↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑥「世界が、見つける」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
154/211

第154話 兄の昇進

翌朝、村の丘から戻った伝言は短かった。


ひる。

つめしょ。

こられるなら。


ヨハンからだった。


光になった文字は少ないのに、家の中の空気はすぐに動いた。

エマは麦菓子を布に包み、父は上着の留め具を確かめる。


「行くか」


父がわたしを見た。


「うん」


昨日しまわれた余白の紙のことが、まだ指先に残っていた。

こすっても消えない毛羽の感触。


(——今日は、お兄ちゃんの話だ)


(——わたしの余白を持ち込まない)


わたしは鞄を軽くした。

王都へ持って行く紙束は机に残す。

持つのは小さな手帳と、書くための炭筆だけにした。


エマが包みを渡してくる。


「ヨハンに。ノラはまだ寝ているから、あとで怒るかもしれないけど」


「伝えておく」


父は何も言わず、戸口の脇に置いた荷馬車代の小銭を革袋へ入れた。


暁の月の朝は、まだ少し冷える。

村の道の端に残る霜が、車輪の音で小さく崩れた。


◇◇◇


ハーラム町の詰所へ着く頃には、昼の鐘が近かった。


石の壁は前に来た時と同じだ。

木剣と盾の匂い。

革を干した匂い。

踏み固められた土の乾いた匂い。


けれど壁に貼られた夜番表だけは、少し違っていた。


古い板の右端に、新しい紙が継ぎ足されている。

そこに、ヨハンの名前があった。


まだ見習いの欄だ。

でも、線の引き方が違う。


名前の横に、小さな丸が一つ付いていた。


「来たか」


ヨハンが土間の奥から顔を出した。

頬の擦り傷はもう薄くなっている。

けれど左袖の肘には、まだ泥の色が少し残っていた。


「来た」


「急に呼んで悪い」


「何かあったの?」


ヨハンは答えず、少しだけ困った顔で笑った。

その笑い方だけは、家にいた頃と同じだった。


「組頭が、家族が来られるなら呼べって」


奥から低い声がした。


「呼んだのは俺だ」


ヨハンの組頭だった。

あの捕物の朝、帳面の横で「こいつの判断です」と言った人だ。


ごつい手に、古い帳面を持っている。

表紙の角は黒く擦れていて、紐は何度も結び直されていた。


「アルベルトさん。リナ嬢。来てもらって悪いな」


「構わん」


父が短く答える。


組頭は頷き、帳面を作業台の上へ置いた。

それからヨハンを顎で呼ぶ。


「ヨハン。そこに立て」


ヨハンの背筋が、すっと伸びた。


◇◇◇


詰所の中にいた若い人たちも、手を止めた。


誰かが木剣を壁に戻す音がした。

寝台の横で革帯を直していた人も、顔だけこちらへ向ける。


大きな式ではない。

花もない。

鐘も鳴らない。


ただ、土間の真ん中にヨハンが立ち、組頭が帳面を開いている。

それだけだった。


「西の宿場の偽急報」


組頭が言った。


「お前は走った。空振りだったが、次も走ると言った」


ヨハンは黙っている。


「二つの石の道の張り込み」


ページが一枚めくられた。


「お前は荷を先に押さえた。人を追って散らすより、荷を錨にして戻る足を待った」


その言葉を聞いて、胸の奥が少し熱くなる。


わたしはあの朝の兄を思い出した。

泥のついた袖。

擦り傷のある頬。

それでもまっすぐだった背中。


「足跡の照合もした。合言葉も使った。卿の手の者と、今度は吠え合わなかった」


組頭は淡々と読む。


褒めているのに、褒め言葉に聞こえない。

詰所の言葉は、帳面に載る事実の形をしていた。


「よって今日から、ヨハンの名前は見習い欄の末ではなく、夜番表の一人分に置く」


土間が静かになった。


ヨハンの喉が、少しだけ動く。


「三年の帳面は、まだ残っています」


「残っている」


組頭はすぐに答えた。


「だから給金も肩書きも、全部はまだやらん。だが夜の表では一人分だ。逃げるなよ」


「はい」


ヨハンの声は短かった。


でも、その短さの中に、何かが詰まっていた。


◇◇◇


組頭はそこで、わたしの方を見た。


「リナ嬢」


「はい」


「お前の符号が、町の安全を変えた」


突然だったので、返事が少し遅れた。


「……わたしだけでは」


「分かってる」


組頭は帳面を指で叩いた。


「符号は勝手に走らん。札は勝手に読まん。夜の道で待つ奴がいて、怖くても見る奴がいて、初めて役に立つ」


ヨハンが、ほんの少しだけこちらを見た。


「こいつは、それをやった。だから上げる。妹の手柄を兄にくれてやるんじゃない」


胸の奥で、何かがほどけた。


(——よかった)


(——お兄ちゃんの名前で、残る)


わたしの作った符号が、兄を上げた。

でも、それだけではない。


兄は自分の足で夜に立ち、自分の判断で荷を止めた。

わたしの手元の紙が、誰かの人生を動かす時。

そこには必ず、その人自身の足がある。


父は黙ってヨハンを見ていた。

その目は、工房でよく見る目に似ていた。


歯車の噛み合わせを確かめる時の目。

動くものが、本当に動く形になったかを見る目だ。


父の視線が、ヨハンの腰の革帯へ落ちた。


「直したな」


「前に裂けてたところ。道具袋の革を使った」


父は短く頷いた。

油の匂いが、詰所の土の匂いに少し混じった。


◇◇◇


組頭は夜番表の前へ歩いた。


古い釘を一本抜く。

きし、と小さな音がした。


見習い欄の端にあったヨハンの名札が外される。

細い木札だった。

何度も触られたのか、角が丸くなっている。


組頭はそれを、正番たちの欄の横へ移した。


まだ真ん中ではない。

端だ。


けれど、その端はもう外側ではなかった。


「ここだ」


組頭が言う。


「夜の表に名があるってのは、寝ている町を起こす側に立つってことだ。怖いなら見る。見たなら書く。書いたなら動く」


ヨハンは名札を見ていた。


「はい」


「それと」


組頭は父の方へ目をやった。


「二日、帰ってこい」


ヨハンが目を瞬かせた。


「え」


「家の話があるんだろ。王都のことだ」


父の眉が少しだけ動いた。


組頭は知らないふりをしなかった。

町の詰所にも、王都の話はもう届いている。


「返事は帰ってからでいい。行くにしても、残るにしても、家で言ってこい」


ヨハンはすぐには答えなかった。


一度だけ、夜番表の自分の名札を見る。

それから、こちらを見た。


「……はい。行ってきます」


その言葉に、わたしは息を吸った。


王都へ行くかどうかは、もう決めた。

でも、誰が一緒に行くのか。

何を置いていくのか。

それはまだ、家の食卓で話していない。


昨夜、父が言った通りだ。

大きな荷は、分けて持たなければ落とす。


◇◇◇


帰る前、ヨハンは寝台の横へ行った。


壁の釘から、父の布袋を外す。

三年前の夜に渡された時計修理道具の袋だ。


袋の口から、小さな油の匂いがした。

その中に、ノラが昔渡した人形の手の切れ端も、まだ入っているらしい。


ヨハンはその袋を腰に結び直した。

その隣に、新しく移った名札と同じ形の小さな木札を下げる。


「お兄ちゃん」


「ん」


「おめでとう」


言うと、ヨハンは少し照れた顔をした。


「まだ全部じゃない」


「でも、一人分なんでしょ」


「一人分だな」


ヨハンは笑った。

えくぼが出た。


町の土間に立っているのに、そこだけ家の井戸端みたいに見えた。


帰りの荷馬車に乗る前、わたしはもう一度夜番表を見た。


見習い欄には、釘の抜けた小さな穴が残っている。

その右隣に、ヨハンの名札が一人分の場所で揺れていた。


風が吹くたび、木札が壁に触れる。

こつ、と小さく鳴った。


■あとがき・解説


第154話は、ヨハンが自警団の中で一段認められる回でした。


今回は「夜番表」「符号を使う人」「見習いから一人分へ」についてゆるく書いていきます。


■この話で出てきた言葉


■「夜番表」——責任の置き場所


ヨハンの昇進は、豪華な式ではなく夜番表の名札の移動で描きました。


この作品では、制度の変化をできるだけ物に触らせて見せるようにしています。

今回は帳面と木札です。


どこに名前が載るか。

それだけで、その人がどの責任を持つかが変わります。


■「符号を使う人」——道具だけでは動かない


リナの符号は、町の安全を変えました。


けれど符号だけでは夜の道は守れません。

読む人、待つ人、見たことを書く人、動く人が必要です。


ヨハンはその側に立ちました。

だから今回は、リナの成果ではなく、ヨハン自身の成長として昇進を描いています。


■「一人分」——全部ではないが外側でもない


ヨハンはまだ完全に三年の修行を終えていません。


なので、いきなり正式な肩書きを全部渡すのではなく、夜番表では一人分として数えられる形にしています。


完全な大人ではない。

でももう外側の見習いでもない。


この中間の位置が、王都へ向かう前のヨハンにちょうどいい段階です。


次の話もお楽しみに。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。