第182話 見つけられすぎる怖さ
王都の大通りは朝から人で埋まっていた。
焼きたてのパンのにおいが風に乗って流れてくる。
その下に、香辛料のつんとくるにおいと、土ぼこりがまじっていた。
荷車の車輪が石畳をきしませて、すぐ横をかすめていく。
呼び売りの声。
値切りの声。
鍋を底から打つ音。
それがいちどに耳へ流れこんできて、頭の芯がじんと痺れた。
わたしはお父さんの半歩うしろについて歩いた。
人いきれが両側からゆっくり押してくる。
背の高い大人たちの肩があちこちでわたしの視界をふさいだ。
人の波にのまれそうになるたび、お父さんの背中をさがした。
紺の上着の、見なれた幅。
それを目じるしに、足を運ぶ。
王都の大通りは、いつ来てもこの調子だった。
村の路地なら、目をつぶっても歩けるのに。
◇◇◇
すれちがいざま、ひとりの女の人がこちらを振りかえった。
連れの男に、なにか小さく言う。
「——あの子だよ」
足がとまりかけた。
すこし行くと、店先の男たちもこちらを見ていた。
「ほら、塔の」
「グレンフィールドの鐘時計師の、娘さんだとさ」
声はどれも小さかった。
わたしに聞かせるつもりのない、ひそひそ声。
それなのに人いきれの底をくぐって、まっすぐ耳までとどく。
(——わたしのことだ)
顔も知らない人たちがわたしの名前を口にのせている。
うなじのあたりに、見られているという感じがはりついた。
ふりむいても、誰がそう言ったのかはわからない。
人波はもう、なにごともなかったように流れている。
それでも、視線だけがいくつも背中に残った。
◇◇◇
村でも、わたしは「リナ」と呼ばれていた。
母さんが呼ぶ「リナ」。
ノラが呼ぶ「リナ」。
工房でお父さんが呼ぶ「リナ」。
その「リナ」には、ぜんぶがついていた。
ぬかるみで転んで、わんわん泣いた日のこと。
芋を真っ黒に焦がした夕方のこと。
お父さんのとなりで、長い図面を写しとった午後のこと。
呼ばれるたびに、その人の知っているわたしのぜんぶがいっしょに立ちあがる。
あたたかい名前だった。
名前のなかに、家のにおいまでこもっていた。
朝の竈の煙。
母さんの手の、石けんのにおい。
そういうものがぜんぶ「リナ」だった。
でも、この大通りで聞こえる「リナ」はちがった。
転んだことも、芋のことも知らない人の口にのっている。
うすい一枚の紙みたいな、名前。
顔のない、ただの記号。
だれかの口にのるたび、その「リナ」がすこしずつふくらんでいく。
わたしの知らない「リナ」が、王都のあちこちで歩きだしていた。
(——同じ名前なのに)
自分の名前が自分の知らないところで、知らない人の手でかたちを変えられていく。
それがうすら寒かった。
◇◇◇
有名になった。
口でなら、そう言える。
でも、それだけのことではなかった。
うれしいわけでも、ほこらしいわけでもない。
ただ、こわかった。
わたしは誰にも見られてはいけないものを抱えていた。
眼のこと。
陣のこと。
前世のこと。
それを胸の奥にしまったまま、いちばん明るいところに立たされていた。
そこは、いちばんよく見える場所だ。
見えるということは、見られるということ。
みんながわたしの引いた線を読もうとする。
読まれれば読まれるほど、しまったものの近くまで手がのびてくる気がした。
(——光が強いほど影は濃くなる)
王さまの前で感じた、あの背中の寒さとおなじだった。
隠しごとほど、灯りの下では見つかりやすい。
気づくと、肩がすぼまっていた。
人混みのなかで、すこしでも小さくなろうとして。
でも、縮こまってもむだだった。
明るいところに立つかぎり、見られることからは逃げられない。
それがわかっていても、肩の力はぬけなかった。
◇◇◇
数日まえに会った人のことを思いだした。
学院から来た、しずかな目の人。
あの人の目はちがった。
値踏みでも、欲しがる目でもない。
ただ、読んでいた。
本の一行を指でなぞるみたいに、わたしの引いた線を、ゆっくりと。
あのとき感じた落ちつかなさがいまもよみがえる。
欲しがられるより、ただ読まれるほうがおそろしい。
そう気づいたのは、あの部屋を出てからだった。
やさしい人だったと思う。
でも、だからこそこわかった。
きびしい目なら、身をかたくして耐えればいい。
やさしい目はするりと奥まで入ってくる。
しまった層の、いちばん近いところまで。
(——読まれたくない)
そこだけは誰にも知られたくなかった。
王さまの目も。
貴族の目も。
あの、やさしい読む目も。
近づいてくるその一点だけは、どれもおなじだった。
◇◇◇
なら、村へ帰ればいいのだろうか。
そう考えて、すぐに首をふった。
もう、昔の村ではない。
塔のうわさはもう村まで届いていた。
わたしの名前はわたしより先に、村の戸口で待っていた。
帰ったところで、「グレンフィールドのリナ」がついてくる。
ここにいても、見られる。
村に帰っても、おなじだった。
(——どこにも)
逃げ場が、ない。
足のうらがすうっと冷えた。
前世でも、似たような話を聞いた気がする。
名前だけが本人を置いて、どこまでも歩いていってしまう人たち。
当人はただ生きているだけなのに、名前のほうが大きくなっていく。
遠くの誰かが勝手に好いたり、嫌ったりする。
頭ではその感覚を知っていた。
でも、頭が知っていても、十三の肩はちぢこまる。
気づけば、手がお父さんの上着のはしをさがしていた。
◇◇◇
お父さんはなにも言わずに歩いていた。
ただ、わたしの右がわをはなれない。
人混みが濃いのは、きまって右がわだった。
お父さんはその濃いほうへ、自分の身体をよせていた。
大きな肩で、人の目をさえぎるように。
荷車の壊れやすい荷を、手のひらで庇うときの、あの手つき。
そうして、わたしを通りの内がわへ入れてくれた。
お父さんの上着から、鉄と油のにおいがした。
工房でいつも嗅いでいる、安心するにおい。
人いきれのにおいがそれで一枚へだてられた。
わたしは半歩うしろから小さくきいた。
「……お父さんにも、聞こえてる?」
「ああ」
お父さんは前を向いたまま、短くこたえた。
「こわく、ない?」
すこし間があった。
「こわいさ」
意外な言葉だった。
お父さんでも、こわいのか。
そう思うと、なぜだか肩の力がすこしゆるんだ。
「人にじろじろ見られて、こわくないやつはおらん」
荷車が一台、目のまえを通りすぎていく。
それから、お父さんは前を向いたまま言った。
「だがな、リナ」
「名前は、あっちのものだ」
低い声だった。
「あいつらが呼んでるのは、お前のことじゃない」
「お前の、名前だ」
お父さんは荷車の流れに目をやった。
「名前ってのは、ひとりで歩く。手紙とおなじでな」
「いちど出してしまえば、もう呼びとめられん」
足音がすこしゆっくりになった。
「だが、お前はここにいる」
「俺の、すぐとなりだ」
こっち。
お父さんの、すぐとなり。
塔も、数字も、名前も見ない場所。
ただの娘が立っていていい場所。
(——ここにいる)
胸の奥の寒さが消えたわけではなかった。
それでも足のうらに、石畳のかたさがもどってきた。
◇◇◇
わたしはお父さんの上着のはしを、指でつまんだ。
子どもみたいだと思いながら、どうしてもはなせなかった。
お父さんはなにも言わない。
ただ、わたしの歩幅にあわせて、いつもの半分くらいの速さで歩いてくれた。
急かされないというだけで、息がすこし楽になった。
人いきれがうしろへすこしずつ遠ざかっていく。
大通りのはずれから、鉄を打つ音が流れてきた。
かあん、かあん。
工房の音だ。
誰かが鉄を打っている。
名前のことも、塔のことも知らずに。
ただ、いい仕事をしようとして。
聞きおぼえのある、まっすぐな音。
あの音はわたしを名前で呼んだりしない。
わたしはその音のほうへ顔を上げた。
それから、つまんだ上着のはしを、もうすこしだけ強くにぎった。
■あとがき・解説
第182話は、大きな出来事が起こる回ではありません。リナがお父さんと王都の大通りを歩く、ただそれだけの回です。けれどその道すがら、すれ違う知らない人たちが「あの子だよ」「ほら、塔の」と振り返って囁く。認められること、知られることが、リナのなかでだんだん「怖さ」に変わっていく——その内側を、雑踏のなかの身体の感覚といっしょに描きました。これまで積み上げてきた「見つけられやすくなった」という薄い寒さが、ここでいちばん濃くなります。
今回は、「記号になった名前」「光が強いほど影は濃くなる」「優しいから、よけいに怖かった」「逃げ場が、ない」「名前は、あっちのものだ」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「記号になった名前」——村の「リナ」と、王都の「リナ」
村で「リナ」と呼ばれるとき、その名前にはぜんぶがついていました。ぬかるみで転んで泣いた日のこと。芋を真っ黒に焦がした夕方のこと。お父さんのとなりで図面を写しとった午後のこと。竈の煙や、母さんの手の石けんのにおいまで、まるごと「リナ」でした。呼ばれるたびに、その人の知っているリナのぜんぶがいっしょに立ちあがる、あたたかい名前です。ところが王都の大通りで聞こえる「リナ」は、転んだことも芋のことも知らない人の口にのっています。うすい一枚の紙のような、顔のない記号。自分の名前が、自分の知らないところで、知らない人の手でかたちを変えていく——その薄気味わるさが、この回の入り口です。
■「光が強いほど影は濃くなる」——有名になった、では済まない
ただ有名になった、と言ってしまえば、それだけのことかもしれません。でもリナにとっては、うれしいでも、ほこらしいでもなく、ただ怖い。なぜなら、リナは誰にも見られてはいけないものを胸の奥に抱えているからです。眼のこと。陣のこと。前世のこと。それを隠したまま、いまいちばん明るいところに立たされている。明るい場所はよく見える場所で、よく見えるということは、よく見られるということ。みんながリナを読もうとすればするほど、しまっておいたものの近くまで手がのびてくる気がします。光が強いほど、影は濃くなる。ずっと前から積もっていた「見つけられやすくなった」という寒さが、ここで本当の怖さになりました。
■「優しいから、よけいに怖かった」——読む目の記憶
数日前に会った、学院の静かな目の人。あの人はリナを値踏みもせず、欲しがりもせず、ただ「読んで」いました。やさしい人だったと思います。でも、だからこそ怖い。きびしい目なら身をかたくして耐えればいい。けれど、やさしい目はするりと奥まで入ってくる。しまった層の、いちばん近いところまで。王さまの目も、貴族の目も、あのやさしい読む目も、近づいてくるその一点だけは、どれもおなじでした。優しさで踏みこまれる怖さ、というのは、ちょっと言葉にしにくい感覚かもしれません。
■「逃げ場が、ない」——村に帰っても、もう
では村へ帰ればいい、と思って、リナはすぐに首をふります。もう、昔の村ではないのです。塔のうわさはもう村まで届いていて、リナの名前はリナより先に村の戸口で待っている。帰ったところで「グレンフィールドのリナ」がついてくる。ここにいても見られる、帰っても見られる。どこにも、逃げ場がない。名前だけが本人を置いてどこまでも歩いていく、という感覚を、リナは前世でも遠くから知っていました。頭ではわかっていても、十三の肩はちぢこまり、手はいつのまにかお父さんの上着のはしをさがしています——この、頭と身体のずれが、まだ子どものリナらしいところです。
■「名前は、あっちのものだ」——お前は、こっちにいる
そんなリナのとなりで、お父さんはなにも言わずに、ただ人の波の濃いほうへ自分の身体をよせて歩いてくれます。荷車の壊れやすい荷を庇うときの、あの手つきで。リナが「こわくない?」ときくと、お父さんは「こわいさ」と正直にこたえます。お父さんでも怖いのか、と思うと、不思議と肩の力がすこしゆるみました。そして前を向いたまま、ぽつりと言います。「名前は、あっちのものだ。あいつらが呼んでるのは、お前のことじゃない、お前の名前だ」。名前は手紙とおなじで、いちど出してしまえばもう呼びとめられない。けれど、お前はここにいる、おれのすぐとなりに——塔も数字も名前も見ない場所に、ただの娘として立っていていい。怖さが消えたわけではありません。それでも、足の裏に石畳のかたさが戻ってきました。この回でリナはまだ何も決めませんが、見つけられすぎる怖さと、逃げ場のなさを、はっきり自分のものとして抱えます。ここから、リナの足はどこへ向かうのか。
次の話もお楽しみに。




