第157話 旅立ちの朝
霜の匂いがした。
まだ暗い土間に、竈の火だけが赤く息をしている。
ランプの炎の前で、白い息が揺れた。
旅立ちの朝なのに、台所はいつもの朝の顔をしていた。
黒パンの匂い。
豆を煮る湯気。
(——いつもの朝にしてくれている)
それが、ありがたかった。
母は粥を二つの椀によそった。
一つをわたしの前に、一つを父の席に置く。
「食べてから。荷より先に、腹よ」
「うん」
外では父が、荷馬車の縄を確かめていた。
手で木箱の重さを量り、角を押し、結び目を二度引く。
父らしい順番だった。
椀の縁が、指に熱い。
わたしはその熱さを、しばらく握っていた。
(——この熱さを、覚えておこう)
王都に、同じ朝はないかもしれない。
◇◇◇
粥を半分ほど食べたころ、ノラが寝間着のまま下りてきた。
七つになった妹は、眠そうな目をこすりながら、両手で何かを抱えている。
折り線のついた封紙が、二枚。
昨日、母と練習していたものだ。
「ねぇね」
「おはよう、ノラ」
「これ」
ノラはわたしの膝に、封紙を一枚押しつけた。
白いままの、空の封紙だった。
「中、何も入ってないよ」
「いいの」
ノラは首を横に振った。
「王都に、ついてから、あけて」
「空っぽなのに?」
「ついてから」
妹は同じ言葉を繰り返した。
それ以上は説明しない。
七つの理屈は、七つの理屈で固い。
わたしは封紙を両手で受け取った。
軽い。
紙一枚の重さしかない。
(——空の封を、持って行く)
それなのに、鞄のどの紙よりも置いていけない気がした。
「もう一枚は?」
「これは、帰る封」
ノラはもう一枚を母に渡した。
「ねぇねが帰ってきたら、ノラが、あける」
母が封紙を受け取り、棚の決まった場所に立てた。
「行く封と、帰る封ね」
「うん」
母の指が、封紙の折り目をそっと撫でた。
「帰ってくる道は、ここに置いておくから」
その声は、いつもより少しだけ低かった。
◇◇◇
外へ出ると、空はまだ藍色だった。
東の端だけが薄く白んでいる。
霜が畑の畝を白くしていた。
父はもう御者台で、手綱を手の中に確かめている。
村からハーラム町までは、この荷馬車で下りる。
町でヨハンと落ち合い、王都への隊商に乗り換える手はずだった。
母とノラが、戸口に立っている。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
母はそれだけ言った。
余計なことは、何も言わなかった。
ノラが一歩、前に出た。
けれど母の手が、その肩にそっと置かれる。
走って追いかけないように。
そういう手だった。
(——泣かないでいてくれ)
そう思ったのが、ノラのためか自分のためか、分からなかった。
荷台に乗り、村の道を下りはじめる。
ふと振り返ると、村の丘の上で、古い狼煙台に一つだけ灯りがともっていた。
夜番のダンか、ニコか。
旅立ちの朝に、見送りの一灯を入れてくれたのだ。
その光は、わたしが線を引いた網の、最初の塔だった。
わたしがいなくても、誰かが点け、誰かが消す。
光は、立つ人の中に残る。
丘へ、小さく手を上げた。
灯りが、ひとつ瞬いた。
返事のつもりかもしれなかった。
◇◇◇
街道の丘を越え、ハーラム町の西門に着くころには、陽が昇っていた。
西側塔の下に、ヨハンが立っていた。
町の上着。
腰の木札。
背には、自分の荷を一つだけ。
「遅い」
「馬車は二時間半かかるの」
「分かってる」
ヨハンは短く笑い、父に頷いた。
「組頭に返事は書いた。戻ったら、報告も書く」
「そうか」
父はそれ以上聞かず、門の脇に停まった荷馬車を見た。
幌のかかった、商人の荷馬車だった。
ベルマンさんの紹介状の道を行く、隊商の一つ。
御者は無口な男で、わたしたちに短く頭を下げただけだった。
父が紹介状を見せると、御者は紙の隅の印を確かめ、荷台の後ろを指した。
「乗れ。日のあるうちに、次の宿場まで行く」
それだけだった。
わたしは父の手を借りて、荷台に上がった。
板の床が、思ったより高い。
十二の背丈では、ひと跨ぎでは乗れなかった。
(——前は、もっと簡単に乗れた気がするのに)
前の体のことを、また忘れていた。
◇◇◇
荷馬車は、街道を北東へ進んだ。
車輪が固い道を拾うたび、荷の紙束がかすかに鳴る。
父は腕を組んで目を閉じ、ヨハンは外を見ていた。
わたしは膝の上に、持って行く紙の一束を広げた。
信号塔網の図面の写し。
暗号の控え。
押収された紙の覚え書き。
王都で、また一から説明することになる紙だった。
図面の線を、指でなぞる。
テオドールさんが見せてくれた、古い技師団の図面。
あれにも、同じ線があった。
つなぎ目を決まった形にそろえる線。
入口で一度、確かめる線。
途中の道を、できるだけ単純にする線。
(——わたしと、同じ引き方だ)
それから、敵対商会の暗号文。
あの組み立て方にも、覚えのある癖があった。
言葉の間を残し、繰り返しを目印にする組み方。
司祭のリーゼ様が漏らした言葉も、思い出す。
押収した紙の中に、神々の古い字が混じっていた、と。
図面の線。
暗号の癖。
古い字。
別々の場所の、別々の紙。
どれも同じ順番でできていた。
世界を、ひと続きの手順として読む者の順番だった。
(——わたしのほかにも)
世界を、こう読む者がいるのか。
そう思った途端、背中の真ん中が、すっと冷えた。
ひとりではないのかもしれない、という温かさ。
では誰だ、という冷たさ。
二つが、同時に来た。
わたしは紙束を畳んだ。
膝の上で、空の封紙の角が、紙の間からのぞいていた。
ノラの、行く封。
——王都に、ついてから。
封紙を、もう一度鞄の奥へしまい直した。
荷馬車は、北東へ進む。
車輪の音が、固い道を拾い続けた。
■あとがき・解説
第157話は、リナが家族と別れ、村を出て王都への道に乗る、旅立ちの朝の回でした。
今回は「行く封と帰る封」「立つ人に残る光」「世界をこう読む者」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「行く封と帰る封」——空っぽの二枚
ノラがリナに持たせた封紙と、家の棚に立てた封紙は、対になっています。
どちらも、中身は空っぽです。「王都に、ついてから、あけて」という行く封と、「ねぇねが帰ってきたら、ノラが、あける」という帰る封。中身ではなく、二枚あること自体が、村と王都のあいだに細い線を張る約束になります。七つの妹の理屈は、七つの理屈で固い。説明はしないのに、姉には伝わってしまう。そういう距離の結び方を描きました。
■「立つ人に残る光」——持って行かないもの
村の丘を下りるとき、古い狼煙台に見送りの一灯がともります。
夜番のダンか、ニコか。リナが線を引いた網の、最初の塔です。リナがいなくなっても、誰かが点け、誰かが消す。「光は、立つ人の中に残る」——作った人がいなくても回り続けることが、発明が根づくということだ、という主題を、旅立ちの一灯に重ねました。
■「世界をこう読む者」——三つの紙
リナが王都へ持っていくのは、信号塔網の図面の写し、敵対商会の暗号の控え、神殿が漏らした古い字の覚え書きの、三つです。
別々の場所の、別々の紙なのに、どれも同じ順番でできている——世界をひと続きの手順として読む者の順番だった。「わたしのほかにも、世界をこう読む者がいるのか」という問いは、ひとりではないかもしれないという温かさと、では誰だという冷たさを、同時に連れてきます。膝の上には、ノラの行く封。その問いと、家族の温度を両手に抱えて、リナは王都への道を北東へ進みます。
次の話もお楽しみに。




