第158話 王都へ
三日目の昼、風の匂いが変わった。
土の匂いに、石と水と、知らない人いきれが混じる。
荷馬車の幌の隙間から、白い光が差し込んだ。
(——着いた)
御者が、初めて声を張った。
「見えてきたぞ」
わたしは荷台の縁から身を乗り出した。
街道の先に、灰色の壁が立っていた。
村の家を何十も積み上げても、届かない高さ。
壁の上から、塔がいくつも頭を出している。
その中で一番高い塔の頂きに、大きな文字盤が光っていた。
(——鐘時計だ。あんなに、大きい)
父が作る鐘時計は、村の教会の塔に収まる。
あれは、塔そのものが時計だった。
壁の足元を、川が抜けていく。
幅の広い、ゆったりした流れ。
ヴァルディア川だ、と御者が言った。
橋の上を、人と荷車が途切れなく渡っていく。
村の市の日でも、あんなに人は集まらない。
(——人口、三十万)
数は、紙で知っていた。
知っていることと、見ることは、違った。
父は腕を組んだまま、壁を見上げていた。
ヨハンは口を真一文字に結んで、人の流れの数を目で追っている。
荷台の床は高い。
背伸びしても、わたしの足は板につかない。
(——前の体なら、この景色を、立って見られたのに)
十二の背丈を、また忘れていた。
◇◇◇
門の前で、荷馬車が止まった。
槍を持った門兵が、御者の木札を検める。
父が懐から、一枚の封を出した。
ヴェルメル卿の印と、村長ハインリヒの推薦状。
門兵は紙の隅をしばらく見て、顎で奥を示した。
「商業ギルドの使いが、内で待っている」
父とヨハンが、顔を見合わせた。
(——使い? わたしたちを、待っている?)
門をくぐると、石畳の上は人の波だった。
荷の山。呼び売りの声。
匂いがいくつも重なって、頭の芯がくらりとした。
その人混みの中に、動かない一点があった。
大柄な男が、一人。
仕立ての良い濃紺の外套に、金の留め具。
白髪交じりの髭を、短く整えている。
男はわたしたちの荷馬車を見つけると、まっすぐ歩いてきた。
人の流れが、自然と道を開ける。
「アルベルト殿、と」
父が頷いた。
男はその隣の、小さなわたしへ目を移した。
「では、そちらが——リナ殿か」
名を、呼ばれた。
(——わたしの、名)
初めて会う人だった。
王都の、知らない大人。
それなのにその人は、わたしの名を確かめるように口にした。
「商業ギルド連合の長、レオンハルトと申す」
レオンハルトは胸に手を当て、軽く頭を下げた。
五十は越えているだろう男が、十二の子供に。
わたしは慌てて、見よう見まねで頭を下げた。
「お嬢さんの紹介状は、ヴェルメル卿から先に届いていた」
レオンハルトは懐から、父が持つのと同じ封を出した。
卿の印が、二つ並んだ。
「だが、お嬢さんの名は、その紙より先に王都を歩いていた」
(——紙より、先に)
「光の塔の符号。形で読む暗号の組み」
レオンハルトの声は低く、急がない。
「もう、王都の者が写し取って、試している」
首のうしろが、ひやりとした。
写した。
試している。
村と町で引いた線を、会ったこともない誰かが、この壁の内側で。
「噂は、商人より足が速い」
レオンハルトは目を細めた。
穏やかな目だった。
けれど奥は、底が見えなかった。
「お嬢さんの名は、もう扉になっている。王都のいくつもの部屋を開ける鍵だ」
そこで、一度言葉を切った。
「同時に、枷にもなる。一度開いた扉は、閉じにくい」
その言葉は、優しい声で言われた。
だから余計に、すぐには飲み込めなかった。
父が、半歩わたしの前に出た。
「娘は、まだ子供です」
「存じている」
レオンハルトは父を見て、静かに頷いた。
「子供だからこそ、先に申し上げた」
◇◇◇
宿は、川沿いの石造りの一角だった。
レオンハルトが文を持たせてくれた宿で、二間の部屋が取れた。
窓を開けると、ヴァルディア川の水音が上がってくる。
父は床に荷を下ろすと、いつもの順番を始めた。
木箱の角を押し、結び目を確かめ、銭袋の口を一度締め直す。
「銭と、判は俺が持つ」
父は紙束を二つに分けた。
見せる紙と、見せない紙。
「面倒な大人は、俺が相手をする。お前は、頭だけ動かせ」
(——お父さんが、後ろにいる)
それだけで、肩の力が少し抜けた。
ヨハンは荷を置くなり、窓に張りついていた。
川。橋。さっき抜けてきた門。
町の自警団で覚えた目つきで、外を順に追っている。
「宿から、門まで。角を、三つ」
ヨハンは指を折った。
「川はいつも左手。迷ったら、川を探せばいい」
「覚えてどうするの」
「家の誰かが、道を知っておかないと」
ヨハンはこちらを見ずに言った。
「お前は、紙の中で迷う係だろう。俺は、街で迷わない係だ」
(——お兄ちゃんらしい)
役が決まると、不思議と部屋が広く感じた。
村を出てから、初めて息がまっすぐ通った気がした。
◇◇◇
夜になった。
窓の外に、灯りが散っていた。
数えきれない、小さな火。
村の夜は、真っ暗だ。
丘の塔に一つ灯りが入れば、それが夜の全部だった。
ここでは、火が多すぎて、一つ一つを見分けられない。
わたしは鞄の奥から、折り線のついた封紙を出した。
ノラの、行く封。
——王都に、ついてから、あけて。
妹の声が、耳の奥で言った。
指を、折り目にかけた。
紙が、かさりと鳴る。
開けた。
中は、空だった。
やっぱり、何も入っていない。
それなのに、喉の奥が熱くなった。
(——開けたことが、「着いた」の合図なんだ)
空の封紙は、言葉を運んでこない。
運んできたのは、ノラがこれを折った夜の、台所の灯りだった。
村の家の棚には、もう一枚が立っている。
帰る封。
わたしが戻ったら、ノラが開ける紙。
行く封と、帰る封。
細い線が、村とこの都の間に、一本だけ張られている。
わたしは空の封紙を、窓辺にそっと立てかけた。
レオンハルトの言葉が、戻ってきた。
明日、宮殿へ。
技師団長のヘルムという人が、わたしを待っているという。
押収された古い図面の原本も、いまは技師団の書庫に預けられていると、あの人は言った。
(——あの図面に、会えるかもしれない)
街道で指でなぞった、あの線。
わたしと同じ引き方をする、誰かの線。
窓の外の、数えきれない火を見た。
そのどれかの下に。
このいくつもの灯りの、どれかの下に。
(——わたしと同じように、世界を読む誰かが、いるのか)
近くにいるのかもしれない、と思うと、胸が小さく熱くなった。
その誰かに、わたしのほうが先に気づかれるかもしれない。
そう思うと、熱はすぐに冷たいものへ変わった。
空の封紙の角が、灯りを受けて白く光っていた。
明日、その人たちに会う。
川の水音が、夜の底で鳴り続けていた。
■あとがき・解説
第158話は、三日の旅を終えて王都に着き、商業ギルド連合の長レオンハルトに名指しで出迎えられる回でした。
今回は「名は、もう扉になっている」「行く封を、開ける」「数えきれない火」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「名は、もう扉になっている」——先に歩く評判
王都の門を出たリナを、レオンハルトは「リナ殿か」と名指しで迎えます。
ヴェルメル卿の紹介状より先に、リナの符号も名前も、王都を歩いていた。光の塔の符号も、形で読む暗号も、もう誰かが写し取って試している。レオンハルトはそれを「扉になっている」と言い、同時に「枷にもなる」と続けます。一度開いた扉は閉じにくい。優しい声で告げられたぶん、すぐには飲み込めない。父が半歩前に出て「娘は、まだ子供です」と言うのに、「子供だからこそ、先に申し上げた」と返すところに、この都の手触りを込めました。
■「行く封を、開ける」——空っぽが運ぶもの
夜、宿でリナはノラの「行く封」を開けます。
中はやっぱり空っぽで、言葉は何も入っていない。それでも喉の奥が熱くなる。開けたことが「着いた」の合図で、運ばれてきたのは、ノラがこれを折った夜の台所の灯りでした。村の棚には対になる「帰る封」が立っている。空の封が二枚あるだけで、村とこの都のあいだに細い線が一本張られる。第157話で持たせた封が、ここで約束として効いてきます。
■「数えきれない火」——その下の誰か
村の夜は、丘の塔の一灯がすべてでした。
王都の夜は、火が多すぎて一つ一つを見分けられない。その数えきれない火のどれかの下に、自分と同じように世界を読む誰かがいるのか——ひとりではないかもしれないという温かさと、では誰だという冷たさが、また同時に来ます。押収された古い図面の原本も、いまは技師団の書庫にあるという。明日は宮殿で、技師団長のヘルムに会う。窓辺に立てた空の封紙が灯りを受けて白く光るところで、王都編の一日目を閉じました。
次の話もお楽しみに。




