第151話 神殿の介入
教会の戸口で、エルナ様が春の埃を払っていた。
「リナ。ちょうどよかった」
布を持つ手が、わたしを手招きする。
「祭壇の布を替えるの。高いところ、お願いできる?」
朝の教会は、蝋燭と古い木の匂いがした。
わたしは踏み台に乗って、祭壇の後ろの布の角を外していった。
十二歳の手は、去年より一つ上の鈎まで届く。
布を外しながら、棚の蝋燭を目が勝手に数えていた。
十二本。うち三本が短い。
(——次の祭りの前に、三本足りなくなる)
数えなくていいものまで数えるのは、前世からの癖だ。
在庫の棚を見ると、頭が先に動いてしまう。
「お客様が来るんですか」
布が新しいのは、祭りの前か、客の前だ。
エルナ様は少しだけ間を置いてから、答えた。
「ええ。神殿本部から」
指が、胸の古い魔石に触れていた。
◇◇◇
昼前に来たのは、灰色の司祭服の人だった。
髪をきっちりまとめて、襟元に聖律教の印。
顔は穏やかで、目だけが帳面をめくるように動く。
リーゼ司祭だった。
「お久しぶりです、エルナ様。——リナさんも」
一年ぶりに聞く、丁寧で静かな声だ。
「巡察の順路が、今年は早めに回ってきました。道が乾きましたので」
(——道が乾いたら、客が来る)
テオドール様と、同じ言い方だった。
春は、いろんな人の足を一度に解く。
エルナ様が椅子を勧め、白湯を出した。
教会では、茶ではなく白湯が出る。
リーゼ司祭は帳面を開いて、村の祭務をひとつずつ確かめていった。
祭りの日取り。祈りの言葉。誰が生まれて、誰が亡くなったか。
「丘の灯りの合図は、神殿の合図と混ざっていませんね」
「混ぜていません」
エルナ様より先に、わたしが答えた。
「試す日と時刻は、今も先に知らせています。祭りの夜は塔を休ませます」
リーゼ司祭は頷いて、帳面に短く何かを書いた。
一年前に交わした約束が、ちゃんと帳面の上で生きていた。
それが終わってから、帳面を閉じて、わたしを見た。
「リナさんは、王都へ招かれているそうですね」
手の中の白湯が、小さく揺れた。
「……まだ、決めていません。家族で話すところです」
「そうですか」
責める響きはない。
それなのに、続きを待つ間が長かった。
「祭司の帳面は、商人の馬より足が速いことがあります。王都の神殿から、先にあなたの名前が届きました」
(——神殿からも)
テオドール様は、名前が先に歩くと言った。
歩いた先は、王都の工学者の机だけではなかったらしい。
◇◇◇
「ひとつ、お耳に入れておきたいことがあります」
リーゼ司祭は、白湯をひと口飲んでから言った。
「昨年の、商会の一件です。押収された紙の束が、審問のために王都へ送られました。その中に——」
そこで、言葉を選ぶ間があった。
「写字室に回された紙が、一枚ありました」
「写字室、ですか」
「神殿の、古い書物を写し継ぐ部屋です。審問所で読める者がいない字は、私どもへ回ってきます」
エルナ様の指が、また胸の魔石に触れた。
「その紙には、欄外に短い書き込みがありました。古い祈祷文にだけ残る方言の字です。祭司学校でも、上の段の写本でしか見ません」
「それは——」
声が、思ったより硬く出た。
「それは、どういう紙だったんですか」
「分かりません。私が知るのは、鑑定の結びだけです。商いの悪事の紙の束に、神々の古い字が一枚交じっていた。妙な取り合わせだ、と」
(——わたしは、その紙を見ていない)
解いた文は、全部ふつうの字だった。
五字の束も、埋め草も、ずらしの規則の表も。
字はどれも、どこにでもある字だった。
でも原本の束は、王都へ行った。
わたしが見たのは、写しだけだ。
写す人は、読める字しか写さない。
読めない字は、写しから落ちる。
(——見たい)
その紙を、この目で。
古い字なら、並び方がある。並び方があるなら、読めなくても「形」は見える。
見れば、何か分かるかもしれないのに。
(——あの設計の人は)
(——神々の古い字を、知っている)
背中を、冷たい指でなぞられた気がした。
◇◇◇
「リーゼ様」
エルナ様が、静かに口を開いた。
「その話を、この子に聞かせた理由を伺っても?」
リーゼ司祭は、すぐには答えなかった。
帳面の角を指で揃えてから、言った。
「リナさんの名前は、その審問の記録にも出てきます。文を解いた者として」
「……はい」
「王都には、神殿の目もあります。古い字の出どころを探す者もいれば、古い字に近づく者を覚えておく者もいます」
丁寧な声のまま、そこだけ少し、ゆっくりになった。
「あなたが王都で何かを問われた時、知らずに踏むのと知っていて踏まないのとでは違います。ですから、お耳に入れました」
「それは、ご忠告として受け取っていいものですか」
エルナ様の声は穏やかで、でも一歩も引いていなかった。
「祭司として、です」
リーゼ司祭は、初めて少しだけ笑った。
「この子は、村の祭司と共に歩いています。前にそう申し上げました。その言葉は、今も帳面に残っています」
「ならば、王都でもそのように」
エルナ様が帳面の角に指を当て、リーゼ司祭は目を細めて頷き返した。
その先は、わたしには読めない言葉で交わされていた。
◇◇◇
リーゼ司祭は、午後の早いうちに発っていった。
次の村の祭務が、まだ三つ残っているらしい。
戸口で見送ったあと、教会の中は急に広くなった気がした。
エルナ様は祭壇に戻って、朝に替えたばかりの布の端を、もう一度まっすぐに直した。
直さなくても、まっすぐだった。
「リナ」
「はい」
「行くかどうかは、あなたの家が決めることよ。わたしは口を出さない」
布から手を離して、エルナ様はわたしを見た。
「でも、行くと決めたら教えて。王都の神殿に、わたしから先に文を出します。この子は村の祭司と共に歩いてきた、と。帳面より先に、わたしの字で」
目の奥が、じわりと熱くなった。
一年前、この人は「唱えたのはわたし」と言って、わたしの前に立ってくれた。
今度は、わたしが行く先にまで、先回りして立とうとしている。
「……ありがとうございます」
「それと」
エルナ様の声が、少しだけ柔らかくなった。
「気をつけてね」
聞き慣れた言葉のはずだった。
でも今日のそれは、いつもより重いところに落ちた。
神殿の帳面と、審問の記録と、王都の目。
その全部を知った上での「気をつけてね」だ。
「……はい」
わたしは、はいとしか言えなかった。
◇◇◇
帰り道、畑の脇で立ち止まって、夕方の空を見た。
頭の中で、紙が一枚、ずっとちらついている。
見たことのない紙。
商いの悪事の束に交じった、神々の古い字。
あの暗号の設計は、外から来たものだった。
この商会の中の、誰の頭でもない。
そこまでは、去年のわたしが確かめた。
その「外」に、今日、一つ属性が増えた。
(——古い字を、読める)
(——もしかしたら、書ける)
作者の分からない図面。
言葉を構造で見る癖。
神々の古い字。
同じ一人なのか、別々なのか、それすら分からない。
確かめられる場所は、たぶん一つしかない。
原本の束がある場所。
写字室がある場所。
技師団の棚がある場所。
夕方の風はまだ冷たいのに、足の裏だけが、先に歩き出したがっていた。
■あとがき・解説
第151話は、神殿の視線が「商会の暗号事件」と「王都行き」の両方に重なってくる回でした。
今回は「写字室」「欄外の書き込み」「知っていて踏まない」についてゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「写字室」——読めない字の行き先
印刷が広まる前の世界では、本は人の手で写して残すものでした。
現実の中世でも、修道院の写字室が書物の保存と複製を担っています。
この世界では、神殿の写字室が古い祈祷文の方言を写し継いでいます。
だから「誰も読めない字」が見つかると、巡り巡って神殿に届くのです。
審問所と神殿という別々の組織が、紙一枚で繋がる。
情報の流れは、組織図の線とは違うところを通ります。
■「欄外の書き込み」——本文より雄弁な余白
古文書の研究では、本文よりも余白の書き込みが手がかりになることがよくあります。
書いた人の癖、使った言葉、何のためにその紙を持っていたか。
リナが解いた暗号文は、ぜんぶ普通の字でした。
けれど彼女が見たのは写しだけで、原本の束には見ていない紙がある。
「自分が確かめた範囲」と「実際にあった範囲」の差。
そこに、次の謎が滑り込んできます。
■「知っていて踏まない」——リーゼ司祭の善意
リーゼ司祭は、リナの敵ではありません。
彼女は秩序を守る側の人で、その立場のまま、できる範囲の親切をしています。
「知らずに踏むのと、知っていて踏まないのとでは、違います」
警告は、相手を縛るためにも、守るためにも使えます。
同じ言葉がどちらに転ぶかは、これから先の王都で決まっていくはずです。
次の話もお楽しみに。




