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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑥「世界が、見つける」

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153/211

第153話 無意識の魔法陣

家に着いた時、台所の灯りはまだ落ちていなかった。


鍋の蓋から、白い湯気が細く上がっている。

エマは椀を四つ並べたまま、わたしたちを待っていた。


ノラは椅子の上で膝を抱えていた。

眠そうな目なのに、こちらを見る力だけは強い。


父が外套を脱ぎ、壁の釘に掛けた。


「話すぞ」


それだけで、食卓の空気が決まった。


◇◇◇


父は、町で聞いたことを順に置いた。


テオドール様の招き。

神殿の目。

ヴェルメル卿の後援。

それを受けず、時を借りる返事を作ったこと。


エマは口を挟まなかった。

ノラも、椀の縁を両手で押さえて聞いていた。


全部を話し終えてから、父がわたしを見た。


「リナ。返事は」


喉が、少しだけ乾いていた。


「行く」


声に出すと、思ったより短かった。


「王都へ行く。見ないままでは、たぶん後悔する」


エマが、ゆっくり息を吐いた。


「怖い?」


「怖い。でも、行かないほうが怖い」


(——言えた)


(——今度は、逃げるためじゃない)


父は頷いた。


「なら、行く。段取りは明日から詰める」


決まった。


それだけなのに、食卓の板目が少し違って見えた。

同じ家なのに、もう出発前の家になっている。


父はそこで、椀を置いた。


「今夜は、行くかどうかだけでいい。誰が行くか。いつ出るか。何を持つか。それは分けて考える」


「うん」


「分けんと、全部一つの荷になる。持てる荷まで落とす」


父らしい言い方だった。


王都行きという大きな言葉を、いくつかの小さな作業に切り分ける。

それだけで、息がしやすくなった。


怖さが消えたわけではない。

けれど、怖さはもう机の上に置ける形になっていた。

形になれば、持ち上げられる。


◇◇◇


エマは湯を注ぎ足した。


湯気が、ランプの光の中でほどける。


「帰ってくる道は残しなさい」


エマの声は静かだった。


「王都へ行っても、返事を書く道。帰る道。具合が悪いなら悪いと言う道」


「うん」


「作るものばかり増やして、自分の道を消したら駄目よ」


その言い方に、胸が少し痛くなった。


前世のわたしは、帰る道を消していた。

終電を逃しても、休みを削っても、まだ先に進めると思っていた。


「消さない」


わたしは、椀を両手で持った。


「手紙も書く。光で送っていいことは光で送る。読ませたくないことは、封にする」


ノラが顔を上げた。


「ねぇね、ひかり送る?」


「送る」


「ノラにも?」


「ノラにも」


「おにいちゃんだけのは?」


「それは、封」


ノラは少し考えてから、真面目に頷いた。


「じゃあ、ノラも封、じょうずにする」


エマが小さく笑った。

父も、椀を持つ手を少しだけ緩めた。


この家の中では、王都という言葉でさえ、一度は椀と湯気の間に置かれる。

そのことが、ありがたかった。


◇◇◇


翌朝、町へ短い伝言を送った。


テオドール様へ。

王都へ行く。

詳しい話をしたい。


符号は短かった。

けれど、塔の上で光になった時、その短さがやけに大きく思えた。


昼過ぎには、返事が戻った。


明日を待たず、今日の夕方に伺います。


テオドール様は、ハーラム町に留まっていたらしい。

待たせていたのだと分かった瞬間、胃のあたりが少し重くなった。


(——待っている人がいる決断は)


(——先送りするほど、誰かの時間を使う)


午後、わたしは工房の机に紙を広げた。


王都へ持って行くものを分けるためだ。


水門の手順。

信号塔の部品表。

布時計の接続口。

復旧条件の手順書。

ヴェルメル家の符牒については、見せてよい範囲だけ。


棚の三段目にある小箱には、手を触れなかった。


おぼえる仕掛けは、まだ持っていかない。

少なくとも、いまは。


机の右端には、父が小さな木箱を置いた。

送る紙には白い札、持って行く紙には薄い青の札、見せない紙には何も付けない。


札の色が増えるだけで、紙束は少しだけ道具らしくなった。


紙はただの紙ではない。

誰かの目に入った瞬間、紙は仕事になる。

噂にもなる。

時には鎖にもなる。


◇◇◇


夕方、テオドール様が来た。


革鞄の肩紐には、乾いた泥がついていた。

町から急いで来たのだと思う。


「ご返事、承りました」


「はい。行きます」


口に出すのは、二度目だった。

二度目のほうが、少しだけ身体に馴染んだ。


父が作業台の端に椅子を置いた。

テオドール様は座らず、立ったまま紙束を見た。


「まず、王都へ送ってよい紙と、現地で見せる紙を分けましょう」


そう言って、紙の角を揃えた。

その手つきは、書き直しの多い人の手だった。


「これは?」


「水門の判断表です。村の水路用なので、演算塔には直接関係しません」


「関係します。地方で動いた判断の仕組みとして、アディラ卿が見たがるでしょう。ただし、先に写しだけ」


「これは」


「信号塔の復旧条件ですね。これは現地で。紙だけ先に行くと、また名前だけが歩きます」


テオドール様は、紙を読むたびに置き場所を変えた。

送る束。

持って行く束。

見せない束。

王都で見せる相手を選ぶ束。


紙が増えるほど、道も増える。

そして、道が増えるほど、間違える場所も増える。


(——これは、リリース前の権限整理だ)


(——誰に何を見せるかを、先に決める)


前世の言葉が浮かんで、すぐ消えた。


◇◇◇


父とテオドール様が、信号塔の接続口について話していた。


わたしは横で、紙の端に小さく印をつけていた。


送る。

持つ。

伏せる。


三つの印を、淡い墨で分ける。


右手が、ふっと軽くなった。


考えは、まだ父たちの会話を聞いている。

けれど、ペン先だけが、印とは違う線を引いていた。


短い弧。

小さな受け口。

外へ流す枝。


(——違う)


左手で、右手首を押さえた。


ペン先が紙から離れる。


作業台の上に、余白だけの紙が一枚あった。

その端に、資料のどこにも属さない線が残っている。


冬明けの夜に、自分で書いた灯りの陣。

その一枝に似ていた。


「リナ嬢」


テオドール様の声が、思ったより近かった。


顔を上げる。


彼の目は、わたしの顔ではなく、紙の端にあった。


◇◇◇


工房の音が、急に遠くなった。


外では、誰かが水桶を置く音がした。

家の中では、エマが戸棚を閉める音がした。


でも作業台のまわりだけ、糸を張ったように静かだった。


「今の紙は」


テオドール様が言った。


「持って行く束から、外しましょう」


それだけだった。


問いではなかった。

断定でもなかった。


父が無言で紙を押さえた。

わたしは布切れで、紙の端をこすった。


線は薄くなった。

けれど完全には消えなかった。


「すみません。手が、勝手に」


言ってから、しまったと思った。


テオドール様は、少しだけ目を細めた。

興味を持った時の目だった。


けれど、次の言葉は違った。


「王都では、余白も読まれます」


静かな声だった。


「だから、読ませたくない余白は、ここで閉じていきましょう」


見たのか。

何を見たのか。

それを、何だと思ったのか。


聞けなかった。


聞けば、名前がつく。

名前がつけば、隠すものの形が決まってしまう。


テオドール様はその紙を送る束から外し、父の方へ滑らせた。


父は受け取って、工房の引き出しにしまった。


引き出しが閉まる音は、小さかった。


それでも、その音だけがいつまでも耳に残った。


消したはずの余白は、紙の薄い毛羽になって残っていた。


■あとがき・解説


第153話は、王都へ行く決断と、リナの手が勝手に動いてしまう回でした。


今回は「余白も読まれる」「無意識の手」「見せる紙と見せない紙」についてゆるく書いていきます。


■この話で出てきた言葉


■「余白も読まれる」——情報漏洩は本文だけではない


書類で危ないのは、書こうとした本文だけではありません。


余白の走り書き、消し跡、紙の順番、誰に見せる束に入っているか。

そういう周辺情報からも、相手はかなりのことを読み取れます。


テオドールの「余白も読まれます」は、王都という場所の怖さでもあります。

善意の人だけが紙を見るわけではない。

だから出発前に、見せる情報の範囲を決めておく必要がありました。


■「無意識の手」——身体が覚えているもの


リナは少し前に、初めて意図して魔法陣を書きました。


一度書けると分かった手は、危ない時があります。

頭で隠そうとしても、手だけが先に動いてしまう。


これは超常能力の暴走ではなく、訓練された人が無意識に癖を出してしまう現象に近いものです。

プログラマーなら、考えながら紙の端に図や疑似コードを書いてしまう感覚に近いかもしれません。


■「見せる紙と見せない紙」——権限整理


王都へ行く前に、リナたちは紙を分けました。


送る紙。

持って行く紙。

見せない紙。

相手を選んで見せる紙。


現代の開発で言えば、誰にどの資料を共有するかを決める権限整理です。

便利だから全部共有、では危ない。

逆に全部隠すと、協力者は仕事ができない。


第153話のリナは、技術者として初めて「自分の成果をどう見せるか」を強く意識し始めています。


次の話もお楽しみに。


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