第174話 演算塔、動く
朝、銅はつめたかった。
継ぎ目の銅を指の腹にのせると、ひやりと吸いついてきた。
ゆうべ眠った身体に、その冷たさがよく沁みた。
(——今日は、直す)
蔵は、まだ薄暗かった。
窓の高いところから朝の白い光がひと筋だけ落ちて、棚の角を照らしている。
火はまだ入っていない。焼けた石のにおいも、今朝はうすかった。
休んだ手は、軽かった。
昨日まで思うように動かなかった指が今朝は自分の指として戻っていた。
握ったり開いたりすると、節がちゃんと言うことをきく。
図の横の盆には、ゆうべ置いた炭がそのままあった。
紙の上の小さな丸は、もう乾いて黒く沈んでいた。
濡れていたしるしが乾くだけの時間を、わたしはちゃんと眠ったのだ。
棚の裏で、目当ての石を探す。
覚えるための石と、すぐ横のよく似た石。
ゆうべ炭で丸をつけた、あの継ぎ目。
そこへ届かせるには、棚のいちばん奥へ腕を入れなければならない。
十三の腕では、肩までつっこんでも指の先がやっと触れるだけだった。
「お父さん」
呼ぶと、父はもう枠のそばにいた。
まだ誰も来ていない蔵で、父だけが先に来て、道具を並べていた。
「これ、出せる?」
父は何も言わずに、石を抱いた枠の横木へ手をかけた。
焼けた石を枠ごと引き出せるようにと、父が組んだ仕組みだった。
重い石をいちいち外さず、棚から手前へ引き出すための、ただの木の枠。
ずず、と枠が手前へ滑り出してくる。
木と木のこすれる鈍い音がしんとした蔵に低く響いた。
奥にあった継ぎ目がちょうど目の高さまで出てきた。
「ここだな」
父が低く言った。
継ぎ目を顎でしゃくって、それきり一歩退く。
あとはお前の手だ。そう言うように。
(——ここまで来れば、手が届く)
◇◇◇
継ぎ目はゆうべ指でなぞったとおりだった。
力を渡す道の一本が隣のよく似た石の口金へ回りこんでいる。
ほんの指一本ぶん、ずれた繋ぎ。
よくもこんな小さなずれが何百もの石ぜんぶを「正しくない」へ引きずったものだ。
陣には、手をつけない。
眼で読めるかぎりの溝は、ゆうべぜんぶ確かめてある。どれも正しく閉じていた。
直すのは陣ではない。陣と陣をつなぐ、道のほうだ。
銅の結び目を、隣の石の口金からそっと外す。
冷えた銅は指の腹に吸いついて、なかなか離れない。
かちりと小さな音がして、結び目が外れた。
(——隣じゃない)
正しいほうの石の口へ、結び目をかけ直す。
指の先で、銅をひと巻き、ふた巻き。
十三の指には、その結び目はまだ少し大きい。
前世の指なら、もっと細かい繋ぎも苦もなくこなした。
細い道を、目を凝らさずとも指先だけで結べた手だった。
今の指は、ひと巻きごとに息を止めた。震えそうになるたび、いったん止めて、また巻く。
最後のひと巻きを締めて、指を離す。
継ぎ目は、もう隣の石を向いていなかった。
正しい石の口へ、まっすぐ道がつながった。
念のため、直したところから手前へ、ひと結びずつ指を送る。
どの結び目も、なめらかに指の腹を通していった。
それだけだった。
何百本のうちの、たった一本。
押しても押しても見つからなかったものが直してみればこんなに小さかった。
◇◇◇
技師たちが一人また一人と蔵に入ってきた。
「通すぞ」
ヘルムの太い声が蔵に落ちた。
ゆうべ壁ぎわで黙りこんでいた者も、今朝はみな立っていた。
誰もまだ何も言わない。火の音もまだない蔵で、布のこすれる音だけがした。
アディラが入口の陣に火を入れた。
ゆうべ何度も火を入れ直して、声をかすれさせた人だった。
今朝は、その手に迷いがなかった。
何百もの石が奥から順に灯っていくのを、今朝は見なかった。
わたしは、送りの口に掛けたいちばん長い布の端を握っていた。
村への伝言の経路を、端から端まで検める布。
ゆうべ止まったまま掛かっていた、あの布だった。
両手で持つと、ゆうべと同じだけずしりと重い。
「送れ」
送り爪がかちりと布を噛んだ。
灯りの列は、見なかった。
見れば、また同じところで止まる気がした。
わたしは布の進む音だけを聞いていた。目を半分閉じて。
かち、かち。
ゆうべと同じ音。
ゆうべと同じ布。
違うのは、たった一本の道だけ。
布が半ばを越えた。
誰かの呑む息がすぐ耳の後ろで鳴った。火ぶくれの手のニルスだった。
布はゆうべ、ここから先で間違えた。
胸の鼓動が布の音より速くなる。
かち、かち、かち。
送り爪の音がゆうべ止まった一点を越えていく。
越えても、止まらない。
かち、と次の一目。かち、とまた次。
(——通ってる)
布の終わりが送り爪を抜けた。
かちん、と送り爪が空を噛んで止まった。
そのまま、蔵がしんと静まりかえった。
顔を上げると、灯りの列はひとつの形に落ち着いていた。
「正しい」の灯りだった。
◇◇◇
「……止まらなかった」
ニルスがかすれた声でつぶやいた。
ゆうべと同じ布が今朝は最後まで「正しい」を返した。
それが信じられないみたいに、技師たちは灯りを見つめている。
どこかで、はあ、と長い息が漏れた。
ヘルムが灯りの列の前へ進み出た。
間違えたままだった灯りをゆうべからずっと見ていた人だった。
太い手で、顔を一度こすった。
「……通ったな」
低い声だった。
もう一度、灯りを確かめるように。
「通った」
蔵のどこかで、誰かが小さく笑った。
泣くような笑いだった。
火ぶくれの手のニルスが握っていた布の端をやっと放した。
アディラは、入口の陣のそばに立ったままだった。
何度も火を入れ直して薄くなっていた背が今朝はまっすぐに戻っていた。
「……通り、ました」
こちらを見て、ひとつだけうなずいた。
肩の力をふっと抜いて、陣のそばの床に腰を下ろす。
立っていられないのではなく、もう立っていなくていい、というふうに。
父は棚の影から動かなかった。
わたしと目が合うと、ひとつ顎を引く。
それで、じゅうぶんだった。
◇◇◇
けれど、動いたのは一度きりだった。
布ひと巻きを、部屋ひとつぶんの石で通しただけ。
これを国じゅうの線へ伸ばすには、まだ遠い。
ヘルムも、それは分かっていた。
「一度通った。それだけだ。明日も通るかは、明日にならんと分からん」
太い声に、浮かれたところはなかった。
塔が動いて見せても、評定の沙汰がどう転ぶかは別の話だった。
解けと書いた筆は、まだ引かれていない。
動いたからといって、明日の沙汰が変わるとはかぎらなかった。
(——直っても、変わらないかもしれない)
それでも。
いま通ったのは、村への線だった。
ゆうべ、わたしのいない部屋で畳まれると思った線。
家に着く前に解かれてしまうと思った線。
その一本がたった今、最後まで「正しい」を返した。
評定がどう転ぼうと、この一筋が通ったことだけは、もう確かだった。
誰の沙汰より先に、それが胸の底へすとんとおりた。
(——届く)
村の遠い家へ、線はちゃんと通る。
狼煙の煙を読んだあの日から、わたしはこの線をつないできた。
つないで、つないで、ここまで引いてきた線。
それが今、ひとつにつながった。
栄誉でも、宮中の名でもない。
ただ、村の家へ向かう線が通った。
それがわたしには、何よりだった。
◇◇◇
布はもう、送り爪に噛まれている。
布の繰る順も、足して較べて覚える手順も、機械のなかへ置いてきた。
覚える石に命令を置けば、人がいちいち布を繰らなくてもいい日が来る。
(——それは、いつか)
今日はまだ、そこまでは言わない。
灯りの列の、いちばん端。
村へ向かう道の、その先の灯り。
ゆうべは、間違えた灯りに手を伸ばせなかった。
今朝は、「正しい」の灯りに指がまっすぐ届いた。
あたたかかった。
火を入れた石は、ほんのりと熱を持っていた。
その熱を、指の腹でしばらく確かめる。
布の端が送り爪のなかでまだかすかに揺れていた。
■あとがき・解説
第174話は、リナがゆうべ気づいた「一本の繋ぎ違え」を、実際に繋ぎ直す回でした。前話で休むと決めたその翌朝の話です。
何度通しても同じところで間違えた塔が、たった一本の道を直しただけで、今度は最後まで「正しい」を返す。第2部のいちばん長い坂を、ここでようやく一度だけ登りきります。
今回は「直す」「通る」「村への線」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「直す」——陣ではなく、道のほうを
リナの「眼」が読めるのは魔法陣(陣)だけで、力を渡す経路(道)は読めません。だから今回の繋ぎ直しは、超常の眼ではなく、指と頭と図でやります。陣には一切手をつけません。陣はゆうべ、ぜんぶ正しいと確かめてあるからです。
直したのは、よく似た隣の石へ回りこんでいた銅の結び目ひとつ。父が組んだ「焼けた石を枠ごと引き出す仕組み」で、奥の継ぎ目を手元へ出して、ほんの指一本ぶんのずれを正しい石の口へかけ直す。何百本のうちのたった一本で、押しても見つからなかった間違いが、直してみれば呆れるほど小さい。リナは魔力を持たず、火も入れません。火を入れて塔を動かすのは、点火役のアディラの仕事です。
■「通る」——同じ布が、今朝は最後まで
通したのは、前に失敗した「いちばん長い布」。村への伝言の経路を、端から端まで一度で検める布です。ゆうべと同じ布、同じ順。違うのは、たった一本の道だけ。
リナは今朝、灯りの列を見ませんでした。見ればまた止まる気がして、布の進む音だけを聞いていた。送り爪が、ゆうべ取りこぼした一点を越えても、止まらない。最後まで通って、灯りは「正しい」の形に落ち着きます。ただし、動いたのは一度きり。布ひと巻きを部屋ひとつぶんの石で通しただけで、これを国じゅうの線へ伸ばすのは、まだ先の話です。そして塔が動いて見せても、宮中に出た「塔を解け」という上申は、まだ引かれていません。
■「村への線」——沙汰より先に、胸へおりるもの
この回でリナがいちばん深く感じるのは、栄誉でも宮中の名でもありません。今朝最後まで通ったのが、ほかでもない村への線だった——そのことです。
前の夜、自分のいない遠い部屋で畳まれてしまうと思った線。家に着く前に解かれると思った線。その一本が、たった今ちゃんと通った。評定がどう転ぼうと、この一筋が通ったことだけはもう確かで、誰の沙汰より先に、それが胸の底へすとんとおります。狼煙の煙を読んだあの日から、つないでつないで引いてきた線が、ここでひとつにつながりました。村へ向かう道の、その先の灯り。ゆうべは手を伸ばせなかったその灯りに、今朝のリナは、まっすぐ指を届かせます。
次の話もお楽しみに。




