第172話 廃棄の上申
武具蔵の朝に、火はなかった。
ゆうべ落とした火は、まだ一つも入れ直されていない。
焼けた石のにおいだけが冷えた蔵の隅に居残っていた。
(——まだ、あのままだ)
送りの口には、いちばん長い布がゆうべのまま途中で掛かっていた。
端から端まで、村への線を引いたはずの布だった。
その下で間違えた灯りは、もう赤くもない。間違えたところで止まったきりの形だけが消し忘れのように棚の奥に残っていた。
今朝は、集まった技師がいっそう少なかった。
壁ぎわで黙って白湯をすする者が二人、三人。誰も布に手をかけようとはしなかった。
わたしは踏み台に乗って、また棚の裏の道を辿りはじめた。
火がなくても、道は指でなぞれる。
蓄魔石から出た力がどの石へどの順で渡るか。冷えた銅を一筋ずつ、ゆうべ辿った半分のその先からなぞっていく。
指は、すぐにかじかんだ。
十三の手はいちばん上の道に届かせるたびに、背いっぱいを伸ばさなければならなかった。
それでも、辿るしかなかった。眼で読めるのは陣だけで、道は読めない。読めないから、指でしか探せなかった。
◇◇◇
昼前に、ヘルムが宮中から戻ってきた。
戻ってくる足音がいつもと違った。
重いのではない。速いのでもない。どう運んでいいか分からない足音だった。
ヘルムは、わたしの踏み台のそばまで来て、立ち止まった。
それから太い声を、いつもより低く落とした。
「リナ。ゆうべの試しは、もう宮中に届いた」
わたしは道をなぞる指を止めた。
「卿が、筆を執った」
(——卿が)
あの白髪の老人だ。戸口で「人も銭も、宮中の名のあるほうへ流れる」と言った、あの人。
「上申、という。塔を解け、と書いて、評定の間に出した」
ヘルムは言葉を選ぶように間を置いた。
「近く、評定がかかる。あと幾日もせんうちに、沙汰が出る。——塔を、解くか残すか」
解く。
その一言が蔵の冷たさよりも冷たかった。
評定の間がどこにあるのかも、わたしは知らない。
そこで誰が、どんな顔で筆を執るのかも知らない。
わたしのいない遠い部屋で、わたしの塔を解くか残すかが決められる。
(——わたしは、そこにいられない)
村の井戸端でも、工房でも、揉めごとはいつも揉めている当人の目の前にあった。
ここは違う。わたしの手の届かない壁の向こうで、見たこともない人たちがわたしの塔の生き死にを決める。
その壁の高さが十三の背では見上げることもできないほど、高かった。
(——動いても、動かなくても)
動いていたころは、賢いから危ういと言われた。
動かなくなったいまは、要らぬと言われる。
動いても、動かなくても、同じ筆が同じ墨で塔を消そうとしている。
成功と失敗が同じところへ流れ着く。
そんな川の引き方を、わたしは知らなかった。
◇◇◇
ヘルムは間違えたままの灯りの跡を、しばらく見ていた。
「俺は、掛け合う。今日も、明日も。それは、する」
低い声だった。
「だが、リナ。——今度ばかりは、押し返せんかもしれん」
太い肩がわずかに落ちた。
銭が止まったと聞いた日も、人が減ったと聞いた日も、この人は「盾になれるのはここまでかもしれん」と言った。
押し返せんかもしれん、と言ったのは、初めてだった。
「動いて見せれば、向こうの口はふさげた。それを、こちらが渡しちまった。——俺の腕には、止まった塔を庇う言葉がない」
ヘルムはそれきり黙った。
盾にしてきた背が向こうの重さに、少しずつたわんでいくのが見えた。
たわんでいるのに、この人はまだわたしと塔のあいだに立っていた。
◇◇◇
夕方、アディラが蔵に入ってきた。
まっすぐな背はまだまっすぐだった。
けれど戸口で立ち止まったきり、すぐには中へ入ってこなかった。
「言える言葉は、ぜんぶ言いました」
それが、最初の言葉だった。
「塔は理を冒さない。手で確かめられる。小さく作って較べた。並べられる正しさは、ぜんぶ評定の間に並べました」
アディラの指を、わたしは見た。
いつも墨で汚れている指だった。論を書きつけ、陣を書きつけ、新しい言葉を足しつづけてきた指。
その墨が今日は乾いていた。新しく書き足された黒がどこにもなかった。
「今度は、通りませんでした」
声は確かなままだった。確かなのに、その下の底が抜けていた。
「動かぬ塔を、どう庇えばいいのか。——わたしには、その言葉が、見つからなかったのです」
正しさを並べれば、いつかは通ると思っていた。
正しいものは正しいと、何度でも言えばいいと、この人は言っていた。
その「何度でも」が今日、尽きた。
まっすぐな背の向こうが夜の灯りもないのに、薄く透けて見えた。
(——並べる正しさが、なくなったら)
そのあとに何を並べればいいのか、わたしにも分からなかった。
◇◇◇
その夜、わたしは紙の前に座った。
棚の裏の道はまだ半分が残っている。
辿らなければ、間違いの一点は見つからない。見つからなければ、塔は動かない。動かなければ、解かれる。
理屈はぜんぶ分かっていた。
炭を、握り直そうとした。
手が、動かなかった。
(——あれ)
指は炭を握っている。握っているのに、その先が進まない。
図の上に、おろせない。
紙に引かれた線がただの線に見えた。どの線が何の道なのか、さっきまで分かっていたものがふいに遠くなった。
何のために、この線を辿るのだったか。
辿って、見つけて、直して、それで——その先が思い出せなかった。
手を動かす理由が胸からすとんと抜け落ちていた。
(——わたしは)
声を出そうとした。喉が固まって、何も出てこない。
まぶたの奥が熱いのに、涙も出てこなかった。
十三の娘が宮中の壁を越えられるわけがなかった。
村の狼煙台から、ここまで来た。覚える仕掛けも、符号も、この塔も、村の遠い家へまっすぐな線を一本届けるための道だった。
その一本が家に着く前に、わたしのいない部屋で畳まれる。
握った炭が紙の上で止まったままだった。
◇◇◇
父が、紙の横に来た。
何も言わずに、止まったわたしの手をしばらく見ていた。
それから、その手の上に自分の手を重ねた。
大きくて、節くれだった手だった。
炭を握ったわたしの指ごと、上からそっと包んだ。
ほどけ、とは言わなかった。動け、とも言わなかった。
「今日は」
低い声だった。
「ここに、いる」
それだけ言って、父は手を重ねたまま、動かなかった。
わたしは、何も言えなかった。
父の手は温かかった。温かいのに、わたしの止まった手はその温もりの行き場が分からないみたいに、まだ動けないでいた。
◇◇◇
蔵の火は夜のあいだも入らなかった。
送りの口には、いちばん長い布が途中で止まったまま掛かっていた。
送り爪は、もう動いていなかった。
父の手の下で、わたしの握った炭は、図の上のどの線にもおりていかなかった。
■あとがき・解説
第172話は、試運転の失敗が宮中に伝わり、グランツ卿が演算塔の解体を上申する——第2部の危機が、いちばん深くなる回でした。防波堤が崩れかけ、止まらなかったリナの手が、初めて止まります。
今回は「塔を、解け」「動いても、動かなくても」「今日は、ここにいる」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「塔を、解け」——遠い部屋で、運命が決まる
昼前、ヘルムが宮中から戻り、太い声をいつもより低く落として告げます。「卿が、筆を執った」。上申、という。塔を解け、と書いて、評定の間に出した。近く評定がかかり、あと幾日もせんうちに、塔を解くか残すかの沙汰が出る。
リナを打ちのめすのは、命令そのものより、その決まり方でした。評定の間がどこにあるのかも、誰がどんな顔で筆を執るのかも、リナは知らない。村の井戸端でも工房でも、揉めごとはいつも当人の目の前にあった。けれどここでは、手の届かない壁の向こうで、見たこともない人たちが塔の生き死にを決める。その壁の高さは、十三の背では見上げることもできないほど高い。自分のいない場所で自分の道が畳まれていく——前話までの「孤立」が、いちばん残酷な形をとります。なお、廃棄の沙汰はまだ確定していません。物語はここで淵まで連れていって、落としきりはしません。
■「動いても、動かなくても」——同じ筆が、同じ墨で
動いていたころは、賢いから危ういと言われた。動かなくなったいまは、要らぬと言われる。リナは気づきます。動いても、動かなくても、同じ筆が同じ墨で塔を消そうとしている、と。
成功と失敗が、同じところへ流れ着く。そんな川の引き方を、リナは知りませんでした。これは技術の正否とはまったく別の論理です。正しく動けば「先例になるから危うい」、止まれば「無用だから要らぬ」。どちらの結果も、初めから潰すと決めた者の手にかかれば、同じ口実に変わる。前話までリナが拠って立ってきた「確かめられること」「正しいか正しくないか」が、この部屋ではいっさい効かない。アディラの墨は今日、新しく書き足された黒がどこにもなく乾いていて、「言える言葉は、ぜんぶ言いました」「今度は、通りませんでした」と告げます。並べる正しさが、ついに尽きた。ヘルムも「今度ばかりは、押し返せんかもしれん」と、初めて口にします。盾にしてきた背が、向こうの重さにたわんでいく。それでも、たわんだまま、二人はまだリナと塔のあいだに立っています。
■「今日は、ここにいる」——止まった手と、父の手
その夜、リナは紙の前に座ります。辿らなければ間違いの一点は見つからない。見つからなければ塔は動かない。動かなければ解かれる。理屈はぜんぶ分かっている。それなのに、炭を握り直そうとした手が、動きませんでした。
止まらないことだけが取り柄だった手が、初めて止まる。図の線がただの線に見え、手を動かす理由が胸からすとんと抜け落ちる。声を出そうにも喉が固まり、まぶたの奥が熱いのに涙も出ない。これは前世から続く「あと一つだけ」の働きすぎの癖とは逆向きの、外から押されて諦めかける折れです(自分を守るために主体的に止まる健康な選択は、もう少し先の話)。だから今回は、立て直しの言葉をまだ誰にも言わせません。父は、止まった手の上にそっと自分の手を重ね、ほどけとも動けとも言わず、ただ「今日は、ここに、いる」とだけ告げます。決定的な救いではなく、止まったままでいいと許す重し。送り爪はもう動かず、父の手の下で、リナの握った炭は図の上のどの線にもおりていきませんでした。次の話で、この止まった手が、もう一度動きはじめます。
次の話もお楽しみに。




