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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑥「世界が、見つける」

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第163話 論点の地図

朝の冷えが、石の床から脛へ上ってきた。


壁の向こうで、架台の列が低くうなっている。

墨と、焦げた魔石の匂い。

ゆうべの宮殿にあった香の匂いは、ここにはなかった。


(——降りてきた)


わたしたちは、塔のわきの低い部屋にいた。

天井が近い。卓がひとつ。

その上に、アディラが写しとった図が広げてある。

四角と、矢印。数を置く場所と、手順を置く場所。あいだをつなぐ、一本の線。


線は、動かないままだった。


「卿は、宮中の名で認めることはできん、と言った」


ヘルムが、腕を組んだまま言った。

ゆうべと同じ姿勢で、目の縁だけがいっそう赤い。


「名がなければ、国の塔は組み替えられん。石ひとつ、布一枚、勝手には動かせん」


アディラは卓のはしに、筆を置いていた。

めずらしく、指のあいだで回していない。


「卿を、説き伏せられると思う」


わたしに訊いたのではなかった。

自分へ確かめるような、低い声だった。


「むずかしい」


ヘルムが答えた。


「あの人は、半世紀あの場所にいる。理屈で気が変わる人じゃない」


◇◇◇


戸口に、若い技師が立っていた。


ゆうべ、線を抜いて三日帰れなかった人。

指の腹が、まだすり切れている。

入っていいか、迷っているふうだった。


「……あの」


入ってきて、卓の図を覗いた。


「ひとつ、こわいことがあって」


すり切れた指が、右の四角を指した。手順を置く、と書いた場所を。


「手順と、数を、同じ器に入れる。——入れたら、機械が手順のほうを、まちがって書き換えたりはしませんか」


部屋が、静かになった。


(——気づいた)


数も手順も、同じ覚えるものに、同じ印で並ぶ。

だったら、数をいじるはずの動きが、隣の手順を踏むこともある。

書いた中身が、書いた中身を、書き替えてしまう。


それは前世でも、人が長く恐れてきたことだった。


(——この人は、現場で、それを肌で感じている)


ヘルムが、低くうなった。


「……それだ。卿の言うことと、こいつの言うことが、俺の中でずっとごっちゃだった」


腕を組み直す。


「混ぜるな、という声がふたつある。片方は神の話で、もう片方は——」


「手の話です」


わたしは言った。


◇◇◇


アディラが、ふっと顔を上げた。


「ふたつ、別なのね」


筆を取った。けれど、自分の紙には向けなかった。

炭を、わたしのほうへ滑らせる。卓の上を、すうっと。


「リナ。分けて見せて。——あなた、それが得意でしょう」


わたしは炭を握った。

今日は、机に向かって図を引くための炭だった。

手のなかで、その重みがすこし馴染んできた気がした。


新しい紙を、一枚もらった。

父が、その角を押さえてくれた。めくれないように、四隅を。


わたしは紙のまんなかに、線を引いた。

それから、もう一本。

紙を、三つに分ける。


(——地図を、描く)


混ざっているなら、どこに何があるか分ければいい。

だれの土地で、だれが旗を立てるのか。


いちばん左の囲みに、炭の先を置いた。


「ここは、神の理」


そこを、こつ、と叩く。


「唱える言葉を、ただの量と同じ器に入れていいのか。許すか、許さないか。——卿が立っているのは、ここです」


顔を上げた。


「これは、わたしには、分かりません」


ヘルムが眉を寄せた。


「分からん、で、いいのか」


「いいんです」


声が、少し掠れた。


「分からないことを、分かったふりで踏み越えるほうがこわい。ここは卿の土地です。わたしが旗を立てる場所じゃ、ない」


(——前世でも、いちばん危ういのは、分かったつもりの人だった)


アディラがわたしを見ていた。

何か言いかけて、やめた。


わたしはまんなかの囲みを指した。


「ここは、手で確かめられること」


炭を、すべらせる。


「手順が、まちがって書き換わる。——それは、起こります。ほんとうに起こる」


若い技師が、息を呑んだ。


「でも、起こると分かっているなら、防げます」


まんなかの囲みのなかに、小さな四角を描いた。

手順を置く場所だ。

その口に、横棒を一本。


「戸を、つけます。手順の置き場には、機械が勝手に書き込めないように」


横棒の隣に、矢印を一本だけ足した。


「読むだけの場所と、書き込んでいい場所を、しるしで分ける。読む順も、先に決めておく」


「全部、手で確かめられます。試して、まちがえて、直せる」


「神さまに訊かなくても、わたしたちの手で」


ヘルムの太い指が、まんなかの囲みをとん、と叩いた。

ゆうべの、あの杖の音に、少し似ていた。


「……これは、俺の土地だ」


低い声だった。


「これなら、確かめられる」


◇◇◇


わたしは三つめの囲みに炭を置いた。

いちばん小さい囲みだった。


「ここは、いますぐできること」


息を、ひとつ。


「大きな塔を、丸ごと組み替えなくていいんです。小さく、ひとつだけ作る」


「いまの組み替える式の塔。——その隣に、覚えさせる式の小さいのを、ひとつ」


「同じ計算を、両方にやらせます。並べて、較べる」


アディラの筆が、ぴくりと動いた。


「較べる……」


「速いほう、楽なほう、まちがいの少ないほう。手が、それを教えてくれます」


わたしは顔を上げた。

ヘルムを見て、それからアディラを見た。


「較べるだけなら、宮中の名は、いりません」


部屋の空気が、止まった。


(——土俵を、変える)


認めてください、と頼むのをやめる。

小さいものを、現場で、ひとつ作る。

それは塔を組み替えることじゃない。技師団の、手のうちのことだ。


「卿に、認めてくれとは言いません。許してくれとも、言わない」


炭の先で、三つめの囲みを、ぐるりとなぞった。


「ただ、小さいのをひとつ、ここで作って——較べる。それだけなら、だれの名もいらない」


ヘルムが、長いあいだ黙っていた。

腕を組んだまま、三つに分かれた紙を見ている。

神の理の囲み。手で確かめる囲み。いまできることの囲み。


それから、太い息を吐いた。


「……現場の裁量だ」


腕を、ほどいた。


「小さい試しに、いちいち宮中の名はいらん。それは技師団のうちのことだ。俺の名で出せる」


◇◇◇


アディラが、自分の紙を引き寄せた。

筆に、墨を含ませる。


「陣に起こすのは、わたし。——前に、そう言った」


わたしの地図の、まんなかの囲みへ目を落とした。

戸の横棒と、読むだけの矢印を。


「書き込む場所と、読むだけの場所を、しるしで分ける。置き場に戸をつける。……おもしろい。やったことがない」


筆の先が、紙の上でもう動きたがっていた。


父はずっと卓のはしにいた。

図には、手を触れない。

ただ、こぼれた炭の粉を、指の腹で紙の端へ寄せた。


「較べて、だめなら」


低い声だった。


「だめだった、と言えばいい。それも、ひとつの答えだ」


(——お父さんは、勝て、とは言わない)


胸の奥が、少しゆるんだ。


◇◇◇


わたしは炭を握り直した。

三つめの、いちばん小さい囲みに、書き足す。


「較べる」


たった三文字。

書いた形は、手順も数も、同じ印だった。


若い技師が、すり切れた指で、その三文字をなぞった。

声には、出さなかった。


紙のいちばん左の囲みだけが、空のままだった。

神の理。だれも旗を立てない土地。


わたしはそこには触れなかった。

触れずに、まんなかと右の囲みを、もう一度見た。

手で、確かめられること。


壁の向こうで、架台の列が、まだ低くうなっていた。


■あとがき・解説


第163話は、二日にわたった論争を、リナが「論点の地図」に描き直して着地させる回でした。


今回は「神の話と、手の話」「神の理の空白」「土俵を変える」について、ゆるく書いていきます。


■この話で出てきた言葉


■「神の話と、手の話」——混ざった反対を分ける


若い技師が、こわごわ問います。「手順と数を同じ器に入れたら、機械が手順のほうをまちがって書き換えたりはしませんか」。


これは、グランツの神学的な反対とは別の、現場の工学的な不安です。ヘルムが「混ぜるな、という声がふたつある」と気づき、リナが「片方は神の話、もう片方は手の話」と切り分ける。手順の置き場に「戸」をつけ、読むだけの場所と書き込む場所をしるしで分け、読む順を先に決めれば、書き換わりは防げる——手で確かめられる問題は、手で解く。神さまに訊かなくても、わたしたちの手で。リナの設計は、いつも「困っている人の手元」と「現場の不安」から出発します。


■「神の理の空白」——旗を立てない土地


地図のいちばん左、「神の理」の囲みだけは、最後まで空白のままです。


唱える言葉をただの量と同じ器に入れていいのか——その問いに、リナは「分かりません」と答えます。分からないことを、分かったふりで踏み越えるほうがこわい。ここはグランツの土地で、自分が旗を立てる場所ではない。前の世で、いちばん危ういのは「分かったつもりの人」だった、と。この空白の囲みは、いつか「世界が何を読み取って動くのか」という、もっと深い問いへの細い線でもあります。


■「土俵を変える」——認可を求めない


グランツは「宮中の名で認めることはできん」と言いました。ならば、認めてくれと頼むのをやめる。


大きな塔を組み替えるのではなく、覚えさせる式の小さいものをひとつ、現場で作って、組み替え式と並べて較べる。較べるだけなら、宮中の名はいらない。技師団の、手のうちのこと。これは、是非を宮中で争う土俵から、動くか動かないかを現場で確かめる土俵へ、戦いの場所そのものを移す一手です。ヘルムが「現場の裁量だ。俺の名で出せる」と腕をほどき、父が「だめなら、だめだったと言えばいい。それも、ひとつの答えだ」と後ろから支える。三つめの囲みに「較べる」と書き足したところで、論争はようやく、手で確かめる方へ降りていきました。


次の話もお楽しみに。


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