第183話 旅立ちの予感
宿の部屋は、しんとしていた。
昼のあいだ耳をふさいでいた人いきれが嘘みたいに引いている。
そのしずけさがかえって耳についた。
机のうえで、燭の火が一本ゆれていた。
蜜蝋のあまいにおいがせまい部屋にこもっている。
窓の外では、春の終わりの夜気がしずかに流れていた。
もう、夜でも凍えない。
それでも、夏のぬるさにはまだ遠い。
その中ぐらいの空気がガラスごしに伝わってくる。
わたしは机のまえにすわって、手のひらほどの布包みをほどいた。
なかから、村のものが出てきた。
◇◇◇
ひとつは、押し花。
去年の誕生日に、ノラがくれた青い小さな花だった。
紙にはさんで持ってきたのに、もう色がすこし褪せている。
それでも、村の野の色がそこに残っていた。
つぎに、ノラの手紙。
たどたどしい字で、みじかく書いてある。
「はやく、かえってきて」
それだけ。
なんども読んだので、折り目がやわらかくなっていた。
最後に、母さんの声を思いだした。
これは、手のなかにはない。
旅に出る朝、竈のまえで母さんが言ったひとことだ。
「ごはんは、ちゃんと食べるんだよ」
たったそれだけのことがいまになって胸にしみた。
(——帰りたい)
その気持ちは、ほんとうだった。
村の路地。母さんの手。工房の鉄のにおい。
目をつぶれば、ぜんぶそこにある。
帰れば、また「リナ」にもどれる気がした。
転んで泣いた日も、芋を焦がした夕方も知っている、あの「リナ」に。
けれど——とすぐに思いなおす。
昼の大通りで、思い知ったばかりだった。
もう、昔の村ではない。
塔のうわさは、とっくに村まで届いている。
わたしの名前はわたしより先に、村の戸口で待っている。
帰ったところで、その名前がいっしょについてくる。
村は、もう隠れ場所ではなくなっていた。
押し花の青を、指の先でそっとなでた。
褪せた花びらは、思ったよりかさかさしていた。
◇◇◇
つぎに思いだしたのは、あの人の声だった。
学院から来た、しずかな目の人。
別れぎわに、あの人は言った。
「あなたのような人がいていい場所です」
「学院は古い場所です。わたくしの知らない奥も、たくさんあります」
そのときは、うまく飲みこめなかった。
いまも、よくわからない。
わたしのような者がいていい場所。
そう言われて、うれしくなかったわけではない。
知らない奥がある、と聞いて、すこし胸が鳴ったのもほんとうだ。
知らないものは、いつだってわたしの足を引っぱる。
引っぱられて、つい近づきたくなる。
けれど、あそこは読まれる場所でもあった。
あの、やさしい読む目が待っている場所。
近づけば近づくほど、しまったものに手がのびてくる。
(——落ちつかない)
行きたいのか、こわいのか。
自分でも、どちらともつかなかった。
◇◇◇
机のうえに、村のものと、学院の声が並んでいた。
どちらへ行っても、見られる。
どちらにいても、隠れられない。
それは、もうわかっていた。
だったら、どこへ行けばいいんだろう。
どこなら、誰の目もとどかないだろう。
そう考えて、手がとまった。
その問いには、もう答えが出ない。
村でも、学院でも、この王都でも。
どこにいても、見つかる。
きのうまでのわたしは、それをずっとさがしていた。
安全な隅。誰にも読まれない場所。
身をひそめて、小さくなっていられる場所。
そんな場所は、どこにもなかった。
さがしても、さがしても、ない。
行き止まりだった。
その壁にぶつかって、問いがひとりでにべつの形になった。
「どこなら隠れられるか」では、なくなっていた。
(——わたしはどこで、なにをしたいんだろう)
はじめて浮かんだ問いだった。
考えたことも、なかった。
ずっと追われることばかり、考えていたから。
その問いは、こわさを消してはくれない。
見られる、という事実はそのままだ。
それでも、追われて縮こまるのとはちがう心もちだった。
背すじがほんのすこしだけ、伸びた気がした。
◇◇◇
気づくと、わたしの手は机のはしの反故紙を引きよせていた。
書きそんじの、裏が白い紙。
旅のあいだ、なんとなく丸めずに取っておいたものだ。
もう一方の手は、炭をさがしていた。
炭は、すぐそこの筆箱に転がっていた。
指がそれをつまむ。
ひんやりして、すこしざらつく。
親指の腹に、黒い粉がうっすらとついた。
十三の指には、その炭がまだ太い。
前世のわたしなら、もっと細いもので、もっと速く描けた。
そのころの手つきを、頭はまだ覚えている。
それなのに、いまの指は短くて、握りもおぼつかない。
それでも、手はもう動こうとしていた。
(——この手だ)
こわいときも、決められないときも。
気づけばわたしの手は、なにかを作ろうとしている。
村にいたときも。王都に来てからも。
たぶん前世でも、毎日この手つきだった。
これだけは、こわさでも消せなかった。
逃げたいと思っても、手のほうが先に紙をさがす。
それがわたしの芯なのだと思った。
◇◇◇
戸のほうで、きい、と音がした。
お父さんが立てつけのわるい戸をいじっていた。
蝶番に、小さな油さしの先をあてている。
工房から持ってきた、見なれた道具だ。
油のにおいがふっと立った。
工房のにおいだった。
油を一てきさして、戸をそっと前後にうごかす。
きい、きい、という音がだんだん小さくなっていく。
やがて、音はすっかり消えた。
戸は、なめらかにひらいて、なめらかにとじた。
お父さんは満足そうに、ふうと息をついた。
ずっと黙って、手だけを動かしていた。
わたしが炭をにぎっているのには、気づいているはずだ。
それでも、なにを描くのかとは訊かない。
ただ、戸の音を消していた。
「……お父さん」
「ん」
わたしは紙のうえで炭をとめたまま、言った。
「わたし、まだ、どこへ行くか決められない」
お父さんは油さしの蓋をしめて、こちらを見た。
すぐにはなにも、言わなかった。
それから、低い声でぽつりと言った。
「決めなくていい」
「ただな、リナ」
お父さんは戸を、もう一度そっとうごかした。
音はもう、鳴らない。
「逃げるのと、向かうのは、足の向きがちがう」
意味がすぐには、わからなかった。
「逃げるときはな、うしろを見る」
「だれに追われてるか、たしかめる。隠れ先をさがす」
お父さんは油さしを布でぬぐった。
「向かうときは、前を見る。行きたい先を、自分で決める」
それだけ言って、また手もとに目を落とした。
どっちにしろ、とは言わなかった。
学院へ行け、とも、村へ帰れ、とも。
ただ、足の向きのちがいだけを、わたしのまえに置いていった。
(——前を見る足)
胸のなかで、その言葉をくりかえした。
◇◇◇
わたしは机の村のものに、目をもどした。
押し花。ノラの手紙。母さんの声。
どれも、大事だった。
でも、それをにぎりしめて、ここにじっとすわっているのは、もうちがう気がした。
村へ帰るのか、学院へ行くのか。
まだ、なにひとつ決めていない。
行き先の名前も、まだ出てこない。
それでも、ひとつだけわかったことがあった。
このまま、ここに座ったままではいられない。
近いうちに、きっとどこかへ足をむける。
うしろを見て、隠れ先をさがす足ではなく。
前を見て、自分で選んだほうへ。
わたしは村のものを、もとの布にそっと包みなおした。
押し花を、いちばん上に。
それから、机のまんなかに、まっさらな紙を一枚ひいた。
書きそんじではない、なにも描いていない紙。
炭の先を、その白いうえへおろす。
ひんやりした指のさきに、紙のざらつきが伝わってきた。
こつ。
炭の先が紙に触れた。
かり、と乾いた音をたてて、一本めの線がのびていく。
どこへ向かう線なのかは、まだわからない。
それでも、その線は——うしろではなく、前へのびていた。
■あとがき・解説
第183話は、宿の夜の一室の回です。昼の大通りで「どこにも逃げ場がない」と思い知ったリナが、村のもの——ノラの押し花、たどたどしい字の手紙、母さんの「ごはんは、ちゃんと食べるんだよ」——を前に、静かに揺れます。派手な出来事は起きません。リナの頭のなかで、問いの形がひとつ変わる。今回の山は、それだけです。
ずっとリナは「どこなら隠れられるか/どこが安全か」をさがしてきました。けれど村でも学院でも王都でも見つかってしまうとわかった以上、その問いにはもう答えが出ません。行き止まりです。その壁にぶつかったとき、問いがひとりでにべつの形になります——「隠れられる場所はどこか」ではなく、「わたしはどこで、なにをしたいのか」へ。怖さが消えたわけではありません。でも、追われて縮こまるのとは、足の向きがすこしだけちがいます。
今回は、「押し花」「足の向き」「一本めの線」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「押し花」——褪せても残る村の色
去年の誕生日にノラがくれた、青い小さな花を紙にはさんだものです。色はすこし褪せても、村の野の色がそこに残っています。リナにとっては「帰りたい」気持ちの手ざわりであり、同時に「もう昔のままでは帰れない」ことを噛みしめる品でもあります。塔のうわさはとっくに村まで届いていて、リナの名前はリナより先に村の戸口で待っている。だから村も、もう昔の隠れ場所ではなくなっている——その切なさが、褪せた花びらのかさかさした手ざわりに重なります。
■「足の向き」——逃げる足と、向かう足
お父さんがリナに置いていった言葉です。戸の蝶番に油をさして、きしむ音を消しながら、お父さんは言います。「逃げるのと、向かうのは、足の向きがちがう」。逃げるときは、うしろを見て隠れ先をさがす。向かうときは、前を見て行きたい先を自分で決める。やっていることは同じ「歩く」でも、足の向きがちがう——リナの中で起きた問いの転換を、お父さんは「足の向き」で言い当てます。決めろとも、どっちにしろとも言いません。答えは示さず、足の向きのちがいだけを、リナのまえに置いていきます。前の回までのお父さんの支え方——「娘を見る」「名前はあっちのもの」とはまた別の角度から、リナの背中をそっと押す言葉です。
■「一本めの線」——前へのびる炭の跡
なにも描いていないまっさらな紙に、炭の先で「こつ」と置いた最初の線です。怖い・決められないと思いながらも、気づくとリナの手は反故紙を引きよせ、炭をにぎっている。これがリナの芯です。怖さでも消せない、作ることをやめられない手。十三の指にはまだ炭が太くて、握りもおぼつかないけれど、それでも手のほうが先に動いてしまう。引いた一本めの線が、どこへ向かう線なのかは、リナ自身にもまだわかりません。それでも、うしろではなく前へのびています。リナはこの回でまだ何も決めません。村へ帰るとも、学院へ行くとも。けれど、足の向きだけは変わりました。旅立ちの「予感」まで、の回です。ここから、リナの足はどこへ向かうのか。
次の話もお楽しみに。




