宛名のない手紙と、二通を握りしめて立ち尽くします。ここで第2部「通信」の幕が下ります。
今回は、「宛名のない手紙」「符号」「二通の手紙」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「宛名のない手紙」——託された、とだけ
受取人の名も、差出人の名も書かれていない封書です。封蝋だけが、ぽつりと押してあります。色は灰緑——藍でも紅でもない、くすんだ、古い水のような色。押された印も、獅子でも剣でもひらいた本でもなく、細い線が幾本か、内から外へほどけて流れていくような、見たことのない形です。届けた門の使いも、差出人を知りません。「託された」というだけ。誰に礼を言えばいいのかさえわからない、宙に浮いた一通です。受け取りの違和感を、紙の色、蝋のもろさ、においのなさ——指の先の感じで書きました。藍色の封蝋を「ぱき」と割った前の回とちがって、この古い蝋は「ほろ」と崩れます。同じ封でも、手ざわりがまるで別です。
■「符号」——表と、底
リナが世に出してきた符号は、いくつもあります。短い煙と長い煙の組み合わせ、言葉を入れかえる覚書、物を数える塔に順を追って読ませる命令の列。これらを読む人は、もうたくさんいます。けれど、その人たちが読んでいるのは「この煙はこの字」「この印はこの言葉」という、決まった対応の表です。手紙の主が「読めた」と言っているのは、そこではありません。なぜその順番なのか、なぜまちがえても自分で気づける形に組んだのか——リナが符号を組み立てる、いちばん奥のやり方そのものです。それを読めるのは、表をなぞる人ではなく、リナと同じように世界を読む人だけ。村で見た作者の知れない古い図面、外から来たような手つきの暗号、古い神の字の欄外書き——これまで点々と残っていた「跡」が、ここではじめて、リナへまっすぐ宛てた「声」になります。
■「二通の手紙」——向かう先と、もう読んでいる誰か
話の終わり、リナの両手には、二通の手紙があります。一通は、学院の招待状。自分で選んで、向かうと決めた先です。もう一通は、宛名のない手紙。向かう道の先に、もう自分を読んでいる誰かがいる、というしるしです。行く道の先にあるのが光なのか闇なのかは、まだわかりません。学院へ行く決意は変わらないけれど、その先には、もう知らない目がひとつ待っている。お父さんは、リナがなにを握っているのか訊きません。「どうした」と一度だけ声をかけ、「ううん」と返されると、それ以上は訊かずにまた手もとへ目を落とします。二通を握りしめて立ち尽くすリナの姿で、第2部「通信」はおしまいです。リナの足は、ひとつの謎を抱えたまま、次の場所——学院へと向かっていきます。
次の話もお楽しみに。




