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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑥「世界が、見つける」

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176/211

第176話 塔の見た朝

蔵の朝は、底のほうから冷えていた。


土間の冷たさが薄い沓を通して、足の裏へのぼってくる。

夜のあいだに火の落ちた石は、ひんやりと黙りこんでいた。

ゆうべの焼けた石のにおいは、もう薄い。


高い窓の外で、まだ青いままの朝の光がゆっくりと白んでいく。


(——昨日の今ごろは、まだ何も決まっていなかった)


わたしは塔の前に立っていた。


誰よりも早く、宿を出てきた。

じっとしていられない。

壊されないと決まった塔を、もう一度この目で確かめたかった。


ゆうべは宿に戻っても、なかなか寝つけなかった。

眠ったのか起きていたのか、自分でもよく分からない。


首をまわすと、節の奥で鈍い音がした。


肩が石みたいに固い。

指の関節がひとつずつ、腫れぼったく痛む。

手のひらの真ん中に、見えない重しが乗っているようだった。


この手で、何百という石を並べた。

枠を直し、布を掛け替え、また直した。

そのときは痛みなど感じる暇もなかった手だ。

今朝になって覚えていた疲れを手がいっせいに返してくる。


前世なら、徹夜の明けた朝は、かえって頭が冴えた。

机に伏せて少し眠れば、それですぐ切り替わった。

今の身体は、そうはいかない。


ひと晩明けても、昨日の強ばりがそっくり残っている。

喜ぶのも、こんなに遅い。


(——あれは、本当に起きたことだ)


その当たり前のことが今ごろになってようやく胸の底へ降りてきた。


ここ数日は、走りどおしの日々。

直して、また直して、人の前で動かして、息をつめて沙汰を待った。

喜ぶ間も、ほっとする間もない。


走るのをやめた今朝になって、足がようやく自分の重さを思い出していた。


胸のずっと下のほうで、何かがゆっくりとほどけはじめる。

ずっと張っていた糸が片端からほどけていく、そんなふうに。


動いた。

壊されずに、すんだ。


その二つが冷えた手のひらの上に、重たい石みたいに乗っている。


◇◇◇


土間の向こうで、人の動く気配がした。


技師たちはいつもどおり朝の仕事を始めている。

桶の水を運ぶ者。

冷えた石の枠を点検する者。

布の束を解いて、皺を伸ばしている者。


昨日まではこの音のひとつひとつに、胸がきしんでいた。

今朝は、ただの朝の音として耳に届く。


若い技師が桶を提げたまま、塔をちらりと見上げて、また下を向いた。

水をこぼさないよう運びながら、口もとがゆるんでいる。


何も言わない。

それでも、昨日とは足どりがちがった。


そのなかで、年かさの技師がひとり、手を止めていた。


腰を伸ばして塔を下から上へと見上げている。

石の棚が高く積み上がった、その天辺のあたりを。

日に焼けた顔の皺が朝の光で、深く見えた。


「……ほんとに、動いたんだなあ」


ひとりごとのような、低い声だった。


わたしに言ったのではない。

塔に言ったのでもない。

自分の目で見たものを、口に出して確かめているようだった。


この人は前に、動くところをこの目で見たい、と言っていた。

鉄や石の重さなら、いくらでも秤で量れる。

けれど、動く動かないだけは、この目で見るまで信じられん、と。


それがゆうべ叶ったのだった。


この人にとって、昨日のあれは、ただの仕事の成り行きではなかった。

長いこと見たいと願ってきた、その一回だった。


(——見て、くれていたんだ)


胸の奥がしずかに温かくなる。

肩の強ばりがほんの少しだけほどけた。


◇◇◇


戸口のほうから、足音が近づいてきた。


アディラだった。

小脇に帳面をかかえ、手には筆を持っている。


昨日のこの人は、ちがった。

夕方の蔵で、まっすぐな背の向こうが透けて見えるほど、薄くなっていた。

動かぬ塔をどう庇えばいいのか、その言葉が見つからない、と。


そのアディラが今朝は筆を握って立っている。


「おはよう」


声に、昨日の乾いた感じがなかった。


「昨日はね」


帳面を開いて、白い紙の上に筆を置く。


「言葉がひとつも出てこなかった。何を書こうとしても、墨が乾くばかりで」


筆の先が紙の上をすっと走った。


「でも、今朝は……出てくるの。不思議ね」


口の端がわずかに上がっていた。


(——戻って、きた)


崩れかけた人がまた言葉を取り戻して立っている。

わたしは黙って、その筆先を見ていた。


紙の上に、ゆうべ塔が並べた灯りのことが一行ずつ書き取られていく。

正しく動いた、という事実。

それを、この人はこれから人に伝えていくのだ。


筆が一度止まった。


アディラが顔を上げて、わたしを見る。


「あなたのおかげよ」


そう言いかけて首を小さく振った。


「……ううん。みんなの、ね」


また、紙の上へ目を戻した。


◇◇◇


ヘルムが太い背中を丸めて、入ってきた。


わたしのそばへ来ると、腕を組んで塔を見上げる。


「よく最後まで見たな」


低い、けれど穏やかな声だった。

昨日まで張りつめていたものが、その声からほどけている。


「ゆうべは、お前さんもよく眠れなかったろう」


図星だった。

わたしが小さくうなずくと、ヘルムは短く笑う。


それから、塔の石の棚を、太い指でこつんと叩いた。


「だがな。動いた、それで終わりじゃない」


指が棚から棚へと移っていく。


「昨日できたのは、言葉を覚えさせる入れ物を、動かしてみせた。それだけだ」


ヘルムの目が塔の天辺まで上がった。


「この入れ物に、これから何を覚えさせるか。それを決めるのは、これからだ」


「焦ることはない」


ヘルムは腕を組み直した。


「壊されずに残った。覚えさせる時なら、これからいくらでもある」


太い声がゆっくりと蔵にひびく。


勝った、という顔ではなかった。

長い坂の、ようやく一つめの段。

そこに足をかけた、静かな顔だった。


(——ここから)


その言葉は不思議と重く聞こえなかった。

昨日まではこわかった「これから」が今朝はすこし楽しみに似ていた。


◇◇◇


蔵の奥に、ひとすじの灯りが残っていた。


ゆうべ、誰も消さなかった列。

いちばん端の、いちばん長い灯りのつらなり。


それが村への言葉を運ぶ道だと、わたしは知っていた。


朝の薄明かりのなかで、その灯りはもう昨日ほど強くない。

それでも、消えずにまだそこにあった。


灯りの列の前に立つと、胸の奥でひとつの思いがふくらんだ。


(——伝えたいな)


動いたよ、と。

壊されずに、残ったよ、と。

お母さんに、ノラに、お兄ちゃんに。


この灯りの道のずっと先に、あの村がある。


ほんとうは、この灯りはまだ村まで届かない。

昨日たしかめられたのは、言葉を運ぶ道がまちがっていない、それだけだった。


それでも、いつか。

この道の先まで、ほんとうに「動いたよ」を送れる日がくる。


そう思うと、指の先が灯りのほうへ伸びかけた。


(——まだ、送れない)


伝えたい。

でも、今日はまだ、その時ではなかった。


胸のなかの芽を、土の下にそっと戻すように、わたしは手をおろした。


送るのは、もう少し先でいい。

今日のところは、この灯りがまだ消えずにある。

それだけで、足りていた。


背の後ろで、かたん、と木の鳴る音がした。


振り返ると、父が床几に湯気の立つ椀を置いたところだった。


何も言わない。

ただ、白湯の椀をわたしのほうへ、すこし押した。


冷えた手で受け取ると、椀の底のぬくもりが指の節の痛みへゆっくりしみていく。


ひと口飲むと、固かった肩が奥のほうからほどけた。


白湯の湯気が朝の光のなかでまっすぐ立ちのぼる。

それを目で追っていると、走り続けた数日がようやく遠くなった気がした。


父は何も訊かない。

ただ、わたしが椀を空にするまで、そばに立っていた。


◇◇◇


高い窓の外で、朝の光がすっかり白くなっていた。


その光が塔の石の棚を、いちばん下からひとつずつ昇っていく。

ゆうべの灯りとは、ちがう明るさ。


土間の隅で、誰かが朝の火をおこしていた。


ぱち、と。

小枝のはぜる音がしんとした蔵に、ひとつ鳴った。


塔は、今朝もそこに立っていた。


■あとがき・解説


第176話は、塔が動いて、壊されずにすんだ——その翌朝の、静かな回でした。大きな出来事は起きません。前の数日でぎりぎりまで張りつめたものを、ここで一気にゆるめてしまわず、朝のひかりのなかでゆっくりと味わう回です。


リナはこの数日、ずっと走っていました。直して、また直して、人の前で動かして、息をつめて沙汰を待った。喜ぶ間も、ほっとする間もなかった。だから今朝になってはじめて、「動いた」「助かった」が、遅れて胸におりてきます。


今回は「遅れて来る実感」「年かさの技師」「これから」について、ゆるく書いていきます。


■この話で出てきた言葉


■「遅れて来る実感」——身体のほうが、あとから


走るのをやめた今朝、リナの身体はようやく自分の重さを思い出します。凝った肩、腫れぼったい指の節、手のひらに乗った見えない重し。喜びより先に、疲れのほうが返ってきます。


前の世のリナなら、徹夜の明けた朝はかえって頭が冴えたものでした。けれど十三の身体は、そうはいきません。喜ぶのも、ひと晩越して、ようやくです。頭ではもう分かっている「あれは本当に起きたことだ」が、身体の側からゆっくり追いついてくる——その一拍のずれを描きたい回でした。


■「年かさの技師」——この目で、見たかった


塔を下から見上げて、「ほんとに、動いたんだなあ」と独りごとを漏らす技師がいます。鉄や石の重さなら秤で量れる。けれど動く動かないだけは、この目で見るまで信じられない——前にそう言っていた人です。


その人にとって、昨日のあれは、ただの仕事の成り行きではありませんでした。長いこと見たいと願ってきた、その一回でした。崩れかけていたアディラが今朝はまた筆を握り、「昨日は言葉が出なかった。でも今朝は出てくる」と口の端を上げます。倒れかけた人が、また立ち上がって言葉を取り戻していく。その小さな立ち直りも、この回でそっと着地させました。


■「これから」——勝ちではなく、出発点


ヘルムは塔の石の棚を指で叩いて言います。動いた、それで終わりじゃない。昨日できたのは、覚えさせる入れ物を動かしてみせた、それだけだ。ここから何を覚えさせるか——それを決めるのは、これからだ、と。


勝った、という顔ではありません。長い坂の、ようやく一つめの段に足をかけた静かな顔です。昨日まではこわかった「これから」が、今朝のリナにはすこし、楽しみに似て聞こえます。村への線の灯りの前で「動いたよと伝えたいな」という芽もふくらみますが、第一報を送るのはもう少し先。今朝のところは、灯りがまだ消えずにある、それだけで足りていました。


次の話もお楽しみに。


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