第159話 責任の分解
宮殿の廊下は、石が冷たかった。
磨いた床に、高い窓からの光が長い筋を引いている。
靴の音が、天井の高さの分だけ遅れて返ってきた。
(——城だ。村の教会が、丸ごと入る)
父の手が、わたしの肩のうしろにあった。
触れてはいない。ただそこにある。
それだけで、足の運びが乱れずに済んだ。
先を歩くのは、レオンハルトだった。
ゆうべ門で出迎えた大柄な背中が、迷いなく角を曲がっていく。
兄は控えの間に残った。
出入りの者の顔と、廊下の角の数を覚えるつもりらしい。
「お前は、紙の中で迷う係だろう」
ゆうべの言葉を、思い出した。
ここから先は、わたしの係だった。
◇◇◇
通されたのは、思ったより小さな部屋だった。
長い卓が一つ。壁際に、丸めた図面が筒のまま何本も立てかけてある。
紙とインクと、機械油に似た匂い。
(——ここは、仕事をする部屋だ)
謁見の間ではなかった。
飾りより、紙の量が多い。それで少し、息がしやすくなった。
卓の向こうに、二人いた。
一人は、大柄な男。
肩が広く、手が大きい。まくった袖の腕に、古い火傷の痕がいくつもある。
卓に広げた図面の、めくれた角を、太い指でいま伸ばしているところだった。
「来たか」
男は顔を上げた。
「ヘルム・ヴァイスだ。技師団長をしている」
名乗りは、それだけだった。
肩書きより先に、図面の角を伸ばす手を見せる人だった。
もう一人は、細い女の人だった。
立っているのに、じっとしていない。
指先が、卓の図面の線を宙でなぞるように動いている。
「アディラ・フレンセン」
早口だった。
「宮廷魔導士。——あなたが、地方で機械を動かしている子ね」
問いではなく、確かめる声。
わたしが頷く前に、視線はもう、わたしの手元の鞄へ移っていた。
◇◇◇
ヘルムはわたしに椅子を勧めた。
座ると、足が床に届かなかった。
卓の縁が、胸の高さに来る。
(——また、これだ)
前の体なら、この卓に肘をついて話せたのに。
十二の背丈は、こういうときにいちばん邪魔になる。
父は座らず、わたしの隣に立った。
ヘルムは図面を脇へ寄せ、一枚の紙を卓の真ん中に置いた。
「先に、正直に言う」
低い声だった。
「塔は、行き詰まっている。半年、進んでいない。だから村の子供にまで頭を下げて、来てもらった」
飾りのない言い方だった。
それが、かえって信じられた。
紙には、字が並んでいた。
名前と、その横に、役。
——総責任者 ヘルム・ヴァイス
——技術顧問 リナ
——後見 アルベルト
——商いの保証 レオンハルト/ハーラムのベルマン
——推挙 村長ハインリヒ/巡回学者テオドール
わたしはその紙を、上から下まで読んだ。
(——役を、一人ずつに分けてある)
胸の奥で、何かが静かに噛み合った。
前世のわたしは、こういう紙を何度も引いた。
誰が、何に責めを負うか。
そこが曖昧だと、皆が少しずつ手を引いて、最後には誰も決めなくなる。
「お前の名の上に、俺の名がある」
ヘルムが、紙の一行を指で押さえた。
「塔が倒れたら、責めを負うのは俺だ。お前ではない」
(——わたしの、上に)
「お前は、考えるだけでいい。子供の出した案だと笑う者がいたら、俺が技師団長の名で、笑うなと言う」
その意味が、少し遅れて、体に届いた。
子供の言うことだから、で潰されない。
そのための紙だった。
わたしの考えを、一人で背負わせない形が、先に組んである。
塔を建てる前に、塔を支える足場を組むように。
(——責任を、分けて、名前をつける)
(——これは、わたしが前にやっていた、あの仕事だ)
父が、紙に目を落とした。
「後見」の二文字の上で、視線が止まる。
「俺の役は、面倒な大人の相手をすることだな」
ヘルムの口の端が、わずかに動いた。
「そう書いてある」
「なら、得意だ」
父はそれだけ言った。
◇◇◇
「お前が、何を考えているか。それを見せてくれ」
ヘルムが言った。
わたしは鞄から、折った紙を出した。
村と町の間に立てた、光の塔の図。
卓に広げ、めくれる角を四隅で押さえた。
父が紙を押さえるときの、あの順番で。
(——まず、何を運ぶか。次に、何で運ぶか)
塔の絵の左に、符号を書いた列。
右に、塔そのものの絵。
線が一本、二つを分けている。
「運ぶ中身と、運ぶ道具を、分けて描いてあります」
わたしは図の真ん中の線を指した。
「同じ塔で、違う中身を運べます。中身を変えても、塔は組み直さなくていい」
アディラが、卓に身を乗り出した。
速かった。
「待って。——その線」
指が、わたしの引いた境の線を宙でなぞる。
「塔の計算も、それでできない? 命じる手順を、その中身の側に置けない? 紙を入れ替えるみたいに」
部屋の空気が、半拍、止まった。
(——それは)
それは、わたしがまだ口に出していない考えだった。
この人は、図の一本の線から、その先まで歩いて行った。
胸が鳴った。
ゆうべ、窓の灯りを見て「ひとりではないのかも」と思ったときの、あの鳴り方に似ていた。
けれど、わたしは口を閉じた。
「——まだ、塔を見ていません」
そう答えた。
「見てから、お返事します」
アディラはわたしをじっと見て、それから笑った。
身を乗り出したまま、肩の力だけ抜いて。
「いいわ。技師の答えね、それは」
◇◇◇
ヘルムが、卓のあの紙を、わたしの前へ滑らせた。
羽根ペンを、添えて。
「技術顧問の欄は、自分で書け。人に書かせる名じゃない」
ペンは大人の指に合わせてある。
わたしの手には、少し太い。
インク壺に先を浸し、余りを縁で切る。父がやるのを、何度も見た手つきで。
「技術顧問」の横は、空けてあった。
そこに、名を書いた。
リナ。
村にいたころ、紙に書く名前は父の工房の覚えか、ノラへの言づてくらいだった。
同じ三文字が、いま、城の卓の上にある。
(——この線の下に、わたしがいる)
インクは、まだ乾いていなかった。
紙を傾けると、文字が光を弾いて、濡れて見えた。
ヘルムはそれを見届けてから、立ち上がった。
「ひとつ、伝えておく」
丸めた図面の筒を、一本手に取る。
「お前が町から送ってきた、作者の知れない古い図面。——押収されたぶんの原本は、いま、うちの書庫にある」
息が、止まりかけた。
「見たいか」
「——見たいです」
声が、少し掠れた。
「なら、案内する。塔を見せたあとでな」
ヘルムは筒を、もとの壁際へ戻した。
「明日、塔を見せる。——言っておくが、ひどいものだぞ」
口ぶりとは裏腹に、その手は、図面の筒を倒れないようにそっと立て直していた。
窓の外で、城の上の大きな文字盤が、午前の鐘を打った。
村の塔の鐘より、ずっと低い音だった。
■あとがき・解説
第159話は、王都の技師団長ヘルムと宮廷魔導士アディラに初めて会い、塔の仕事の「役の分けかた」が決められる回でした。
今回は「責任を、分けて、名前をつける」「まだ、塔を見ていません」「自分で書く名」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「責任を、分けて、名前をつける」——子供で潰されない足場
ヘルムは仕事の前に、まず一枚の紙で役を分けます。
総責任者はヘルム、技術顧問はリナ、後見は父、商いの保証はレオンハルトとベルマン、推挙は村長とテオドール。「塔が倒れたら、責めを負うのは俺だ。お前ではない」「子供の出した案だと笑う者がいたら、俺が技師団長の名で、笑うなと言う」。これは、十二の子が中枢にいることへの宮中の反発を、技術論ではなく仕組みで先回りする備えです。前世で何度も「誰が何に責めを負うか」の紙を引いてきたリナにとって、これは見覚えのある仕事でした。塔を建てる前に、塔を支える足場を組むように。
■「まだ、塔を見ていません」——食いついても、断言しない
リナが「運ぶ中身と、運ぶ道具を分ける」図を見せると、アディラが一本の線からその先まで歩いていきます。「塔の計算も、それでできない? 命じる手順を、その中身の側に置けない?」——リナがまだ口に出していなかった考えに、先回りした。
ゆうべ窓の灯りを見て「ひとりではないのかも」と思ったときの、あの胸の鳴り方に似ていた。けれどリナは口を閉じ、「まだ、塔を見ていません。見てから、お返事します」と踏みとどまります。アディラの「技師の答えね、それは」という受けに、これから並んで戦う二人の相性を込めました。
■「自分で書く名」——城の卓の上の三文字
ヘルムは覚書の「技術顧問」の横を空けたまま、リナに羽根ペンを渡します。「自分で書け。人に書かせる名じゃない」。
村で紙に書く名前は、父の工房の覚えか、ノラへの言づてくらいだった。同じ三文字が、いま城の卓の上にある。インクの乾かない名前と、「ひどいものだ」という塔と、書庫に眠る作者不明の図面。明日それを見にいく、というところで第159話を閉じました。
次の話もお楽しみに。




