第162話 グランツ卿の反対
朝の光が、磨いた床に長く伸びていた。
香の匂いが、薄く漂っている。
広い部屋の真ん中に、卓がひとつ。
その上で、ゆうべの図が乾いていた。
(——アディラさんが、写してくれた図)
四角と、矢印。
数を置く場所と、手順を置く場所。
そのあいだを、一本の線がつないでいる。
濡れて光っていた墨は、もう黒く沈んでいた。
わたしはその線を見ていた。
昨日、自分の手でつないだ線を。
「来る」
ヘルムが、低く言った。
腕を組んだまま、戸口のほうを見ている。
夜のうちに、また塔を回ってきたらしい。目の縁が、まだ赤い。
父はわたしの少しうしろにいた。
卓には触れない。
ただめくれかけた図の角を、指の腹でそっと端へ寄せた。
アディラは筆を持っていなかった。
窓のそばに立って、外を見ている。
背がまっすぐで、肩に力が入っているのが、うしろからでも分かった。
(——この人も、緊張している)
廊下で、音がした。
とん、と。
床を、固いものが打つ音。
間のある、ゆっくりした足音だった。
とん。
とん。
急がない。
人を待たせることに慣れた、歩き方だった。
◇◇◇
戸が開いた。
白髪の老人が、入ってきた。
藍の長衣。
背は高くないのに、部屋がひとまわり狭くなった気がした。
右手に、黒い杖。
さっきの音は、その石突きだったのだ。
「待たせたかな」
低い、乾いた声だった。
老人は卓の前まで来て、立ち止まった。
わたしを見た。
それから、わたしの背の低さを確かめるように、少しだけ目を細めた。
(——子供だ、と思っている)
「ドミニク・グランツ」
老人は名乗った。
「宮廷で、いちばん長く魔導を見てきた者だ」
わたしは頭を下げた。
「リナ、です」
グランツは卓の図に目を落とした。
手は、伸ばさなかった。
引き寄せもしない。
ただ立ったまま、長いあいだ見ていた。
杖の先が、床に置かれたままだった。
(——読んでいる)
「これは、お前が考えたのか」
「はい」
「数を置く場所と、手順を置く場所を、ひとつにした」
「……はい」
グランツは線を見たまま頷いた。
それから、ゆっくり首を振った。
「よく出来ている」
声に、嫌味はなかった。
「線が一本。ただ、それだけだ。だが、その一本で、塔が組み替えいらずになる。技師どもが飛びつくはずだ」
ヘルムが、口を開きかけた。
グランツは杖を半分持ち上げ、それを止めた。
「分かっている。現場が苦しいことは、わたしも知っている」
杖が、また床に下りた。
とん、と。
「だが、ならんものは、ならん」
◇◇◇
グランツはわたしを見た。
「お前は、手順を数と同じ器に入れた。同じ印で書き、同じ場所に並べた」
「はい」
「手順とは、なんだ」
問われて、わたしは詰まった。
手順。機械にさせる、ひとつひとつの仕事。
そう言いかけて、止めた。
この人の言う「手順」は、たぶん、それではない。
グランツは自分で答えた。
「唱える言葉だ」
杖の先が、ほんの少し上がった。
「人が口で唱え、世界がそれに応える。唱える言葉には、祈りが宿る。そうして、はじめて魔導は動く」
「数は、違う」
藍の袖が、卓の図のほうへ向いた。
「数は、ただの量だ。いくつ、いくら、どれだけ。そこに祈りはない。あってはならん」
声は、荒げられなかった。
それが、かえって重かった。
「祈りのある言葉と、祈りのない量。お前はそれを、同じ器に並べた。並べて、人ではなく、機械に読ませる」
「それは、魔導の道を踏み外すことだ」
わたしは炭を握った。
卓に置いてあった、わたしの炭を。
握ったところで、この場で図を引くわけにはいかない。
それでも、握っていたかった。
「あの……」
声が、少し掠れた。
「唱える言葉も、数も、書けば同じ印になります」
図の左の四角を、指した。
「短い印と、長い印。数を、それで表せます」
右の四角へ、炭を移した。
「同じ印で、手順も書けます。書いた形は、同じです」
「だから、同じ場所に置けます」
「書いた形が同じだから、同じ器に入れてよい、と」
「……はい」
グランツは初めて少し笑った。
冷たくはない。けれど、温かくもない笑みだった。
「お前は、賢い」
石突きが、床を一度打った。
「賢いから、その形が美しく見える。数も言葉も、同じ印。同じ器。同じ読み方。むだがない、隙がない」
「賢い者ほど、その美しさに惹かれる」
老人はわたしの目をまっすぐ見た。
「だから、危うい」
(——美しいから、危うい)
ヘルムが、たまらず言った。
「卿。現場では、技師が三日も帰れずに線を抜いている。倒れる者も出ました。この子の形なら、それが——」
「ヘルム」
グランツは振り返らなかった。
「人が苦しんでいることと、道を外れていいかは、別の話だ」
ヘルムが、黙った。
アディラが、窓辺から一歩出た。
「グランツ卿。わたしも、宮廷魔導士です。同じ道を歩いてきました」
筆を持たない指が、卓の図に触れた。
「そのわたしが、この形に賛同しています。道を外れるとは、思いません」
グランツはアディラを見た。
長く、見た。
「フレンセン。お前は、若い」
それだけ、言った。
部屋が、静かになった。
誰の言葉も、老人の壁を越えなかった。
◇◇◇
グランツはもう一度、卓の図に目を落とした。
今度は、長く。
杖を持つ手から、ほんの少し力が抜けた。
「……世界が、何を読み取って動くのか」
ひとりごとのような、低い声だった。
わたしに言ったのでは、なかった。
「神殿の写字室と、学院の古老。古い魔導の書き残しは、二つで食い違う」
杖の先が、床を軽く撫でた。
「世界が何を読み取って、動いているのか。そこすら、いまだ揃っておらんのだ」
わたしの背中を、冷たいものが走った。
(——世界が、読み取って動く)
いつか、バルドゥスさんが言った言葉。
魔法陣は、そのままでは動かぬ。世界が、読み取って、動かす。
あの言葉と、同じ場所を指していた。
この人は、知っている。
わたしがいつも覗き込んでいる、あの底のことを。
(——何を、知っているんですか)
そう問いたくて、口が動きかけた。
でも、止めた。
問えば、わたしが何を見ているかを、教えることになる。
言葉の底に、誰も気づかない層があること。
わたしが、そこを覗いていること。
(——言えない)
わたしは炭を握ったまま、口を閉ざした。
グランツはわたしの沈黙には気づかなかった。
顔を上げ、杖を持ち直した。
「フレンセン。ヘルム」
藍の長衣が、ひるがえった。
「この図の筋は、通っている」
戸口へ、ゆっくり歩く。
とん、と。
石突きが、床を打つ。
「通っているからこそ、止める」
戸口で、一度だけ振り返った。
「唱える言葉を、ただの量に落とす。その形を、宮中の名で認めることはできん」
とん。
戸が、閉まった。
◇◇◇
足音が、廊下の奥へ遠ざかっていった。
とん、とん、と。
間のある音が、だんだん小さくなる。
部屋に、香の匂いだけが残った。
ヘルムが太い息を吐いて、椅子に腰を落とした。
アディラは窓辺に戻らなかった。
卓の図を、じっと見ている。
わたしは自分の手を見た。
炭を、まだ握っていた。
握りしめた指の節が、白くなっていた。
(——美しいから、危うい)
老人の言葉が、頭の中で、まだ床を打っていた。
卓の上で、つないだばかりの一本の線が、乾いた黒のまま動かずにいた。
■あとがき・解説
第162話は、宮廷魔導士の重鎮グランツ卿が初めて姿を現し、リナの設計思想に正面から反対する回でした。
今回は「唱える言葉と、ただの量」「美しいから、危うい」「胸に仕舞った一言」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「唱える言葉と、ただの量」——技術論では崩れない壁
グランツの反対は、「動くか動かないか」の話ではありません。
手順とは唱える言葉であり、唱える言葉には祈りが宿る。数はただの量で、量に祈りはない。その二つを同じ器に並べ、人ではなく機械に読ませるのは、魔導の道を踏み外すことだ——という、神学・魔導の理からの反対です。現場で技師が倒れている、というヘルムの訴えにも、「人が苦しんでいることと、道を外れていいかは、別の話だ」と返す。リナがこれまで積み上げてきた「速い・足りる・倒れない」の理屈が、初めて通用しない相手として立ちはだかります。
■「美しいから、危うい」——子供だから、ではなく
グランツは、リナを子供だからと侮りません。
むしろ「お前は、賢い」「賢い者ほど、その美しさに惹かれる」と言う。数も言葉も同じ印、同じ器、同じ読み方。むだがなく、隙がない。その美しさにこそ惹かれる、だから危うい——と。年齢でも実力でもなく、思想として退けられる。技術を積み上げても崩せない壁です。リナが「崩し方を変える」しかないと悟るのは、次の回です。
■「胸に仕舞った一言」——いちばん奥の問い
グランツが去り際に、ひとりごとのように漏らします。「世界が、何を読み取って動くのか。そこすら、いまだ揃っておらん」。神殿の写字室と学院の古老で、古い魔導の書き残しが食い違う、と。
それは、いつかバルドゥスが言った「世界が、読み取って、動かす」と同じ場所を指していました。リナがいつも覗き込んでいる、言葉の底の層。胸の中では激しく鳴ったのに、リナは顔を動かさず、口を閉ざします。問えば、自分が何を見ているかを教えることになるから。反対者の口から、自分の秘密の核に触れる言葉が出てしまう——この危うさは、これからゆっくり効いてきます。にぎりしめた指の節が白くなったまま、論争を未着地で次へ送りました。
次の話もお楽しみに。




