第168話 反対の圧力
暁の月の朝は、まだ薄い。
武具蔵の高い窓から、青い光が斜めに落ちていた。
石のにおいに、土のにおいが薄く混じりはじめている。
昨日、塔は答えを返した。
正しいものを正しいと、崩れたものを崩れていると。
その手ごたえが、まだわたしの指に残っていた。
(——もう一度だけ見たい)
アディラが、朝のうちに塔へ火を入れてくれていた。
わたしには石ひとつ灯せない。だから、布を送る役だけをもらう。
穿孔布を、頭から送った。
かり、かり。
送り爪が布を繰り、読み取りの目が穴を拾う。
較べる石が数える。
覚える石が、形をつき合わせる。
出口の端の灯りが、ぽつりと点った。
正しい、と。
次に、わざと一つ抜いた布を通した。
端の灯りが、違う場所に点る。
正しくない、と。
昨日と、寸分も違わなかった。
(——ちゃんと見分けている)
一日おいても、石は忘れていない。
教えられた手順を、律儀になぞっている。
わたしはその律儀さがすこし好きだった。
◇◇◇
戸が、肩で押されもせずに静かに開いた。
灰色の衣の役人だった。
昨日、玩具と書いて帰った人ではない。けれど、同じ灰色だった。
「技師団の、リナ殿」
呼ばれ方が、ていねいすぎた。
「宮中で、お話がございます。お越しを」
ヘルムが、秤の手を止めた。
父は送りかけの布をそっと押さえた。
役人は塔を見なかった。
灯った列も、温かい石も、何も見ない。
ただわたしの背の高さのあたりに目を置いて、戸口で待っている。
(——昨日、動いたのに)
動いたから、呼ばれた。
そう思ってしまってから、それが甘い考えだと気づいた。
◇◇◇
宮殿の一室は広く、冷えていた。
香の匂いが、また薄く漂っている。
長い卓の向こうに藍や濃紫の長衣が並んでいた。
宮廷で魔導を見る人たち。数えると、七人。
そのいちばん奥に、白髪の老人がいた。
とん、と。
黒い杖の石突きが、床を一度打った。
「また、会うたな」
ドミニク・グランツ卿だった。
わたしは頭を下げた。声が、すぐには出なかった。
グランツは卓に、一枚の帳面を置いた。
昨日、灰色の役人が書いて帰った帳面だ。
「玩具が、ひとつ動いた。そう聞いた」
杖の先が、帳面を軽く撫でた。
「足し算をして、正しいの正しくないのと、灯りで返すそうだな」
「……はい」
「人の手を、借りずに」
「はい」
老人はゆっくり頷いた。
それから、わたしを見た。背の低さを確かめる目では、もうなかった。
「ならば、なおさら、ならん」
◇◇◇
わたしは顔を上げた。
「動かぬものなら、玩具と笑っていればよかった」
グランツの声は、低いままだった。
「だが、それは動いた。人の手を借りず、正しい正しくないを選り分けた。——だから、危うい」
藍の袖が、卓の帳面のほうを指した。
「考えられぬものが、考える真似をするだけなら。気にもかけぬ。だが、ほんとうに選り分けてしまうなら、話は別だ」
杖が、また床に下りた。
とん。
「世界の理を、人ならぬものが握る。その始まりを、わたしは今日、この帳面に見た」
部屋が、しんとした。
七人の長衣は、誰も動かない。
わたしはいつのまにか炭を握っていた。
ここでは、その炭で書けるものは何もない。それでも、指が放さなかった。
(——ちがう、と言いたい)
塔は、理を握ってなどいない。
わたしが数え、わたしが組んだ手順を、ただなぞっているだけだ。
握っているのは人だ。わたしだ。
そう言いかけて、止めた。
握っているのが魔力のない子供の手だと言えば。
この人たちは、もっと、ならんと言う。
◇◇◇
それでも、わたしは口を開いた。
「あの塔は、間違えません」
声が、掠れた。
「正しい符号を正しいと言います。崩れた符号は、崩れていると言います。何度通しても同じです。確かめられます」
長い卓の、いちばん端の魔導士が、ほんの少しこちらを見た。
昨日まで、塔のことを面白がっていた人だった。
その目は、すぐ手元へ戻った。
(——確かめられる。それが、いちばん軽い)
確かめられること。間違えないこと。
それは、この部屋では何の重さも持たなかった。
重いのは、宮中の名だった。
何代も魔導を見てきた、という重さ。神の理を守る、という重さ。
正しいと言えることは、その前で、紙よりも軽かった。
磨かれた長い卓に、わたしの指の先だけが触れていた。
冷たくて、なめらかで、何の傷もない卓だった。
遠い昔のわたしなら、正しさが通る部屋を知っていた気がする。
けれど、ここはその部屋ではない。
ここでわたしは、名も魔力もない、ただの子供だった。
◇◇◇
ヘルムが、太い声を出した。
「卿。現場は、この子の塔でようやく息をつき始めた。組み替えの徹夜が、減ったのです」
「ヘルム。お前の現場の話は、昨日も聞いた」
グランツは振り返らなかった。
「楽になることと、踏み外さぬことは、別だ」
ヘルムが、口を結んだ。
昨日と、同じ壁だった。押しても、びくともしない。
アディラが、一歩前に出た。
「わたしは宮廷魔導士です。この目で塔を見ました。理を冒すものとは、思いません」
「フレンセン」
グランツは今度は名を呼んだ。
「お前は、ひとりだ」
藍の長衣が、卓の七人を示した。
「ここにいる誰が、お前の側に立った」
アディラは答えなかった。
まっすぐな背が、ほんの少しだけこわばった。
(——アディラさんが、ひとりにされていく)
わたしのために、この人は宮中でひとりになっていく。
そう思うと、握った炭が、よけいに重く感じた。
◇◇◇
グランツは杖を持ち直し、戸口へ歩いた。
とん、とん、と。
戸口で、一度だけ振り返った。
「廃せとは、まだ言わぬ」
低い声だった。
「だが、覚えておくがいい。人も銭も、宮中の名のあるほうへ流れる」
杖が、床を打った。
「名のないほうへは、流れぬ。だんだんと、細っていく。——それだけのことだ」
とん。
戸が、閉まった。
◇◇◇
足音が、廊下の奥へ遠ざかった。
とん、とん、と。間のある音が、小さくなっていく。
七人の長衣も、ひとり、またひとりと卓を立っていった。
誰も、わたしには声をかけなかった。
ヘルムは宮中に残った。アディラも、残った。
冷えた壁の向こうで、まだ言葉を継ぐつもりらしい。
父が、わたしの肩に手を置いた。
何も言わず、戸口のほうへそっと押す。
帰ろう、ということだった。
◇◇◇
武具蔵に戻ると、もう日が傾いていた。
塔は、火が落ちていた。
火を入れる人たちが、みな宮中に残されているのだから、当たり前だった。
わたしの手では、石ひとつ灯らない。
いちばん下の段の石に、指で触れた。
朝はわずかに温かかった石が、いまは冷たい。
(——でも、忘れてはいない)
灯せなくても、この石は手順を覚えている。
火さえ入れば、また正しいものを正しいと返す。
それだけは、確かだった。
わたしは送り終えた穿孔布を、一枚ずつ揃えて畳んだ。
正しい符号の布と、わざと崩した布。
重ねると、同じ厚さの紙束になった。どちらが正しいかは、紙の手ざわりでは分からない。
塔は、宮中の名を知らない。
誰が重くて誰が軽いかも、知らない。
ただ正しいものを正しいと、崩れたものを崩れていると、律儀に返すだけだ。
(——ここでは、正しさがいちばん重いのに)
それなのに、その律儀さのまわりへ、宮中の冷えが戸の隙間から細く流れ込んでいた。
わたしはいちばん下の段の石を手のひらで包んだ。
冷たい石は、いつまでも温まらなかった。
■あとがき・解説
第168話は、塔が動いた翌々日、グランツ卿の反対が「玩具」から本格的な圧力へと反転し、リナとアディラが宮中で孤立しかける回でした。
今回は「動いたから、ならん」「正しさは、重みの前で軽い」「細っていく」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「動いたから、ならん」——成功こそ危険という反転
前話でグランツの使いは「玩具が、ひとつ」と冷ややかに帰りました。ところが今回、グランツ本人の論理は反転しています。
「動かぬものなら、玩具と笑っていればよかった。だが、それは動いた。人の手を借りず、正しい正しくないを選り分けた。——だから、危うい」。考える真似なら気にもかけない。ほんとうに選り分けてしまうなら、話は別だ、と。成功したことそのものが、反対の根拠になる。技術が正しく動けば動くほど、神の理を侵すという恐れが強まる——リナが初めてぶつかる、勝っても勝ちにならない壁です。
■「正しさは、重みの前で軽い」——社会的受容の関門
リナは「あの塔は、間違えません。何度通しても同じです。確かめられます」と訴えます。
けれど、確かめられること・間違えないことは、その部屋では何の重さも持たなかった。重いのは宮中の名。何代も魔導を見てきた、神の理を守る、という重さ。正しいと言えることは、その前で紙よりも軽い。技術の正しさが、そのまま社会に受け入れられるわけではない——という関門を、評定の冷たい一室で体感させました。ヘルムの防波堤は昨日と同じ壁に阻まれ、アディラは「お前は、ひとりだ。ここにいる誰が、お前の側に立った」と孤立を突きつけられます。リナのために、この人は宮中でひとりになっていく。
■「細っていく」——次の締め付けへ
グランツは「廃せとは、まだ言わぬ」と言い残します。けれど、「人も銭も、宮中の名のあるほうへ流れる。名のないほうへは流れぬ。だんだんと、細っていく」。
廃止ではなく、兵糧攻め。予算と人を、静かに細らせていく宣告です(次回の具体的な締め付けへの前振り)。武具蔵に戻ると、塔の火は落ちている。火を入れる人たちはみな宮中に残され、リナの手では石ひとつ灯らない。朝は温かかった石が、いまは冷たい。それでも石は手順を忘れていない——火さえ入れば、また正しいものを正しいと返す。その律儀さのまわりへ、宮中の冷えが戸の隙間から細く流れ込む。冷たい石を手のひらで包んで、閉じました。
次の話もお楽しみに。




