第181話 学院の使者
宮殿の応接の一室は、しんと暖まっていた。
卓のうえで、ふたつの茶碗から湯気がまっすぐ立っている。
その湯気に、乾いた紙のにおいがまじっていた。
埃っぽくて、すこし苦い。
窓から春の光が差しこんで、床の敷物をぬるくあたためている。
わたしは椅子の浅いところに腰かけて、膝のうえで手をかさねていた。
宮殿の部屋には、もう何度も通された。
それでも、この静けさにはまだ慣れない。
背すじがひとりでにのびて、足の裏が落ちつかなかった。
向かいに、ひとりの女の人が座っている。
「リナ嬢」
横からテオドール様の声がした。
「こちらが、学院のミラ・カイザーさんです」
痩せて背の高いいつもの学者さんがめずらしく言葉をえらんでいた。
「理事長の、補佐をなさっている」
それだけ言うと、テオドール様は壁ぎわへ一歩さがった。
あとはふたりで、という顔だった。
◇◇◇
女の人がゆっくりと頭をさげた。
「ミラ・カイザーと申します」
低くはない、しずかな声だった。
一語ずつ、卓のうえにそっと置いていくような話し方。
「学院で、理事長の補佐をしております」
歳は、母さんよりすこし上だろうか。
髪をきっちりと結って、化粧の気配はない。
旅装を解いたばかりらしい外套は、地味だけれど仕立てがよかった。
急いで来た人の身なりではない。
かといって、めかしこんでもいなかった。
骨ばった指が膝のうえでしずかに組まれている。
そして、目。
わたしを見るその目に、まばたきがすくなかった。
じっと見ているのに、にらまれている感じはしない。
これまで、いろんな目に見られてきた。
値踏みする、貴族の目。
鉄の目方を量る、ヘルムさんの目。
理屈の筋を追う、グランツ卿の目。
人の奥まで見とおす、王さまの目。
でも、この人の目はそのどれともちがった。
なんというか——読む目だった。
急がない。
せかさない。
本の一行を指でなぞるように、ゆっくりとたどっていく。
(——読まれている)
背中のあたりを、そっとなぞられているみたいだった。
こわいのとは、ちがう。
ただ見られているのとも、ちがった。
◇◇◇
ミラさんは茶碗にふれずに口をひらいた。
「あなたの仕事を、学院はずっと読んでいました」
え、と思った。
「光をつないで言葉をはこぶ、塔の網」
ひとつ、卓に置く。
「字を入れかえて、読めなくする覚書」
もうひとつ。
「物を数える、塔」
みっつめを置いて、ミラさんは小さくうなずいた。
「遠くから、紙のうえでたどらせていただきました」
王都に来てから、見られることには慣れたつもりでいた。
紅い蝋の招き。
数字をならべた書状。
どれも、わたしのうしろにあるものを欲しがっていた。
塔の値うち。
名前の値うち。
囲っておけば、ほかには渡らないという見こみ。
でも、この人の言い方はちがった。
欲しい、とは言わない。
量る、という匂いもしない。
ただ、読んでいた、と言う。
(——それがいちばん落ちつかない)
欲しがられるより、ただ読まれているほうがこわい。
足のうらがすうすうした。
◇◇◇
ミラさんはすこし間をおいた。
それから、いちばん知りたいことをしずかに置いた。
「あなたはなぜ、そこまで順番にこだわるのですか」
どきり、とした。
王さまにも、似たことを訊かれた。
どこでそれを思いついたのか、と。
でも、この問いは角度がちがった。
王さまは、わたしのうしろをのぞこうとした。
この人は、わたしの引いた線そのものから、なぜ、を読みとろうとしている。
図のかたちがもう問いになっていた。
(——どこまで見えているんだろう)
ここで、ほんとうのことは言えない。
順番がだいじなのは、前世で知ったからだ。
言葉の底の、誰も見ない層を指でたどって図を組みあげているからだ。
順番がひとつ狂うだけで、世界はまるでちがうものを読みとってしまう。
けれど、それはぜんぶ呑みこんだ。
(——だめ)
言ってしまえば、ぜんぶがほどけてしまう。
膝のうえの手に力がこもる。
椅子に浅くかけた足の先が床からすこし浮いた。
つま先をそっと床へおろす。
だれにも気づかれないように。
頭は大人の理屈をならべている。
けれど身体はまだ十三だった。
わたしは見える言葉だけをえらんで口にした。
「順番が狂うと……つたえたかったことが別のものに変わってしまうんです」
声がすこしふるえた。
「だから、途中でまちがえても自分で気づける形にしておきたくて」
嘘では、なかった。
ただ、いちばん奥のところだけ、また呑みこむ。
ミラさんはしばらくわたしを見ていた。
読んでいた、のだと思う。
わたしが口にした言葉の、もうひとつ下まで。
でも、そこで止まった。
奥に何かがあると気づいても、こじあけようとはしなかった。
読んだ、というところでしずかに立ちどまった。
「……なるほど」
ミラさんは、それだけ言った。
◇◇◇
ふと気づいた。
ミラさんの手もとに、封書も紙の束もなかった。
学院から来た人なのに、なにも持っていない。
「今日は」
ミラさんははじめて、湯気のたつ茶碗に目をおとした。
「お渡しするものを、持ってきていません」
そして、またわたしを見た。
「今日はただ、あなたに会いにきました」
会いに。
その言葉がふしぎだった。
用件があって来た人の、言い方ではなかった。
「いずれ」
ミラさんはゆっくりつづけた。
「あなたを、お招きしたいと思っています」
招く。
どこへ、とは言わなかった。
でも、わかった。
学院、というあの遠い灯りのほうへ。
数日まえ、ヘルムさんがその名を口にしたとき、灯りは形のない遠さにあった。
それがいま、目のまえに座っている。
顔と声を、もっていた。
「あなたのような人が、いていい場所だと、わたくしは思っています」
静かな声だった。
それから、すこし目を伏せる。
「学院は」
ひと呼吸おいて、ミラさんはつづけた。
「古い場所です」
茶碗のふちを、骨ばった指がなぞる。
「わたくしが補佐をしておりますけれど……わたくしの知らない奥も、たくさんあります」
古い書庫も。
古い人も。
そう言って、ミラさんは口をつぐんだ。
その、いちばん最後のところに——なにか、もうひとつ深いものの気配があった。
古くて、大きくて、底の見えないもの。
(——なんだろう)
それが何なのかは、わからなかった。
ただ、その気配だけがしばらく耳のおくに残った。
ミラさんも、そこから先は言わなかった。
◇◇◇
茶は、まだ手をつけていなかった。
ふたつの茶碗のうえに、うすい膜が張りはじめている。
春の光を、にぶく弾いていた。
帰りたい道がいっぽうにある。
すすけた紙のにおいのする、せまくてあたたかい村。
進む道がもういっぽうにある。
さっきまで、形さえ見えなかった道。
その道に、いま、顔と声がついた。
声には、においがあった。
乾いた紙の、すこし苦いにおい。
さっきからずっと、この部屋にうすく満ちていた。
(——どっちへ)
きのうより、わからなくなった。
形のなかったものに声と顔がつくと、足はよけいに動かなくなる。
遠くの灯りなら、見ていればよかった。
けれど、その灯りが目を見て話しかけてくる。
わたしは膝のうえで手をにぎりなおした。
にぎっても、こたえは出てこなかった。
◇◇◇
面談がおわって、わたしは応接の間を出た。
廊下は、石の冷えがそのまま立っていた。
日のあたらない場所だった。
そこに、お父さんが立っていた。
お父さんは平民だから、あの部屋には入れない。
ずっと、この石のそばで待っていたのだ。
(——待っててくれたんだ)
わたしを見ると、お父さんはなにも訊かなかった。
ただ、大きな手をわたしの頭にのせた。
廊下の石で冷えた、つめたい手。
そのつめたさになぜだかほっとする。
張っていた肩がすこしだけさがった。
外へ出ると、春の光がまっすぐ落ちてきた。
石畳に、ふたつの影がのびる。
大きい影と、小さい影。
小さいほうの影の足の先は——まだ、どこへも向いていなかった。
■あとがき・解説
第181話は、前回ヘルムさんが遠くからゆびさした「学院」という灯りが、ついに顔と声を持ってリナの正面に座る回でした。やってきたのは、学院で理事長の補佐をしているミラ・カイザーさん。今までリナが王都で会ってきた誰とも違う、静かな「読む目」を持った人です。奪うでも量るでもなく、ただリナの仕事を読んでいた——その落ち着かなさと、隠しごとを抱えたまま深く読まれる怖さ、そして帰る道と進む道の綱引きが一段深まる様子を、静かな会話劇として描きました。
今回は、「読む目」「ただ読んでいた」「見える言葉だけ」「いずれ、お招きしたい」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「読む目」——量るのでも、見透かすのでもなく
リナはこれまで、たくさんの目に見られてきました。値踏みする貴族の目。鉄の目方を量るヘルムさんの目。理屈の筋を追うグランツ卿の目。人の奥まで見とおす王さまの目。けれどミラさんの目は、そのどれとも違いました。急がず、せかさず、本の一行を指でなぞるように、人が引いた筋道をゆっくりたどっていく——そういう「読む目」です。にらまれている感じはしないのに、背中のあたりをそっとなぞられているような心地。こわいのとは違う。ただ見られているのとも違う。学者の目に「読まれる」という、初めての感覚でした。
■「ただ読んでいた」——欲しがらない人の落ち着かなさ
ミラさんは言います。「あなたの仕事を、学院はずっと読んでいました」。光をつなぐ塔の網、字を入れかえる覚書、物を数える塔。そのすじを、遠くから紙のうえでたどっていた、と。王都に来てから、リナはたくさんの招きや書状を受け取ってきました。そのどれもが、リナのうしろにあるもの——塔の値うちや名前の値うち——を欲しがるものでした。でもミラさんは、欲しいとも言わず、量る匂いもさせず、ただ「読んでいた」と言います。欲しがられるより、ただ読まれているほうが、なぜだか足の裏がすうすうする。奪う気配がないからこそ落ち着かない、というのは、ちょっと不思議な感覚かもしれません。
■「見える言葉だけ」——呑みこんだ、いちばん奥のところ
ミラさんはやがて、いちばん知りたいことを静かに置きます。「あなたはなぜ、そこまで順番にこだわるのですか」。王さまは「どこで思いついたのか」とリナのうしろをのぞこうとしましたが、ミラさんは違います。リナが引いた線そのものから「なぜ」を読み取ろうとしてくる。図のかたちが、もう問いになっている。ここで本当のことは言えません。順番がだいじなのは前世で知ったから。言葉の底の、誰も見ない層を指でたどって図を組んでいるから。でもそれは、ぜんぶ呑みこみました。膝の手に力がこもり、椅子から足の先が浮く——頭は大人の理屈をならべても、身体はまだ十三です。リナが口にできたのは「見える言葉だけ」。嘘ではないけれど、いちばん奥のところは、また呑みこみました。そしてミラさんは、その奥に何かあると気づいても、こじあけずに「読んだ」というところで静かに立ちどまります。
■「いずれ、お招きしたい」——今日は、会いに来ただけ
ふと気づくと、ミラさんの手もとには封書も紙の束もありません。学院から来た人なのに、なにも持っていない。「今日は、お渡しするものを持ってきていません。今日はただ、あなたに会いにきました」。そして「いずれ、お招きしたい」とだけ告げます。どこへ、とは言わない。けれど、わかる。学院という、あの遠い灯りのほうへ。数日前は名前だけだった灯りが、いま顔と声を持って目の前に座っています。「学院は、古い場所です。わたくしの知らない奥も、たくさんあります」——その言葉のいちばん最後に、リナは何かもうひとつ、古くて大きくて底の見えないものの気配を感じます。それが何なのかは、まだわかりません。面談が終わって廊下に出ると、平民ゆえ部屋に入れず待っていたお父さんが、冷えた大きな手をそっと頭にのせてくれました。石畳に伸びた小さな影の足の先は、まだどこへも向いていません。帰る道と進む道の綱引きは、ここからもう少し続きます。
次の話もお楽しみに。




