第161話 設計思想の論争
宿の部屋は、まだ暗かった。
窓の下が白みかけて、机の上の紙だけが先に見えていた。
炭の粉が、指の節に黒くたまっている。
(——眠っていない)
机には、ゆうべから描き足した図があった。
四角と、矢印。
昨日の塔を、紙の上へ並べ替えたもの。
塔は、手順が機械のかたちに焼きついていた。
何を計算するかを変えるたびに、線を引き抜いてつなぎ直す。
若い技師の、すり切れた指。
(——あれを、なくしたい)
塔を出たあと、書庫へ行く約束だった。
けれど頭がこの図でいっぱいで、わたしはそれをあとにしてもらった。
作者の知れない古い図面は、まだ見ていない。
紙の左に、数を置く場所を描いてあった。
右に、手順を置く場所を。
ゆうべは、その二つを別々に描いていた。
夜明け前に、わたしはあいだの仕切りを消した。
(——同じ場所で、いい)
数も、手順も、同じ印で書ける。
短い印と、長い印。
数をそれで表せるなら、手順もそれで表せる。
だったら、同じ覚えるものに並べて置ける。
前世で、似たことをした人たちがいた。
機械の中の線を組み替えて、はじめて別の働きをする機械。
それを、紙を一枚入れ替えるだけで別の仕事に変えてしまった。
線ではなく、覚えさせた中身のほうを書き替える。
(——わたしは、それを知っている)
(——知っていることを、ここで使うだけだ)
炭を握り直した。
大人の指に合わせた太さは、まだ手に余る。
それでも書きたいことは、頭の中で先に並んでいた。
戸口で、父が身じろぎした。
夜のあいだ、椅子で眠っていたらしい。
「書けたか」
低い、寝起きの声だった。
「書けた」
父は紙を覗き込みはしなかった。
ただ、机にこぼれた炭の粉を、指の腹で端へ寄せた。
◇◇◇
塔のわきの、天井の低い部屋だった。
昨日の架台の列が、壁ひとつ隔てた向こうでまだうなっている。
墨と、焦げた魔石の匂い。
卓に、ヘルムとアディラがいた。
ヘルムは腕を組み、太い指で肘を押さえていた。
夜のうちに、また線を差し替えさせたらしい。
目の縁が、赤い。
アディラは座っていなかった。
筆を一本、指のあいだで回している。
わたしが紙を出すより先に、その目が紙へ来た。
「ゆうべ、考えました」
わたしは図を、卓に広げた。
めくれる角を、四隅で押さえる。
父が紙を押さえるときの、あの順番で。
「昨日の塔は、手順が、機械のかたちに焼きついていました」
四角のひとつを、炭の先で示した。
「手順をひとつ変えるたびに、線を抜いてつなぎ直す。あの人が三日帰れなかったのは、そのせいです」
「分かっている」
ヘルムが、低く言った。
「だから、半年進まん」
わたしは右の四角に、炭を置いた。
「その手順を、数と同じところに置きます」
卓の上が、半拍だけ静かになった。
わたしは左の四角を指した。
「ここに、数を覚えさせます。穿孔布でも、覚える石でも」
それから、さっきまで仕切りだった線を、つなぐ向きに引いた。
「手順も、同じ覚えるものに書きます。数と、同じ印で」
「機械は、覚えた手順を順に読んで動く。手順を変えたいときは、布を入れ替えるだけ」
「石に書き直すだけ。——塔を、組み直さなくていい」
(——線を抜く地獄が、いらなくなる)
アディラの筆が、止まった。
「……ゆうべ、わたしが言ったこと」
「はい」
「中身の側に、手順を置けないか、って」
「あれを、確かめてきました」
アディラが、卓に手をついた。
身を乗り出す。
早口だった。
「置けるのね。数も手順も、同じ印なら同じ布に並ぶ」
「機械は、どっちがどっちか知らずに読む。——知らなくて、いいんです」
わたしが言うと、アディラは強く頷いた。
「読む順番さえ、決めておけば」
アディラは筆の先を、自分の胸へ向けた。
「この子の図を陣に起こすのは、わたしの手でいい」
「外から来た子の思いつきだと、誰にも言わせない。わたしの名前で出す」
(——陣を起こす手は、わたしのものでなくていい)
胸の奥で、固いものが、ひとつほどけた。
人前で陣を書けないわたしのかわりに、この人の手が動いてくれる。
それを、この人は知らずに引き受けている。
ヘルムはすぐには頷かなかった。
腕を組んだまま、図の真ん中の、つないだ線を見ている。
「技師としては、文句はない」
低い声だった。
「線を抜く地獄が消えるなら、俺は明日からでもやりたい」
「けれど」
つい、先を継いだ。
ヘルムはわたしを見た。
「宮中に、これを嫌う者がいる」
太い指が、右の四角を叩いた。
手順を置く、と書いた場所を。
「手順を、数と同じところに置く。それを、許さん人だ」
「グランツ卿、という」
聞いたことのない名前。
いや——
(——テオドールさんが、一度だけ口にした)
王都へ来る前に、テオドールが名前だけを言っていた。
宮廷に気難しい古老がいる、と。
「宮廷魔導士の、いちばん古い方だ」
ヘルムは続けた。
「あの人は言う。手順は、人が唱えるものだ、と」
「機械に覚えさせ、機械に読ませるなど、ありえん。そう言ってきかん」
(——人が、唱えるもの)
「数は、ただの数だ」
ヘルムの声が、低く続いた。
「どう並べ替えても、罰は当たらん。だが、手順は違う」
「あの人にとって、手順は神の言葉に近い。それを数と同じ布に並べ、機械に読ませる」
「あの人には、踏み越えてはいけない一線に見えるんだろう」
わたしは図を見た。
つないだばかりの、一本の線を。
わたしには、ただ便利な一手だった。
線を一本、つなぐだけ。
(——同じ場所に置く)
(——それが誰かには、越えてはいけない理になる)
アディラが、短く鼻を鳴らした。
筆を取り、わたしの図を自分の紙へ写しはじめる。
四角を、矢印を、つないだ一本の線を。
「古い人の言うことを、いちいち聞いていたら」
墨の先が、走る。
「塔は、百年動かない」
ヘルムはそれを止めなかった。
ただ、わたしへ低く言った。
「写すのはいい。だが、覚えておけ」
太い指が、卓を一度叩いた。
「明日、その人が来る。お前の図を、見にな」
(——明日)
窓の外で、城の文字盤が朝の鐘を打った。
アディラの筆は、止まらなかった。
写しとられた線が、紙の上でまだ濡れて光っていた。
■あとがき・解説
第161話は、リナが「線を抜く地獄」を解くための考え方を、初めて技師団に差し出す回でした。
今回は「同じ場所に置く」「わたしの名前で出す」「人が唱えるもの」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「同じ場所に置く」——仕切りを消した夜明け
リナの図は、ゆうべまで「数を置く場所」と「手順を置く場所」を別々に描いていました。
夜明け前、リナはそのあいだの仕切りを消します。数も手順も、短い印と長い印で書けるなら、同じ覚えるもの(穿孔布でも、覚える石でも)に並べて置ける。機械は覚えた手順を順に読んで動くだけ。手順を変えたいときは、布を入れ替えるか、石に書き直すだけでいい。塔を組み直す必要がなくなる。前の世で似たことをした人たちがいた、とリナは思いますが、その固有名は口にも内心にも出しません。世界の言葉に翻訳された「同じ場所に置く」という一手だけが、紙の上に残ります。
■「わたしの名前で出す」——陣に起こす手
アディラは、リナの図を陣に起こすのは自分の手でいい、と申し出ます。「外から来た子の思いつきだと、誰にも言わせない。わたしの名前で出す」。
リナは人前で魔法陣を書けません(書くと、自分の力が知られてしまう)。その事情を、アディラは知らないまま引き受けてくれる。胸の奥で固いものがひとつほどけた、というのは、設計を形にする手を、信じられる誰かに託せたことの安堵です。協力派の中核としてのアディラの立ち位置が、ここで一段深まります。
■「人が唱えるもの」——まだ見ぬ反対者
ヘルムは、技師としては文句がない、と言いながら、宮中にこれを嫌う者がいると告げます。グランツ卿。宮廷魔導士のいちばん古い人。
「手順は、人が唱えるものだ」。あの人にとって手順は神の言葉に近く、それを数と同じ布に並べて機械に読ませるのは、踏み越えてはいけない一線に見える。リナにとっては、ただ便利な一手(線を一本つなぐだけ)が、誰かには越えてはならない理になる。明日、その人が図を見に来る——アディラの濡れた筆が止まらないまま、論争を未着地のまま次へ送りました。次の回で、その人が姿を現します。
次の話もお楽しみに。




