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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑥「世界が、見つける」

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175/211

第175話 グランツの一言

朝から、蔵が掃かれていた。


土間にたまっていた銅の切れ端も、布の屑も、今日はきれいに払われている。

誰かが来る。

そのために、みなが手を止めて掃いたのだった。


(——あの人が来る)


焼けた石のにおいに、掃いたばかりの土のにおいが薄く混じっていた。

窓の高いところから、昼の白い光がまっすぐ落ちている。

塔はゆうべと変わらず、そこに立っていた。


ヘルムがわたしのそばへ来て、低く言った。


「グランツ卿が自ら来られる」


太い声に、いつもの張りがなかった。


「塔を壊すか残すか。その筆を、ご自分の目で確かめてから執るおつもりだ」


(——壊しに、来るのかもしれない)


塔が動いて見せても、解けと書かれた筆はまだ引かれていない。

あと数日で沙汰が下りる。

そう言われていた数日が今日だった。


父は棚の影にいた。

わたしと目が合うと、ひとつ顎を引く。

それだけで、そばにいるのが分かった。


待つあいだ、胸の奥で鼓動がいつもより速かった。

前世なら、こういう待ちの時間も息をつめずにやり過ごせた気がする。

今の身体は待つだけで、指の先から冷えていった。

何度も、図の角をそろえ直した。


◇◇◇


廊下の奥で、音がした。


とん、と。

固いものが石の床を打つ音。

間のある、ゆっくりした足音だった。


とん。

とん。


あの日、わたしはこの音を宮殿の部屋で待った。

呼ばれて、磨いた床の上で頭を下げた。

今日は、その音のほうがこの古い蔵へ降りてくる。


運命を決める人はいつも遠い部屋にいた。

その人がいま、わたしの足元まで歩いてくる。


戸口に、白髪の老人が立った。


藍の長衣。

右手に、黒い杖。

背は高くないのに、埃っぽい蔵がひとまわり狭くなった気がした。


グランツはゆっくりと中を見回した。

煤けた梁。

布の屑をはらった土間。

並んだ石の棚。

宮中の磨いた床とは、何もかも違う場所だった。


その場所へ、この人が自分の足で来ている。

それだけで、今日が今までと違うのが分かった。


「ここで、あれを組んだのか」


低い、乾いた声だった。


「はい」


老人はわたしを見た。

あの日と同じに、わたしの背の低さを確かめるように目を細める。

それから何も言わずに、塔のほうへ向き直った。


◇◇◇


「動くところを、見せてもらおう」


グランツは杖を床に置いたまま、塔の前に立つ。


ヘルムがわたしを見た。

わたしは頷いた。


アディラが入口の陣に火を入れる。

あの日、村への線を通したのと同じ布を、もう一度送り爪に掛けた。

手順は、ゆうべのうちに直してある。

あとは機械が末まで「正しい」を返すかどうか、それだけだった。


(——道は、直した。あとはぜんぶ機械の仕事)


わたしは灯りの列を見なかった。

グランツの横顔を見ていた。


老人は塔をまっすぐ見ている。

まばたきもせずに。

その影が塔の足もとに長くのびている。

布の進む音が低く、しんとした蔵に流れていく。


かち、かち。


すぐ後ろで、ニルスが固唾を呑んだ。

ヘルムの太い腕は、組まれたまま動かない。


わたしも息をつめていた。

布が一目進むたび、肩がすこしずつ固くなる。

あの日、ここから先で間違えた。

そのことが頭の隅に貼りついて、離れない。


布が半ばを越えても、灯りは間違えなかった。

あの日つまずいた一点を、今日も越えていく。


かち、と最後の一目。


送り爪が空を噛んで止まった。

灯りの列はひとつの形に落ち着いた。


末まで並んだ、「正しい」の灯り。


蔵がしんと静まった。

グランツは長いあいだ、それを見ていた。


杖を持つ手から、ほんの少し力が抜ける。

それが横からでも分かった。


◇◇◇


「……動いたな」


低い声だった。


「はい」


「あの日、わたしは言った。唱える言葉を、ただの量に落とす。その形を宮中の名で認めることはできん、と」


杖の先が床を一度撫でた。


「あのとき、お前の図は紙の上の筋だった。美しいが、動くかどうかはまだ誰も知らなんだ」


老人はゆっくりと塔を見上げた。


「動かぬものなら、無用と切って捨てられた。役に立たぬ夢だと言えた」


それから、わたしを見た。


「だが、これは動いた」


声に力みはなかった。

ただ、自分の言葉をひとつずつ確かめるような言い方だった。


「動くものを、無用とは言えぬ。壊せと書けば、こちらの筋が通らぬ」


とん、と杖が床を打った。


「廃棄の上申は、引く」


(——引く)


頭の奥で、その二文字がゆっくり形になった。

すぐには、意味が胸まで届かなかった。


引く、というのは、もう壊さないということだ。

あれだけ近くまで来ていた「解け」の筆が引かれる。

分かっているのに、足の裏がしばらく床から浮いているようだった。


壁ぎわで、ヘルムが太い息を吐く。

組んでいた腕がほどけた。


「卿。……かたじけない」


「礼を言われる筋ではない」


グランツは振り返らなかった。


「わたしは、塔が動いたから筆を引く。それだけだ。お前たちの苦労に折れたのではない」


ヘルムはそれ以上、言わなかった。

ただ太い手で、一度だけ顔をこすった。


崩れかけても、最後まで立っていた盾。

その盾が今日、塔の動いた事実に救われた。

わたしはそれを、横で見ていた。


父が棚の影から出てきて、わたしの肩に手を置く。

何も言わない。

その手はいつもより重かった。


◇◇◇


ヘルムがわたしのそばへ来て、低く言った。


「壊されはせん。それだけは、決まった」


太い声が念を押すように続く。


「だが、認められたわけでもない。役人の帳面には、まだ何も書かれちゃいない」


国じゅうが塔を使うと決めたわけではない。

褒美も、宮中の名もない。

ただ、壊されずにすんだ。


それで、足りた。


大きな勝ちではない。

握りしめていた肩から、すうっと力が抜けただけだった。


明日も明後日も、この蔵に塔が立っている。

壊されずに、ここにある。

それだけで、よかった。


◇◇◇


グランツは戸口へ向かった。


とん、と。

石突きが床を打つ。


そこで、ふと足が止まった。

振り返りはしない。

塔のほうへ顔を半分だけ向けて、低くつぶやいた。


「動いた、ということはな」


わたしに言ったのでは、なかった。


「世界が、これを読み取った、ということだ」


杖の先が床を軽く撫でた。


「人の唱える言葉ではない。機械の繰る布を、世界が読み取って、動かした」


声がさらに低くなる。


「……世界の、読み取りの層が……揺らがねば、よいが」


わたしの背中を、冷たいものが走った。


(——読み取りの、層)


いつか、バルドゥスさんが言った言葉。

魔法陣は、そのままでは動かぬ。

世界が読み取って、動かす。

あの底のことを、この人はまた指していた。


村の古老のしわがれた声。

宮中の老人の乾いた声。

住む場所も歳も、まるで違う。

その二人が同じ底を指していた。


(——何を、知っているんですか)


そう問いたくて、口が動きかけた。


でも、止めた。

問えば、わたしがその底を覗いていることを教えてしまう。


(——言えない)


わたしは口を閉ざした。

あの日と、同じに。


◇◇◇


グランツはもう、何も言わなかった。


藍の長衣がひるがえって、戸口を抜けていく。


とん、とん、と。

間のある音が廊下の奥へ遠ざかっていった。

だんだん、小さくなる。


やがて、足音は聞こえなくなった。


蔵に、焼けた石のにおいだけが残った。


塔はまだそこにある。

誰も灯りを消さなかった。

末まで並んだ「正しい」の列がしずかに灯ったままでいる。


(——壊されない)


その灯りに、指を寄せる。

あの日のような、まっすぐな温かさではなかった。

灯りの向こうに、老人の残した言葉が薄い影を落としていた。


世界の、読み取りの層。


それが何なのかは、まだ分からない。

分からないまま、灯りはわたしの指の先で「正しい」を返し続けていた。


■あとがき・解説


第175話は、塔を壊すか残すかの沙汰に、ようやく決着がつく回でした。動く塔を見せても、宮中に出た「塔を解け」という上申は、前話まで引かれていません。その筆を執るかどうかを、グランツ卿が自分の目で確かめに来ます。


これまで卿は、リナのいる場所には一度も来ませんでした。沙汰や上申という形で、遠い部屋から効いてくる人でした。今回はじめて、その人のほうが、この古い蔵まで降りてきます。


今回は「グランツ卿」「廃棄の上申を引く」「読み取りの層」について、ゆるく書いていきます。


■この話で出てきた言葉


■「グランツ卿」——筋を見に来た人


宮廷魔導士の重鎮で、保守派の人です。前に「唱える言葉を、ただの量に落とすのは魔導の道を踏み外す」と、リナの形に反対しました。子供だからと侮ったのではなく、「賢い者ほどこの美しさに惹かれる。だから危うい」と、一個の思想として退けた人です。


その卿が今回、子供あつかいをしに来たわけでも、論破されに来たわけでもありません。塔が本当に動くのかどうか、その一点だけを見に来ます。動く塔を最後まで黙って見届けてから筆を引くのは、この人がどこまでも「筋」で動く人だからです。


■「廃棄の上申を引く」——壊されずにすんだ


卿の言葉は、前に反対したときと、きれいに裏返しになっています。動かぬものなら無用と切れた。だが、これは動いた。動くものを無用とは言えぬ——壊せと書けば、こちらの筋が通らない。リナたちの苦労に折れたのではなく、塔が「正しい」を返した事実が、卿の筆を折らせました。


ただし、これで国じゅうが塔を使うと決まったわけではありません。褒美も、宮中の名もつきません。役人の帳面には、まだ何も書かれていない。決まったのは「壊されない」、それだけです。リナの胸におりるのも、大きな勝ちの高ぶりではなく、握りしめていた肩からふっと力が抜けるような、ただの安堵です。崩れかけても最後まで立っていたヘルムの盾が、ここで報われます。


■「読み取りの層」——去り際の、ひとこと


決着がついた去り際、卿が独りごとのように、もうひとこと漏らします。動いたということは、世界がこれを読み取った、ということだ。人の唱える言葉ではなく、機械の繰る布を、世界が読み取って動かした——その「読み取りの層」が、揺らがなければよいが、と。


反対の理由が「無用だから壊す」から、もっと深いところへずれていきます。リナだけが、その一言の重みに気づきます。村の古老バルドゥスがいつか語った「魔法陣は、そのままでは動かぬ。世界が読み取って動かす」——あの底のことを、卿はまた指している。問いたくなりますが、問えば自分が何を覗いているかを教えることになるので、リナは口を閉ざします。この影が何なのかは、もっと先で少しずつ見えてきます。


次の話もお楽しみに。


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