第169話 異質な設計図
武具蔵の隅に、紙のにおいが増えていた。
石と土のにおいの底に、古い紙の乾いた匂いが薄く混じる。
高い窓から、朝の光が斜めに落ちていた。
あの評定から、三日が経った。
(——人が、減った)
塔は、今日も火が落ちたままだった。
火を入れる人たちの半分は、まだ宮中に残されている。
ヘルムも、アディラも、冷えた壁の向こうで言葉を継いでいるはずだった。
わたしの手では、石ひとつ灯らない。
だから火のない日は、図面と段取りを組み直すことに使う。
棚の数を数える。配線の道を、指で辿る。
どの石をいつ替えるか、紙の上で順を組んでいく。
火が入らなくても、できることはまだあった。
父が、わたしの広げた紙の端をそっと押さえた。
風で角がめくれないように。それだけの所作だ。
めくれた角を指で伸ばすと、父はまた道具のほうへ戻っていった。
蔵は、静かだった。
三日前まで、もっと多くの足音がしていた気がする。
◇◇◇
昼前に、図面を写す若い技師が、書庫から戻ってきた。
腕に、古い図面の束を抱えている。
建造の参考にとヘルムが許しを出して、借りてきたものらしい。
革紐で綴じた、ずいぶん古い紙の束だった。
「これ、昔、信号の塔を直したときの図面だそうです」
若い技師はわたしの設計の隣に、その一枚を広げた。
紙の端が、茶色く焼けている。
描いた線は薄れて、ところどころ消えかけていた。
引かれた道筋は、読めた。
(——この図面)
知っている、と思った。
いつか村で、テオドールさんが見せてくれた古い図面。
あれの、写しのもとになった一枚だ。
あのときは写しを見た。いまは、もとの紙が目の前にある。
茶色く焼けた線の上に、見覚えのある分け方があった。
入口で、まず形をたしかめる。
中身を運ぶ道と、それを動かす道を、別々に引いてある。
直すところと、確かめるところを、わざと離してある。
若い技師は二枚の紙を見比べていた。
わたしの設計と、古い図面と。
「……似てますね」
何気ない声だった。
「この設計、書庫の古い図面に似てます。中身と道具を分けるところ。確かめてから先へ進むところ。順番の組み方が、同じ手つきだ」
筆を耳にはさんだまま、若い技師はもう一度、二枚を見比べた。
「昔の人も、同じことを考えてたんですかね」
そう言って、首をかしげる。
それ以上の意味は、その人の中にはなかった。
二枚の紙が似ている。その人には、それだけのことだった。
◇◇◇
わたしは返事ができなかった。
口の中で言葉がからまって、出てこない。
(——同じ手つき)
若い技師にとっては、何気ない一言だ。
けれどわたしには、それが初めてではなかった。
いつか村で、この図面の写しを見たときから、ずっと引っかかっていた。
入口で形をたしかめ、中身と道具を分け、確かめてから先へ進む。
それは、わたしが息をするように選ぶ順番だった。
前世から、ずっとそうしてきた。誰に教わったわけでもない。
そのあとも、同じ手つきに二度出会った。
押収された暗号文の癖。あれは言葉を守ろうとした人の形ではなく、仕組みを組んだ人の形だった。外から来た設計だ、と思った。
それから、神殿が漏らした話。古い字を書き込んだ紙が一枚、束に交じっていたという。その字を読める、もしかしたら書ける誰か。
そのたびに、わたしは思ってきた。
わたしのほかにも、いるのかもしれない、と。
いま、何も知らない若い技師が、二枚の紙を並べて言った。
同じ手つきだ、と。
わたしの思い過ごしでは、なかったらしい。
◇◇◇
世界をこう読む者は、わたしひとりではなかった。
そう思うと、胸が少しだけ温かくなった。
ここしばらく、わたしはひとりだった。
正しいと言えることが、いちばん軽い部屋。だれもわたしの側に立たない卓。
そのなかで、どこかに同じ順番で考える誰かがいる。
それは、かじかんだ手に火を寄せてもらったような温かさだった。
すぐに、別のものが背を撫でた。
(——だれ、なんだろう)
その誰かが、いつの人なのか。
味方なのか、そうでないのか。生きているのか、もういないのか。
何ひとつ、分からなかった。
それに、と思う。
わたしと同じ順番で考える者がいるなら。
わたしの異質さに、いちばん早く気づくのも、その者かもしれない。
見つけられすぎることの怖さ。
村を出てからずっと背中にあったその感覚が、宮中の冷えと重なって、急に近くなった。
ふと、村の老人が話していた古い言い伝えがよぎった。
遠い昔、世界をだれよりも深く読んだ眼の持ち主が、世界の外へ消えたという話。
——いや。
それは、ちがう。
わたしは頭を振って、それを払った。
いまは、そんな遠い話を抱えるときではない。
◇◇◇
古い図面の束は、若い技師が棚に立てかけて、また自分の写し仕事へ戻っていった。
似ていると言ったことを、もう忘れているような背中だった。
その一枚が、わたしの設計の隣に立てかけられたまま残った。
(——見たい)
ほんとうは、いますぐ書庫へ行きたかった。
この図面の、もとの束。作者の名を記していない、台帳の空いた欄。
神々の古い字を書き込んだ、一枚の紙。
それが、歩いて行けるところに眠っている。
棚に立てかけられた束は、わたしの背では爪先立ってやっと端が届く高さにあった。
中身は遠い昔のままなのに、手を伸ばす身体は、まだ十三の子供のものだった。
でも、いまではなかった。
塔には、まだ手がいる。火の入らない日にも、組み直すことが山ほどある。
そのうえ、宮中の風は冷たくなる一方だ。人も銭も、名のあるほうへ流れていく。
わたしが書庫にこもって古い紙を眺めていたら、それこそ玩具に夢中の子供だと書かれてしまう。
見たい。けれど、いまはその時ではない。
わたしはその問いを、そっと呑み込んだ。
だれにも言わなかった。若い技師にも、父にも。
◇◇◇
父が、いつのまにか隣に来ていた。
立てかけた古い図面を、しばらく黙って見ている。
それから焼けた紙の端に、そっと指を触れた。
古い時計の蓋を開けるときの、あの手つきだった。
「ずいぶん、古い手だな」
低い声だった。
「描いた者は、もういないかもしれん。会うことも、かなわんだろう」
父は薄れた線を指でたどった。
「だがな、リナ。手は、物に残る」
わたしは顔を上げた。
「時計を直すとき、作った者には会わん。会わずとも、直せる。歯の数、ばねの巻き、止め金の癖。物を見れば、その者の手が分かる。会えんでも、手は分かるんだ」
父はわたしの設計の紙を軽く指で叩いた。
「お前の引いたこの線にも、お前の手が残る。お前が会わん誰かが、いつか、これを見るかもしれん」
そう言って、父はまた道具のほうへ戻っていった。
言いたいことを言い切った、という背中だった。
◇◇◇
わたしは二枚の紙を並べて見た。
茶色く焼けた、古い図面。
墨のまだ新しい、わたしの設計。
引いた手は、遠く離れている。
時も、場所も、たぶん何もかも違う。
それでも、入口で形をたしかめ、中身と道具を分け、確かめてから先へ進む——その順番だけが、二枚の紙の上で同じ形をしていた。
会ったことのない誰かの手が、いま、わたしの紙の隣に並んでいる。
わたしは古い図面の、焼けた端をそっと伸ばした。
めくれないように。さっき父が、わたしの紙にしてくれたのと、同じ手つきで。
二枚の紙は、しばらく、並んだまま蔵の隅にあった。
■あとがき・解説
第169話は、技師団の若手が書庫から借りてきた古い図面を見て、何気なく「似ていますね」と漏らす——リナだけが気づく、二度目の影の回でした。
今回は「同じ手つき」「ひとりではなかった」「手は、物に残る」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「同じ手つき」——リナだけが気づく符合
若い技師は、リナの設計と古い図面(テオドールが村で見せた写しの、もとの一枚)を並べて言います。「順番の組み方が、同じ手つきだ」「昔の人も、同じことを考えてたんですかね」。
その人にとっては、ただ二枚の紙が似ている、それだけのこと。けれどリナには初めてではありませんでした。入口で形をたしかめ、中身と道具を分け、確かめてから先へ進む——それは、リナが息をするように選ぶ順番。誰に教わったわけでもない。そして、押収された暗号文の癖にも、神殿が漏らした古い字にも、同じ手つきの影があった。三度目の符合が、何も知らない若手の一言で、はっきり形になります。
■「ひとりではなかった」——温かさと、怖さ
「世界をこう読む者は、わたしひとりではなかった」。そう思うと、胸が少しだけ温かくなる。正しさがいちばん軽い部屋で、誰も側に立たない卓で孤立していたリナにとって、それはかじかんだ手に火を寄せてもらったような温かさでした。
けれど、すぐに別のものが背を撫でます。その誰かが、いつの人か。味方か、そうでないか。生きているのか、もういないのか。何も分からない。そして——自分と同じ順番で考える者がいるなら、自分の異質さに最初に気づくのも、その者かもしれない。見つけられすぎることの怖さが、宮中の冷えと重なって近づく。原本は歩いて行ける書庫に眠っているのに、塔と圧力で動けない。「見たい。けれど、いまはその時ではない」——リナはその問いを、そっと呑み込みます。
■「手は、物に残る」——会えなくても
父が、焼けた古い図面の端に、時計の蓋を開けるときの手つきで触れます。「描いた者は、もういないかもしれん。会うことも、かなわんだろう。だがな、リナ。手は、物に残る」。
時計を直すとき、作った者には会わない。会わずとも、歯の数、ばねの巻き、止め金の癖——物を見れば、その者の手が分かる。「お前の引いたこの線にも、お前の手が残る。お前が会わん誰かが、いつか、これを見るかもしれん」。会ったことのない誰かの手が、いまリナの紙の隣に並んでいる。リナは古い図面の焼けた端を、さっき父が自分の紙にしてくれたのと同じ手つきで、そっと伸ばしました。二枚の紙は、しばらく並んだまま蔵の隅にある。会えない誰かへ伸びる細い糸の気配だけを残して、閉じています(この影が何者なのかは、まだ先で)。
次の話もお楽しみに。




