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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑥「世界が、見つける」

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150/211

第150話 王都の名前と招き

道が乾いた。


朝の工房の窓を開けると、土の匂いが変わっていた。

雪の下で眠っていた匂いではなく、起きて動き出した土の匂いだ。


三日前に、町から先触れの紙が届いていた。


『道が乾き次第、伺います。テオドール』


一行だけの文の「伺います」の上に、細く消した跡があった。

最初は別の言葉を書いて、書き直したらしい。


その消し跡が何だったのか、わたしはまだ知らない。


昼前に、荷馬車の音がした。


◇◇◇


ベルマン氏の荷馬車から、背の高い痩せた人が降りてきた。


長い黒髪を後ろで結んで、革鞄を肩から提げている。

結んだ髪に、白いものが少し増えていた。


「お久しぶりです、リナ嬢」


「お久しぶりです」


テオドール様と直接会うのは、一年ぶりに近かった。


その間も紙は何度も往復した。

問いと答え。図面の写し。礼の言葉。


けれど本人が村の土を踏むのは、あの照会の春以来だ。


エマが茶を入れた。

客用の高い茶葉ではない。家で飲む、少し渋い茶だった。


「この茶です。これでなくては」


テオドール様は湯呑みを両手で包んで、目を細めた。


ベルマン氏は「荷を見てくる」と言って、外へ出ていった。

気を利かせたのだと思う。


食卓には、わたしと父と、テオドール様が残った。


◇◇◇


「演算塔の話が、動き出しました」


テオドール様は鞄から紙束を出した。


革鞄の口が開いた時、見覚えのある紙が覗いた。

わたしが去年書いた、水門の判断の図の写しだ。

角が柔らかく丸くなって、何度も出し入れされた紙の形になっていた。


わたしの書いた紙が、わたしの知らない場所で、ずっと働いていたらしい。


紙束のほうは、王都のきれいな文字だった。

そして端のほうには、前よりずっと多い書き直しの跡。


「冬の間に、構想から建造の支度へ進みました。お金と人が、本当に付いたということです」


「それは……おめでとうございます、でいいんでしょうか」


「半分は」


テオドール様は、紙に細い線を二本引いた。


「率直に申し上げます。王都は今、二つに割れています」


線の先に、名前を一つずつ書く。


「アディラ・フレンセン卿。宮廷魔導士です。機械に手順を覚えさせる方式を進めるべきだと言い、外の知恵を探しています。地方で実際に動いている機械の、作り手をです」


地方で動いている機械の作り手。


それは、うちの工房のことだ。


「もうお一方は、グランツ卿。同じく宮廷魔導士で、こちらはずっと上の世代です。手順は人が唱えるもの、機械に覚えさせるのは魔導の道を踏み外す——と」


「踏み外す……」


「グランツ卿のお立場では、そうなります。詠唱は神々から人へ渡された言葉ですから。それを石や歯車に肩代わりさせるのは、言葉を人の手から手放すことに見える」


父が、湯呑みを置いた。


「それで、先生は今日、何を持ってきなさった」


テオドール様は、すぐには答えなかった。


紙束の一枚目を指で押さえてから、ゆっくり言った。


「そろそろ、リナ嬢を王都へ正式にお招きしたい。その打診を持ってきました」


◇◇◇


茶の湯気が、ひと筋まっすぐ立っていた。


「命令ではありません。今日のところは、まだ打診です」


「前は、紙で済む話だと言いなさった」


父の声は低かった。

怒っているのではない。確かめている声だ。


「言いました。そしてこの一年、実際に紙で済ませてきました」


テオドール様は頷いた。


「ですが、塔の支度が始まると、紙では追いつきません。図面への問いが十日かけて村へ来て、答えが十日かけて王都へ帰る。その間に、現場は二十日分進んでしまう」


(——前世でも、最後は「一度来てくれ」になった)


頭の中で、古い記憶が小さく笑った。


「それに」


テオドール様は、そこで一度言葉を切った。


「あなたの名前は、もう王都で歩き始めています。書面の助言が読まれるたびに、書いたのは誰だ、という問いが増える。歩き始めた名前は、本人のいない場所で勝手に育ちます。よい形にも、悪い形にも」


「悪い形、というのは」


「十二歳の田舎の娘に何が分かる、という形と——」


言いかけて、テオドール様は紙束の端を見た。


「十二歳でそれだけ出来るなら囲ってしまえ、という形です」


食卓が、静かになった。


エマが台所で布を畳む音だけが続いていた。


◇◇◇


「正直に申し上げます」


テオドール様は、湯呑みを置いた。


「私はこの役目を、冬の間に何度も断ろうと思いました」


「断る……?」


「あなたを呼ぶ役目を、です」


初めて聞く、硬い声だった。


「王都はよい場所ばかりではありません。アディラ卿の側に立てば、グランツ卿の側から見られる。あなたはまだ十二歳で、あちらの言い合いはあなたの年を待ってくれない。それが分かっていて招きの紙を運ぶのは——」


そこで止まって、長く息を吐いた。


「運ばずに済む道を、冬の間ずっと探していました。見つかりませんでした」


(——この人は)


(——書き直しながら、ここまで来たんだ)


先触れの一行の消し跡を思い出した。

紙束の端の、白くこすれた跡も。


「ひとつ、聞いてもいいですか」


わたしは顔を上げた。


「あの図面——作者の分からない、古い信号塔の図面です。書庫の棚は技師団預かりだと聞きました。王都へ行けば、あの棚は見られますか」


テオドール様の眉が、わずかに動いた。


「……見られます。私が案内します」


それから少しだけ、口の端を緩めた。


「それを招きの理由に数えてよいなら、私の荷も軽くなります。興味深いものは、あちらにまだ眠っていますから」


◇◇◇


「返事は、家族で話してからにします」


父が言った。


「それが正しい順番です」


テオドール様は紙束を畳んで、立ち上がった。


「急ぎません。ただ、道が乾いている季節のほうが、旅は楽です」


夕方、荷馬車は町へ帰っていった。


道まで出たノラが、見えなくなるまで手を振っていた。


◇◇◇


夕飯は、芋と豆の煮込みだった。


父は黙って匙を動かしていた。

エマは一度だけ「すぐに決める話じゃないわね」と言って、それきり料理の話をした。


ノラが、椀の縁ごしにわたしを見た。


「おうとって、とおい?」


ずっと前にも、同じ言葉を口の中で転がしていた子だ。

あの時は、町よりずっと遠い場所、くらいの意味だった。


「歩いたら、何日もかかるくらい」


「ふうん」


ノラは少し考えてから、煮込みの豆を一粒すくった。


「じゃあ、ひかりなら、すぐだね」


匙が、わたしの椀の中で止まった。


塔から塔へ。丘を越えて、街道を越えて。

この子の頭の中では、遠さはもう、歩く日数だけでは測られていない。


「……うん。光なら、すぐ」


◇◇◇


夜、わたしは机で紙を分けていた。


王都へ持っていくかもしれない紙と、家に残す紙。

まだ行くと決まったわけでもないのに、手が先に支度を始めている。


灌漑の図面の写しを重ねた時だった。


ペンを持ったままの右手が、余白へ滑った。


線を、引きかけた。


灯りの陣の、受けの一枝。冬の夜に書いた、あの形の最初の一画。


「っ」


左手で、右手の手首を掴んだ。


(——だめ)


(——これは、家の外へ出る紙だ)


手は、素直に止まった。

けれど止まるまでの一瞬、手首の内側で何かが先に動いていた。


書きたいのではない。

手が、覚えているのだ。


わたしはペンを置いて、余白を指でなでた。

インクの跡がないことを確かめてから、図面を棚に仕舞った。


窓の外で、春の夜風が鳴っていた。


アディラ・フレンセン。

グランツ卿。


布団に入っても、二つの名前と、止めた右手の感触だけが残っていた。


■あとがき・解説


第150話は、王都からの招きが「照会」から「正式な招き」へ変わる回でした。


今回は「名前が先に歩く」「方式の言い合い」「手が覚えている」についてゆるく書いていきます。


■この話で出てきた言葉


■「名前が先に歩く」——リモートワークの限界


リナはこの一年、王都の仕事を紙だけで受けてきました。


けれど大きな計画が動き出すと、紙の往復は現場の速さに追いつかなくなります。

問いが十日、答えが十日。その間に現場は二十日分進む。


そして本人がいない場所では、評判だけがひとり歩きを始めます。

「会ったこともない優秀な誰か」は、よい形にも悪い形にも膨らみやすいのです。


■「方式の言い合い」——プログラム内蔵をめぐる対立


アディラ卿とグランツ卿。

機械に手順を覚えさせる側と、手順は人が唱えるものだとする側。


これは現実のコンピュータ史で言えば、プログラム内蔵方式をめぐる議論に重なります。

そしてこの世界では、詠唱が「神々から渡された言葉」であるぶん、技術論だけでは済まない宗教的・文化的な重さも乗ってきます。


テオドールはその間に立つ人です。

便利な案内役ではなく、板挟みのまま書き直しを重ねて村まで来る人として描きました。


■「手が覚えている」——夜の余白


夜の場面で、リナの右手は図面の余白に線を引きかけます。


冬に一度だけ意図して書いた陣の、最初の一画。

身体が手順を覚えてしまうのは、よく訓練された手の自然な性質です。


ただしこの手の癖は、家の外へ出る紙の上では危険なものになります。

王都行きの話と同じ日にこの癖が顔を出したのは、偶然ではないかもしれません。


次の話もお楽しみに。


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