第175話 グランツの一言
朝から、蔵が掃かれていた。
土間にたまっていた銅の切れ端も、布の屑も、今日はきれいに払われている。
誰かが来る。
そのために、みなが手を止めて掃いたのだった。
(——あの人が来る)
焼けた石のにおいに、掃いたばかりの土のにおいが薄く混じっていた。
窓の高いところから、昼の白い光がまっすぐ落ちている。
塔はゆうべと変わらず、そこに立っていた。
ヘルムがわたしのそばへ来て、低く言った。
「グランツ卿が自ら来られる」
太い声に、いつもの張りがなかった。
「塔を壊すか残すか。その筆を、ご自分の目で確かめてから執るおつもりだ」
(——壊しに、来るのかもしれない)
塔が動いて見せても、解けと書かれた筆はまだ引かれていない。
あと数日で沙汰が下りる。
そう言われていた数日が今日だった。
父は棚の影にいた。
わたしと目が合うと、ひとつ顎を引く。
それだけで、そばにいるのが分かった。
待つあいだ、胸の奥で鼓動がいつもより速かった。
前世なら、こういう待ちの時間も息をつめずにやり過ごせた気がする。
今の身体は待つだけで、指の先から冷えていった。
何度も、図の角をそろえ直した。
◇◇◇
廊下の奥で、音がした。
とん、と。
固いものが石の床を打つ音。
間のある、ゆっくりした足音だった。
とん。
とん。
あの日、わたしはこの音を宮殿の部屋で待った。
呼ばれて、磨いた床の上で頭を下げた。
今日は、その音のほうがこの古い蔵へ降りてくる。
運命を決める人はいつも遠い部屋にいた。
その人がいま、わたしの足元まで歩いてくる。
戸口に、白髪の老人が立った。
藍の長衣。
右手に、黒い杖。
背は高くないのに、埃っぽい蔵がひとまわり狭くなった気がした。
グランツはゆっくりと中を見回した。
煤けた梁。
布の屑をはらった土間。
並んだ石の棚。
宮中の磨いた床とは、何もかも違う場所だった。
その場所へ、この人が自分の足で来ている。
それだけで、今日が今までと違うのが分かった。
「ここで、あれを組んだのか」
低い、乾いた声だった。
「はい」
老人はわたしを見た。
あの日と同じに、わたしの背の低さを確かめるように目を細める。
それから何も言わずに、塔のほうへ向き直った。
◇◇◇
「動くところを、見せてもらおう」
グランツは杖を床に置いたまま、塔の前に立つ。
ヘルムがわたしを見た。
わたしは頷いた。
アディラが入口の陣に火を入れる。
あの日、村への線を通したのと同じ布を、もう一度送り爪に掛けた。
手順は、ゆうべのうちに直してある。
あとは機械が末まで「正しい」を返すかどうか、それだけだった。
(——道は、直した。あとはぜんぶ機械の仕事)
わたしは灯りの列を見なかった。
グランツの横顔を見ていた。
老人は塔をまっすぐ見ている。
まばたきもせずに。
その影が塔の足もとに長くのびている。
布の進む音が低く、しんとした蔵に流れていく。
かち、かち。
すぐ後ろで、ニルスが固唾を呑んだ。
ヘルムの太い腕は、組まれたまま動かない。
わたしも息をつめていた。
布が一目進むたび、肩がすこしずつ固くなる。
あの日、ここから先で間違えた。
そのことが頭の隅に貼りついて、離れない。
布が半ばを越えても、灯りは間違えなかった。
あの日つまずいた一点を、今日も越えていく。
かち、と最後の一目。
送り爪が空を噛んで止まった。
灯りの列はひとつの形に落ち着いた。
末まで並んだ、「正しい」の灯り。
蔵がしんと静まった。
グランツは長いあいだ、それを見ていた。
杖を持つ手から、ほんの少し力が抜ける。
それが横からでも分かった。
◇◇◇
「……動いたな」
低い声だった。
「はい」
「あの日、わたしは言った。唱える言葉を、ただの量に落とす。その形を宮中の名で認めることはできん、と」
杖の先が床を一度撫でた。
「あのとき、お前の図は紙の上の筋だった。美しいが、動くかどうかはまだ誰も知らなんだ」
老人はゆっくりと塔を見上げた。
「動かぬものなら、無用と切って捨てられた。役に立たぬ夢だと言えた」
それから、わたしを見た。
「だが、これは動いた」
声に力みはなかった。
ただ、自分の言葉をひとつずつ確かめるような言い方だった。
「動くものを、無用とは言えぬ。壊せと書けば、こちらの筋が通らぬ」
とん、と杖が床を打った。
「廃棄の上申は、引く」
(——引く)
頭の奥で、その二文字がゆっくり形になった。
すぐには、意味が胸まで届かなかった。
引く、というのは、もう壊さないということだ。
あれだけ近くまで来ていた「解け」の筆が引かれる。
分かっているのに、足の裏がしばらく床から浮いているようだった。
壁ぎわで、ヘルムが太い息を吐く。
組んでいた腕がほどけた。
「卿。……かたじけない」
「礼を言われる筋ではない」
グランツは振り返らなかった。
「わたしは、塔が動いたから筆を引く。それだけだ。お前たちの苦労に折れたのではない」
ヘルムはそれ以上、言わなかった。
ただ太い手で、一度だけ顔をこすった。
崩れかけても、最後まで立っていた盾。
その盾が今日、塔の動いた事実に救われた。
わたしはそれを、横で見ていた。
父が棚の影から出てきて、わたしの肩に手を置く。
何も言わない。
その手はいつもより重かった。
◇◇◇
ヘルムがわたしのそばへ来て、低く言った。
「壊されはせん。それだけは、決まった」
太い声が念を押すように続く。
「だが、認められたわけでもない。役人の帳面には、まだ何も書かれちゃいない」
国じゅうが塔を使うと決めたわけではない。
褒美も、宮中の名もない。
ただ、壊されずにすんだ。
それで、足りた。
大きな勝ちではない。
握りしめていた肩から、すうっと力が抜けただけだった。
明日も明後日も、この蔵に塔が立っている。
壊されずに、ここにある。
それだけで、よかった。
◇◇◇
グランツは戸口へ向かった。
とん、と。
石突きが床を打つ。
そこで、ふと足が止まった。
振り返りはしない。
塔のほうへ顔を半分だけ向けて、低くつぶやいた。
「動いた、ということはな」
わたしに言ったのでは、なかった。
「世界が、これを読み取った、ということだ」
杖の先が床を軽く撫でた。
「人の唱える言葉ではない。機械の繰る布を、世界が読み取って、動かした」
声がさらに低くなる。
「……世界の、読み取りの層が……揺らがねば、よいが」
わたしの背中を、冷たいものが走った。
(——読み取りの、層)
いつか、バルドゥスさんが言った言葉。
魔法陣は、そのままでは動かぬ。
世界が読み取って、動かす。
あの底のことを、この人はまた指していた。
村の古老のしわがれた声。
宮中の老人の乾いた声。
住む場所も歳も、まるで違う。
その二人が同じ底を指していた。
(——何を、知っているんですか)
そう問いたくて、口が動きかけた。
でも、止めた。
問えば、わたしがその底を覗いていることを教えてしまう。
(——言えない)
わたしは口を閉ざした。
あの日と、同じに。
◇◇◇
グランツはもう、何も言わなかった。
藍の長衣がひるがえって、戸口を抜けていく。
とん、とん、と。
間のある音が廊下の奥へ遠ざかっていった。
だんだん、小さくなる。
やがて、足音は聞こえなくなった。
蔵に、焼けた石のにおいだけが残った。
塔はまだそこにある。
誰も灯りを消さなかった。
末まで並んだ「正しい」の列がしずかに灯ったままでいる。
(——壊されない)
その灯りに、指を寄せる。
あの日のような、まっすぐな温かさではなかった。
灯りの向こうに、老人の残した言葉が薄い影を落としていた。
世界の、読み取りの層。
それが何なのかは、まだ分からない。
分からないまま、灯りはわたしの指の先で「正しい」を返し続けていた。
■あとがき・解説
第175話は、塔を壊すか残すかの沙汰に、ようやく決着がつく回でした。動く塔を見せても、宮中に出た「塔を解け」という上申は、前話まで引かれていません。その筆を執るかどうかを、グランツ卿が自分の目で確かめに来ます。
これまで卿は、リナのいる場所には一度も来ませんでした。沙汰や上申という形で、遠い部屋から効いてくる人でした。今回はじめて、その人のほうが、この古い蔵まで降りてきます。
今回は「グランツ卿」「廃棄の上申を引く」「読み取りの層」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「グランツ卿」——筋を見に来た人
宮廷魔導士の重鎮で、保守派の人です。前に「唱える言葉を、ただの量に落とすのは魔導の道を踏み外す」と、リナの形に反対しました。子供だからと侮ったのではなく、「賢い者ほどこの美しさに惹かれる。だから危うい」と、一個の思想として退けた人です。
その卿が今回、子供あつかいをしに来たわけでも、論破されに来たわけでもありません。塔が本当に動くのかどうか、その一点だけを見に来ます。動く塔を最後まで黙って見届けてから筆を引くのは、この人がどこまでも「筋」で動く人だからです。
■「廃棄の上申を引く」——壊されずにすんだ
卿の言葉は、前に反対したときと、きれいに裏返しになっています。動かぬものなら無用と切れた。だが、これは動いた。動くものを無用とは言えぬ——壊せと書けば、こちらの筋が通らない。リナたちの苦労に折れたのではなく、塔が「正しい」を返した事実が、卿の筆を折らせました。
ただし、これで国じゅうが塔を使うと決まったわけではありません。褒美も、宮中の名もつきません。役人の帳面には、まだ何も書かれていない。決まったのは「壊されない」、それだけです。リナの胸におりるのも、大きな勝ちの高ぶりではなく、握りしめていた肩からふっと力が抜けるような、ただの安堵です。崩れかけても最後まで立っていたヘルムの盾が、ここで報われます。
■「読み取りの層」——去り際の、ひとこと
決着がついた去り際、卿が独りごとのように、もうひとこと漏らします。動いたということは、世界がこれを読み取った、ということだ。人の唱える言葉ではなく、機械の繰る布を、世界が読み取って動かした——その「読み取りの層」が、揺らがなければよいが、と。
反対の理由が「無用だから壊す」から、もっと深いところへずれていきます。リナだけが、その一言の重みに気づきます。村の古老バルドゥスがいつか語った「魔法陣は、そのままでは動かぬ。世界が読み取って動かす」——あの底のことを、卿はまた指している。問いたくなりますが、問えば自分が何を覗いているかを教えることになるので、リナは口を閉ざします。この影が何なのかは、もっと先で少しずつ見えてきます。
次の話もお楽しみに。




