第173話 あと一つだけ
うすい膜のような眠りから、机のにおいで目が覚めた。
ありもしない机だった。
木の天板。冷えた指の節。背をまるめて、何かを書きつづける手。
(——あと一本だけ)
その声がまだ耳の奥に残っていた。
前世のわたしの声だった。
あと一本だけ書いたら寝よう。
そう思って、もう一本。それから、もう一本。
机の前を立たないまま、夜のいちばん深いところを何度も越えていった。
指の節はとうにこわばって、思うように曲がらない。
肩は石みたいに固まり、首をめぐらせるたびに鈍く軋む。
それでも手だけは、ひとりでに動きつづけた。
身体のほうはとっくに音をあげていたのに。
この手つきにも、この声にも、覚えがありすぎた。
覚えがありすぎて、こめかみがずきりと疼いた。
その先まで思い出しかけて、痛みでぷつりと切れる。
切れたところで、けれど分かってしまった。あの声の行き着く先を。
あの手は、止まらない。
止めてくれる手も、そばになかった。
だから机の前で、つくるものより先につくる人のほうが壊れた。
わらの寝床で、わたしは天井の梁を見上げた。
あと一本だけ。
その声は今もここにいる。十三のこの身体のなかで、ゆうべの図の前へ、もう一度わたしを座らせようとしている。
ここで座ったら。
ゆうべみたいに、手が動かなくなるまで座ったら。
(——また、おなじになる)
つくるものより先に、つくるわたしのほうが壊れる。
◇◇◇
枕もとの小箱に、母の手紙をしまってあった。
幾日か前に届いて、いちばん苦しい夜に一度だけひらいた紙。
読んだあとは伏せて、箱のいちばん手前に置いた。
今朝、もう一度ひらいた。
畳んだ折り目は、もう手の癖でやわらかくなっていた。
丸い字だった。村の近況のあとに、三行。
むりを、しないでね。
つかれたら、いつでもかえっておいで。
塔がどうなっても、リナはリナだから。
塔がどうなっても。
その一行を、指でなぞった。
村のにおいが紙からふっと立つ気がした。
乾いた土と、かまどの煙のにおい。
ゆうべは、塔が解かれたらわたしも消えてしまう気がした。
塔とわたしの境がにじんで、図がただの線にしか見えなかった。
でも母は、塔のことを何も知らない。
評定のことも、宮中の壁の高さも、ひとつも知らない。
知らないまま、塔がどうなってもおまえはおまえだと書いている。
(——塔は、わたしじゃない)
そう思ったら、まぶたの奥が熱くなった。
ゆうべは、出てこなかった。
喉が固まって、涙のひと粒も。
それが今朝、ぽろりとこぼれた。手の甲に落ちて、丸い字をすこしにじませた。
止まっていい。
母の三行は、そう読めた。
◇◇◇
ゆうべ握ったまま、どの線にもおろせなかった炭。
それを今朝、図の横の盆にそっと置いた。
(——今日は、休む)
止まれと言われて止まるのでも、手が動かなくなって止まるのでもない。
自分で、休むと決めた。
そんなふうに止まったのは、はじめて。
前世のわたしには、とうとうできなかったことだった。
あのころは、止まれと言ってくれる手は、どこにもなかった。
戸口で足音がして、父が入ってきた。
何も言わずに、固くなった黒パンと、水の椀を膝の前に置いた。
「食え」
それだけ。
黒パンは二日ほど前のものらしく、端が乾いて、指で押しても沈まない。
ちぎって水に浸すと、しゅわ、と小さく鳴ってふやけた。
口へ入れると、すっぱいような穀物の味が舌に広がる。
奥歯でゆっくり噛むと、水を吸ったパンが口のなかでほろりとほどけた。
味はうすい。うすいのに、噛むほどじんわりと甘い。
固いだけだと思っていたパンも、水と時間で、こんなにやわらかくなる。
ひと口、ふた口。
噛むうちに、腹の底がきゅうと鳴った。
ゆうべから何も食べていなかった。手のことばかり考えて、腹が減っているのにも気づかなかった。
空っぽの腹に、あたたかいものがゆっくりしみていく。
「お父さん」
黒パンを飲みこんでから、わたしは言った。
「塔は、今日はやらない。休む」
父はしばらくわたしを見て、それから低く言った。
「そうしろ」
それから、椀のほうを顎でしゃくった。
「ぜんぶ、食ってからにしろ」
「……うん」
向かいにしゃがんだまま、父はわたしが食べ終わるのを待っていた。
◇◇◇
椀の水を飲みほして、外へ出た。
朝の光が敷地の隅の井戸を白く照らしている。
ニルスが釣瓶を引いていた。
火ぶくれの痕が残る手で、縄をたぐっている。
汲んだ水を、技師たちの湯にするのだろう。
くみ上げた桶からつめたい水がふちを越えてこぼれ、井戸の石を黒く濡らした。
わたしに気づいて、ニルスは手を止めた。
「……リナ殿」
迷うように口ごもって、それから言った。
「無理は、しないでください」
それから、釣瓶を持ったまま、もう一度。
「顔色、ゆうべよりわるいです」
火を入れる者の手だった。
いつだったか、続けていいのか分からないと言った人。
家の者が心配だと、うつむいた人。
その人が今、わたしに無理をするなと言う。
(——逆だ)
すこし前なら、わたしのほうがこの人を励ます側だった。
「ありがとう」
そう返すと、ニルスは耳の先を赤くした。
かわりに、汲んだばかりの桶をわたしの足もとへそっと寄せて、また釣瓶を引きはじめた。
ぎい、ぎい、と滑車が鳴る。
冷たい水で顔を洗うと、頭の芯がすっと醒めた。
◇◇◇
蔵に戻って、図の前に座りなおした。
ゆうべは、入口から順に道を辿っていた。
力がどの石へ、どの順で渡るか。
蓄魔石のところから一筋ずつ、何百本もある道を、はじめのほうから。
休んだ頭には、今朝はちがって見えた。
(——出口から、見よう)
間違った灯り。
いつもおなじところで間違える灯り。
ゆうべ何度送っても、寸分たがわず同じ一点で同じ答えを返した。
おなじところで間違うなら、間違いはいつもそこにある。
何百本の道のどこか、ではない。
あの灯りへ力を渡す、その手前の一本。
そこから逆に指でたどった。
眼で読めるのは陣だけ。
その陣はゆうべ、ぜんぶ確かめてある。
何百もの灯りの陣は、どれも正しく閉じていた。
だから間違いは陣の中にない。
陣と陣をつなぐ、道のどこかにある。
道は、指でしか読めない。
冷えた銅を、出口の灯りからひと結びずつ手前へ送る。
銅は指の腹にひやりと吸いついた。
結び目をひとつ越えるたび、口のなかで数を唱える。
一つめの石。正しい。
二つめの石。正しい。
三つめ——
指が止まった。
力を渡す道の一本が隣のよく似た石へつながっている。
覚えるための石。
すぐ横に、よく似た形の石がもうひとつ。
その二つの口金へ、銅の結び目がひとつだけ入れちがえてかけてあった。
指でなぞると、結び目は確かに隣の石の口へ回りこんでいた。
ほんの指一本ぶん、ずれた場所。
押しても押しても、見つからなかったもの。
ゆうべ目をこらして陣をぜんぶ追っても、見つからなかったもの。
それは、休んで逆から見たとたんに、そこにあった。
(——ここだ)
鼓動がひとつ大きく鳴った。
指の先は、つめたいのにじっとり汗ばんでいた。
近い。こんなに近くに、ずっと。
押し続けたときには、見えなかった。
止まって、はじめて見えた。
◇◇◇
今朝、盆に置いた炭をもう一度手に取った。
その先を、図の上へおろす。
継ぎ目のところに、小さな丸をひとつ。
すとん、と炭が紙におりた。
ゆうべは、どの線にもおりていかなかった炭。
今朝は、迷いなく一点におりた。
直す場所が分かったから。
「明日」
声に出してみた。
「明日、あの一本を直す」
今日はもう繋ぎ直さない。
休むと決めた日だから。
腹のなかには、まだ黒パンの味が残っている。
図の上の小さな丸は、炭の黒でまだ濡れて光っていた。
■あとがき・解説
第173話は、折れかけたリナが、立ち上がるのではなく「止まる」ことで前へ進む回でした。第2部の危機がいちばん深くなった前話の、その翌朝の話です。
ゆうべの試運転は失敗したまま、宮中では塔を解けという上申が出ている。手を動かしても止めても、同じ筆が塔を消そうとしている——そんな淵に立ったまま、リナは朝を迎えます。
今回は「あと一本だけ」「道と陣」「休む」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「あと一本だけ」——止まれない癖と、止まる力
この回でリナの内側に立ち上がるのは、前世の「あと一本だけ」という声です。あと一本だけ書いたら、あと一つだけ直したら。その癖のままに、前世のリナは机の前で、つくるものより先に自分のほうが壊れてしまった。
今度はその声を、いつもの号令としてではなく「ここで止まらないと、また壊れる」という警鐘として聞き取りました。そして生まれてはじめて、誰に言われたからでもなく、自分で「今日は休む」と決めます。止めてくれる手が、今度はそばにありました。母の手紙の三行、固い黒パンと水を黙って置く父、井戸端で「無理はしないでください」と言う年上の見習い。立ち直らせる大きな言葉は、誰も与えません。けれど、止まってもいいという小さな許しが、いくつも重なります。止まれない癖を、自分で止める力に変えた——リナにとって、これまででいちばん深い「自分を御す」一歩でした。
■「道」と「陣」——眼に映るものと、映らないもの
塔のなかでは、たくさんの魔法陣(陣)が、力を渡す経路(道)でつながっています。リナの「眼」が読み解けるのは陣だけ。今回の間違いは、陣ではなく道の一本にありました。
だから眼をこらしても見つからず、指で一本ずつ辿るしかなかった。押し続けたゆうべには見えなかった一点が、休んで眠った頭で図を出口から逆に辿ったとき、すっと目に入ります。間違いは、いつもおなじところで起きていました。よく似た隣の石へ繋ぎ違えられた、銅の結び目ひとつ。止まったことが、発見につながったのです。
■「休む」——はじめて自分で選んだ停止
止まれと言われて止まるのでも、手が動かなくなって止まるのでもなく、自分の意志で休むと決める。リナがそうやって止まったのは、これがはじめてでした。前世のリナには、とうとうできなかったことです。
直すのは明日。今日は休むと決めた日だから。ゆうべはどの線にもおりていかなかった炭が、今朝は迷いなく一点におりる。その小さな丸が、この回のリナのいちばん遠くまで届いた一歩でした。塔を直すより前に、まずこの一歩がありました。
次の話もお楽しみに。




