第170話 締め付け
武具蔵の朝に、足音が減った。
高い窓から落ちる光は、昨日と同じ角度だった。
石のにおいに、人のいない冷たさが薄く混じっている。
(——また、ひとり)
塔は、今日も火が落ちたままだった。
火を入れる人たちは、いまも半分が宮中に残されている。
そのうえ昨日、もうひとり、宮中の別の務めへ呼び戻された。
陣を書ける人が、また減った。
わたしの手では、石ひとつ灯せない。
だから火のない日は、減った人数で塔をどう回すか、図と数で組み直すことに使う。
棚の石の数を、もう一度数える。
誰がどの石を、いつ焼き替えるか。一人で回せる順は、どこまでか。
炭を握って、紙の上に当たりを打っていく。
何度組み直しても、人が足りなかった。
◇◇◇
昼前に、灰色の衣の役人が来た。
塔も、灯った列も、何も見ない。
ただ一枚の帳面をヘルムに渡して、用件だけを置いていった。
「月替わりの蔵の費え。次の沙汰まで、見合わせとのことです」
ヘルムが、帳面を開いた。
太い指が、文字を上から下へなぞる。それから、止まった。
「見合わせ、とは。いつまでだ」
「次の沙汰まで、と」
役人はそれだけ言った。
いつ、とは書かれていない。来る、とも書かれていない。
いまは来ない。それだけが、決まっていた。
役人が出ていくと、ヘルムは帳面を卓に置いた。
置く音が、いつもより重かった。
(——銭が、止まった)
廃せ、とは言われていない。
月替わりに来るはずの費えが、来なくなった。
石も、布も、炭も、人の食い扶持も、その費えで回していた。
止めるとは言わずに、流れだけを細くする。
あの白髪の老人が、戸口で言ったとおりだった。
◇◇◇
午後、手の甲に火ぶくれをこしらえた若い技師が、わたしのそばに来た。
ニルス、というまだ十六の見習いだった。
火を入れる役を手伝ううちに、何度も石の熱でやけどをした手だった。
その手で、所在なげに筆をもてあそんでいる。
「あの……リナ殿」
声が、小さかった。
「家の者が、心配しているんです。宮中で、よくない話になっていると。続けていて、いいんでしょうか。おれは」
責める声ではなかった。
迷っている声だった。
わたしはすぐには答えられなかった。
この人の家には、この人の帰りを待つ人がいる。
塔のために手をやけどして、そのうえ宮中の風当たりまで背負えとは、わたしには言えなかった。
「……無理は、しないでください」
それだけ言うのが、やっとだった。
ニルスは小さく頭を下げて、火ぶくれの手で、また石のほうへ戻っていった。
その背中を、わたしは見送ることしかできなかった。
◇◇◇
夕方、ヘルムが宮中から戻ってきた。
毎日、宮中へ掛け合いに行く。
費えのこと、人のこと、塔のこと。そのたびに、押し返されて帰ってくる。
今日の肩は、ことに重そうだった。
「卿は、会わなんだ」
椅子に腰を下ろしながら、ヘルムは言った。
「代わりに、灰色の衣が出てきた。月替わりの費えのことは、もう聞いたな」
わたしは頷いた。
ヘルムは太い手で、顔を一度こすった。
「リナ。俺は、お前の塔が要るものだと思っている。それは、変わらん」
低い声だった。
「だがな。俺が盾になれるのは、ここまでかもしれん。押しても、向こうは引かん。引かんどころか、こちらの足元の銭から抜いていく。——俺の腕では、銭までは庇えん」
ヘルムはそれきり黙った。
庇いきれない、とこの人が口にするのを、わたしは初めて聞いた。
◇◇◇
戸口のほうで、アディラがまっすぐな背のまま立っていた。
この人も、宮中から戻ったばかりだった。
昼間は宮殿で論を張り、夜は蔵で石に火を入れる。陣を書ける役が一人に減ったいま、何百もの石の焼け替えを、ほとんど一人で背負っている。
「卿の言い分には、まだ言い返せます」
アディラは言った。声は、確かだった。
「塔は理を冒さない。何度でも、そう言えます」
そうだろうか、と思う。
言えば言うほど、この人は宮廷でひとりになっていく。
言いきったあとも、アディラはなかなか中へ入ってこなかった。
戸口に立つその影が、いつもより小さく見えた。
あと何度この人が論を張れば、その確かさが擦り切れてしまうのか。わたしには、分からなかった。
(——勝ったほうの戦いの、すぐ隣で)
塔は、間違えない。
正しい符号を正しいと、崩れた符号を崩れていると、律儀に返す。
そちらの戦いは、もう勝っていた。
それなのに、そのすぐ隣で、別の戦いに負けかけている。
人と人とのあいだの、ぬるくて固いもの。正しさでは押せない、銭と名のかたまり。
わたしはそれの動かし方を知らなかった。
◇◇◇
その夜、わたしは紙の前から離れられなかった。
減った人数の段取りを、もう一度組み直す。
配線の道を指で辿り、検算をやり直す。直したはずの順に、また綻びが見えてくる。
食が、細っていた。
父が置いた皿は、半分残ったまま冷えていた。
眠ろうとしても、まぶたの裏で石の数が回り続けて、目が冴える。
(——あと、ひとつだけ)
ふいに、そんな声がした。
遠い昔の、わたしの声だった。
あとひとつ直せば。あとひとつ片づけば。それで、終わる。
そう思って手を止めなかった、前世のわたしの癖だった。
こめかみの奥が、鈍く痛んだ。
父が、白湯の入った椀を、紙の横にそっと置いた。
「手は」
低い声だった。
「止めるときに止めんと、止まらなくなる」
それだけ言って、父はまた道具のほうへ戻っていった。
椀から、白い湯気が細く立っていた。
わたしは炭を置けないまま、その湯気を見ていた。
◇◇◇
その椀の隣に、一通の封があった。
昼に、村からの荷といっしょに届いたものだ。
ベルマンさんの荷馬車が、月に幾度か村と王都を行き来している。その便に、母の手紙が混じっていた。
宛名の字が、丸かった。
宮中の冷えも、灰色の衣も、月替わりの費えのことも、何ひとつ知らない字だった。
封を開けると、村の近況が、母の字でならんでいた。
ノラが織りの覚え書きを自分で結べるようになったこと。畑の麦が、芽を出したこと。父さんの留守を、家のみんなで守っていること。
その近況の終わりに、三行だけ、行を空けて書いてあった。
むりを、しないでね。
つかれたら、いつでもかえっておいで。
塔がどうなっても、リナはリナだから。
(——塔が、どうなっても)
胸の奥が、ふっと緩んだ。
母は塔が動いたかどうかを訊いていない。
正しいかどうかも、宮中で勝ったかどうかも、何も訊いていない。
ただ、リナはリナだから、と書いていた。
いつか村で、貴族様の前でも同じことを言われた気がする。
リナはリナよ、と。
あのときと、同じ手だった。会えなくても、字の上に母の手が残っていた。
◇◇◇
それでも、追い詰めは、解けなかった。
手紙を読んでも、費えは来ない。人は減ったままだ。
塔は、火が落ちている。明日もまた、組み直さなければならない。
「帰っておいで」と言われて、「はい」と帰れるなら、こんなに苦しくはなかった。
(——まだ、退けない)
退く、とは決めたくなかった。
村の狼煙台から、ここまで来た。覚える仕掛けも、符号も、この塔も、村の遠い家へまっすぐな線を届けるための道だった。
それを、まだ畳みたくはない。
わたしは手紙を畳んだ。
畳んで、卓の引き出しの、いちばん手前にしまった。
奥にはしまわなかった。いつでも開けられる場所に、置いておきたかった。
◇◇◇
翌朝、ヘルムが、減った技師たちを蔵の真ん中に集めた。
「銭は止まった。人も減った。これ以上は、待てん」
太い声だった。
「黙って痩せていくのを、ただ見ているわけにはいかん。——近く、通しで一度、かけてみる」
技師たちが、顔を上げた。
「村への伝言の経路を、端から端まで一度に検める。短い布ではない。いちばん長い布を、一度で通す」
ヘルムはわたしを見た。
「賭けだ。うまく通れば、宮中も、玩具とは言えなくなる。ひとつ、動いて見せねば、向こうは止まらん」
蔵の隅に、村への伝言を載せるための穿孔布が、束ねて置いてあった。
いちばん長い、まだ一度も通していない布だった。
わたしは減った手で、その束にそっと触れた。
紙の束は、思っていたよりも、ずっと重かった。
■あとがき・解説
第170話は、グランツ卿の圧力が「観念」から「物」へ——予算の見合わせ、人員の引き抜き——に転じ、リナが静かに追い詰められていく回でした。
今回は「銭が、止まった」「あと、ひとつだけ」「リナはリナだから」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「銭が、止まった」——廃止ではなく、兵糧攻め
灰色の役人が運んできた沙汰は、「月替わりの蔵の費え、次の沙汰まで見合わせ」。廃せ、とは言われていない。ただ、来るはずの費えが来なくなった。
石も布も炭も、人の食い扶持も、その費えで回していた。止めるとは言わずに、流れだけを細くする——グランツが戸口で言ったとおりです。陣を書ける人がまた一人減り、火ぶくれの若手が「続けていて、いいんでしょうか」と迷い、ヘルムは「盾になれるのは、ここまでかもしれん。銭までは庇えん」と初めて弱音を漏らす。アディラはまっすぐな背のまま、けれどその向こうが薄く透けて見える。塔そのものの戦い(正しいかどうか)はもう勝っているのに、そのすぐ隣で、銭と名のかたまりに負けかけている。
■「あと、ひとつだけ」——前世の影が、ちらつく
食が細り、眠れず、まぶたの裏で石の数が回り続ける。そのとき、「あと、ひとつだけ」という遠い昔の自分の声がよぎります。
あとひとつ直せば、あとひとつ片づけば終わる——そう思って手を止めなかった、前世の癖。これはまだ予兆です(本格的に立ち上がるのは、もう少し先)。父が白湯を置いて、「手は、止めるときに止めんと、止まらなくなる」とだけ言う。止まれない娘に、止まる側の重しを、父は所作で置いていきます。
■「リナはリナだから」——母の手紙
その夜、村からの便に母エマの手紙が混じっていました。宮中の冷えも、灰色の衣も、費えのことも、何ひとつ知らない丸い字。近況の終わりに、三行だけ。
「むりを、しないでね。つかれたら、いつでもかえっておいで。塔がどうなっても、リナはリナだから」。母は、塔が動いたかも、勝ったかも訊いていない。ただ、リナはリナだから、と書く。いつか貴族の前で言われた「リナはリナよ」と同じ手が、字の上に残っていました。それでも追い詰めは解けない。帰っておいで、と言われて、はい、と帰れるなら苦しくはなかった。リナは手紙を畳んで、引き出しのいちばん手前にしまいます。奥にはしまわない。いつでも開けられる場所に——この手紙は、もう少し先で「止まる」側の重しとして、もう一度効いてきます。翌朝、ヘルムが「通しで一度、かけてみる。賭けだ」と告げ、いちばん長い穿孔布の束に、減った手でそっと触れて閉じました。
次の話もお楽しみに。




