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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑥「世界が、見つける」

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152/211

第152話 ベルマンの選択

封蝋は、深い緑だった。


朝の食卓に置かれたその封書は、村の紙とは厚みが違った。

角がぴんと立っていて、指で持つと少し冷たい。


ヴェルメル卿からだった。


「きれい」


ノラが横から覗き込んで、封蝋の緑に指を伸ばしかけ、エマに袖を引かれた。


「触らないの。お父さんが先」


エマの声は普段どおりだった。

でも、皿を拭く手は、さっきから同じところばかり拭いている。


父が先に読み、黙ってわたしに回した。


文は短かった。

あの人らしく、削るだけ削った文だった。


『先の仕事、家のために良く働いている。

ついては、貴家への後援を正式に申し入れたい。

名と金と、必要なら盾を貸す。

返事は急がぬ。ベルマン殿に預けてある』


「……後援」


「金主だな」


父は湯呑みを置いた。


「時計師にも、たまにある話だ。大きな家が名前を貸して、職人を抱える」


「抱える」


その言葉が、喉のところで小さく引っかかった。


◇◇◇


翌々日、わたしと父は荷馬車で町へ出た。


ベルマン氏に「預けてある」と書かれた以上、返事の前に聞くことがある。


春の街道は乾いて、車輪の音が軽かった。


途中の丘で、わたしは父に神殿の話をした。

リーゼ司祭のこと。

押収された束に交じっていた、神々の古い字の紙のこと。

王都には神殿の目もある、ということ。


父は手綱を握ったまま、最後まで黙って聞いた。


「エルナ様は、何と」


「行くと決めたら、先に文を出してくれるって」


「そうか」


それだけ言って、父はしばらく道の先を見ていた。


「お前は、黙って抱える癖がある。今日のは、良かった」


(——知ってる)


(——それで一度、死んだから)


荷馬車は昼前に、町の門をくぐった。


春の市が立っていて、通りには種袋と苗木が並んでいた。

冬の間は塩漬けと薪ばかりだった台が、色を取り戻している。


ギルドの建物の前で、荷を下ろす男たちが読み札の話をしていた。

「西の宿場、昼の便で空きが二つ」——わたしの作った符号が知らない人の口で、ただの仕事の言葉として動いている。


それを聞くのは、何度目でも少しくすぐったい。


◇◇◇


商人ギルドの奥の間で、ベルマン氏は封書の写しを机に置いた。


「先に、仕事の話を片付けましょう。卿の符牒は、変わりなく回っています。先月の取り替えも、滞りなし」


「ありがとうございます」


「では、本題」


「卿のお申し出は、本物です。あの方は、値打ちのないものに名を貸しません」


「では、受けるべきだと?」


「順番に参りましょう」


ベルマン氏は、帳面の白い頁を開いた。


「後援というものを、荷ほどきします。中身は四つ。金。名。盾。それから——紐です」


細い目が、わたしを見た。


「金は分かりますね。工房の炉も、王都の宿も、後援があれば困らない」


「はい」


「名は、ヴェルメルの名です。あの家が後ろにいる娘、として扱われる。役所の列は短くなり、悪意の声は小さくなる」


「盾は」


「先の商会の一件のような相手から、家の力で守ってもらえる。十二歳のお嬢さんが王都を歩くなら、盾は軽くありません」


そこまで言って、ベルマン氏は頁に四つ目の線を引いた。


「紐は」


「今の三つの、裏側です」


帳面の上で、線がゆっくり折り返された。


「金を受ければ、断りにくい仕事が来ます。名を受ければ、あなたの作る物がヴェルメルの旗を立てて歩く。盾の内側にいる限り、盾の主と喧嘩はできません」


(——ぜんぶ、知ってる形だ)


専属契約。資本提携。囲い込み。


形は違うのに、骨組みが同じだった。


◇◇◇


「ひとつ、伺ってもいいですか」


わたしは顔を上げた。


「王都は今、二つに割れていると聞きました。機械に手順を覚えさせる側と、それを良しとしない側に」


ベルマン氏の眉が、わずかに動いた。


「テオドール様から?」


「はい。アディラ卿と、グランツ卿というお名前でした」


「であれば、話が早い」


帳面が、一枚めくられた。


「ヴェルメル家は商いの家門です。どちらの派にも近すぎない。それでも、貴族である以上どこかで旗色は問われます。あなたが卿の後援を受けて王都へ入れば——」


「わたしも、その旗の下に数えられる」


「左様で」


しばらく、誰も何も言わなかった。


奥の間の窓から、市場の声が遠く聞こえていた。

値を呼ぶ声。荷を運ぶ声。

町の音は、いつもどおりだった。


「……受けない、ではなくて」


わたしは、ゆっくり言葉を選んだ。


「今は受けない、というお返事は、できるものでしょうか。仕事のご縁は、これからも大事にしたいんです」


ベルマン氏は、初めて少しだけ笑った。

目は、やっぱりあまり笑っていなかった。


「できます。書き方が、あります」


◇◇◇


返事の文は、その場で書いた。


ベルマン氏が骨組みを口で言い、わたしが筆で肉を付けていく。


後援の申し出への、深い感謝。

いまは家の者として王都の招きに向き合う最中であり、身の振り方が定まらぬうちに大きな名を頂くのは、かえって卿の名を軽くする恐れがあること。

符牒の手入れと、この先の仕事は、これまでどおり誠実に務めること。


途中で一度、「後援」という字を書きかけて、筆を止めた。

線を引いて消し、「ご厚情」に直す。


受け取らないものの名前は、紙の上に残さないほうがいい。

符牒を作っていた時と、同じ手の使い方だった。


「断るのではなく、時を借りる。商人の返事は、だいたいこれです」


書き上がった文を読み返して、ベルマン氏は頷いた。


「卿は怒りませんか」


「あの方は、迷いのない断りより、筋の通った保留を買う方です。表を三組に分けた方ですよ」


それから、ベルマン氏は帳面を閉じて、少しだけ姿勢を変えた。


「ついでに、ギルドの話もしておきます」


「ギルドの?」


「卿でなくとも、囲う手はあるのです。ギルドがあなたと専属の契約を結ぶ。町の外の仕事は全部ギルドを通す。そういう紙を、私が今日ここで出すこともできた」


(——あ)


そうか。

この人にも、選択があったのだ。


「出さないんですか」


「出しません」


即答だった。


「壊れてから安く買う商人にはなりたくない、と前に言いました。あれと同じです。囲って小さくした相手と長く商いをするより、大きくなった相手と対等に商いをするほうが、ギルドの帳簿は太る」


ベルマン氏は、机の上で指を組んだ。


「それにね、お嬢さん。これは商人の計算だけで言うのではありませんが——」


細い目の奥で、何かが一瞬だけ動いた。

計算とは別の——初めて会った日の去り際に見た、あれと同じ何かだった。


「お嬢さんは、もう町だけのものではない。それを一番よく知っているのが、たぶんこの町の商人です」


帰り際、ベルマン氏は戸口まで送りに出て、一つだけ付け足した。


「王都へ行くと決めたら、まず卿の紹介状の宛名をお訪ねなさい。レオンハルト殿は、商業ギルド連合の目利きです」


「後援を保留したのに、ですか」


「後援と紹介状は、別の道具です。あちらは紐つき、こちらは——」


ベルマン氏は、自分の帳面を軽く叩いた。


「商人の道。後援がなくても、通れる道はあります」


◇◇◇


帰りの荷馬車は、夕方の光の中を走った。


膝の上には、卿への返事の控えがある。

断らず、受けず、時を借りる文。


「お父さん」


「ん」


「わたし、まだ行くって決めてないよ」


「分かってる」


手綱の音が、二つ、三つ続いた。


「だがな、リナ。決めるための話が、もう全部揃っちまった」


父は前を向いたまま言った。


「招きの話。神殿の話。後援の話。これ以上は、待っても新しい札は来ん」


夕日が、街道の丘の塔を赤く照らしていた。

あの塔も、はじまりは家の台所の紙切れだった。


「家で話すぞ。王都のこと」


「……うん」


荷馬車は、村への道を下っていった。


■あとがき・解説


第152話は、貴族の後援という「ありがたい話」を荷ほどきする回でした。


今回は「後援の四つの中身」「時を借りる返事」「囲わない商人」についてゆるく書いていきます。


■この話で出てきた言葉


■「後援の四つの中身」——金・名・盾・紐


パトロン制度は、現実の歴史でも芸術家や職人を支えてきた仕組みです。

ただし支援には、ほとんどの場合「お返しの期待」が編み込まれています。


ベルマン氏の荷ほどきは、現代の言葉に直すとこうなります。


金=出資。名=ブランドの後ろ盾。盾=法務と警備。

そして紐=専属契約と利益相反です。


リナが前世で見てきた「資本提携の裏のしばり」と、骨組みが同じでした。

良い悪いではなく、受け取る前に中身を数えること。それが今回の主題です。


■「時を借りる返事」——断らない断り方


断ると、縁が切れます。

受けると、紐がつきます。


商人の知恵は、その間に三つ目の道を作ります。

感謝を厚く、理由を相手の利益で語り、関係は今までどおり続ける。


「身の振り方が定まらぬうちに大きな名を頂くのは、かえって卿の名を軽くする」——

断りの理由を自分の都合ではなく相手の損で説明するのが、この文の芯です。


■「囲わない商人」——ベルマン氏の選択


タイトルの「選択」は、リナではなくベルマン氏のものです。


彼にはこの日、リナを専属契約で囲う選択肢がありました。

出さなかったのは、善意だけではありません。


囲って小さくした相手より、大きくなった相手と対等に商いをするほうが帳簿は太る——

長期の信用を短期の独占より上に置く、彼の一貫した計算です。


そしてその計算の奥に、計算ではない何かが少しだけ覗く。

この人の「もう一つ別の何か」は、まだしばらく謎のままです。


次の話もお楽しみに。


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