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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑥「世界が、見つける」

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第149話 フリップフロップ

十二歳の手は、十一歳の手より少しだけ遠くへ届く。


工房の棚の三段目に、踏み台なしで手が届く。

町役所の椅子に座ると、足の裏が床に着く。


ヴェルメル家に新しい表を納めた夏から、七ヶ月半が経っていた。


◇◇◇


あの夏からの月日は、静かに流れた。


刈り入れがあって、収穫祭があって、初雪が来た。

そうして、年が明けた。


ヴェルメル家の表は、秋に一度だけ取り替えた。

二番の表を運んだ使いの男が道で財布を掏られ、表は無事だったけれど、卿は迷わず番号を捨てた。

「疑わしいだけで替えられる。それがこの仕組みの値打ちだ」と、短い文が届いた。


設計の代金は、家計の棚の奥で固い音を立てるようになった。

エマは織機の杼を新しくして、冬のノラの上着は、袖を折らなくていい寸法で仕立てられた。


冬のはじめには、ハーラム町の道具屋で小さな蓄魔石をひとつ買った。

力を溜めるだけの石。

親指ほどの大きさで、麦ふた袋分の値段がした。

設計の代金がなければ、一生さわらない買い物だった。


信号士寄合は、塔番が五人増えた。

ヤンさんは相変わらず「立派なもんじゃねぇ」と言いながら、読み札の写しを五枚作った。


ヨハンとノラの封手紙は、月に一往復の習いになった。

糊の破り役は、いつもお兄ちゃんだ。


ノラの字は、もう跳ねなくなった。

「ひかりでおくるれんしゅう」は続いていて、この前は手紙の宛名を一人で書いた。


ザイデルの沙汰は、秋の終わりに出た。

商会は取り潰し、本人は商いの株を失って、王都から十年の所払い。

それきり、名前を聞かない。


年が明けて、暁の月の一日。


わたしは十二歳になった。


身体が、ゆっくり追いついてくる。


頭の中の設計に、手が追いついてくる。


◇◇◇


その冬明けの朝、わたしは工房の机で、夜番の記録板の写しを眺めていた。


ダンの字。

ニコの字。

夜半の定時、かわりなし。

明け方の定時、かわりなし。


(——この「かわりなし」を書くために)


(——誰かがひと晩じゅう、起きている)


布時計は、決まった刻に光を送れる。

送る方は、半分眠っていても機械が起こしてくれる。


でも、受ける方はだめだ。


来た光を読むのは、人の目。

読んだ光を覚えるのは、人の頭。

だから夜番は、夜じゅう目を開けている。


「来たか、来なかったか」


それだけでいい夜もあるのに。


機械が覚えていてくれたら、朝に人が確かめればいい。


書いた紙は、覚える。

穿孔布も、覚える。


どちらも、「書く手」が要る。

夜中の機械に、書く手はない。


手がなくても、覚えるもの。


来た、をそのまま持ち続けるもの。


わたしは新しい紙を出して、一番上に書いた。


おぼえる仕掛け。


◇◇◇


最初の試作は、機械だけで組んだ。


光を受けた針が倒れて、留め金に引っかかる。

倒れたまま、朝まで残る。


動いた。

動いたけれど、弱かった。


最初の朝、針は倒れていた。

夜のうちに何かが来たのかと、少しだけ胸が躍った。


調べたら、留め金に霜が降りただけだった。


次の朝も倒れていた。

今度は風。

その次は、たぶん鳥。


夜の世界は、思ったより賑やかだった。


「来た」と「揺れた」の区別が、機械の留め金にはつかない。


「魔石なら、どうだ」


横から図面を見ていた父が言った。


「魔石は、風じゃ動かん」


その一言で、頭の中の別の棚が開いた。


魔石。

魔法陣。


村の水門の頃からずっと、わたしの機械は魔法の「手順」を押す側だった。

今度は、魔法に「覚える」側をやってもらう。


それには、押す相手の陣が要る。


互いの光を受けて、互いを支え合う——そんな都合のいい陣は、世界のどこにも売っていない。


(——書くしか、ない)


(——わたしが)


紙の上の炭筆が、止まった。


陣は、読んできた。

読めることは、ずっと隠してきた。


無意識に指が描いてしまって、慌てて消した日のことも覚えている。

あの日から、描く方の手には、ずっと鍵をかけてきた。


読むのと、書くのは、違う。


読むだけなら、わたしはまだ「気付く子」で済む。

書いたら——新しい陣をこの世界に増やしたら、それはもう、戻れない側の岸だ。


テオドール様の書簡に、一度だけあった言葉を思い出す。

新しい陣を書ける者は、王国に一人いるかいないか。

書庫の古い陣は、みんな何百年も前の手のものだと。


世代に、一人。


その一人に、十二歳のわたしが、村の工房でなろうとしている。


炭筆を持ち直すまでに、白い息を三つ数えた。


(——夜番のために)


(——覚える仕掛けの、二つの陣のためだけに)


大きなものは書かない。

強いものも書かない。

灯りがひとつ点くだけの、いちばん小さな陣を、二つ。


わたしは紙に、下書きを引いた。


土台は、家の灯りの魔石に入っている、ごく単純な灯りの陣。

何年も読んできた、よく知っている形だ。


そこへ、一枝だけ足す。


相手の光が届いている間は、自分を抑える枝。


片方が灯れば、その光が相手を抑える。

相手が消えていれば、その暗さが片方を支える。


(——互いに、支え合う二つの陣)


(——どちらかが立てば、倒れない)


外から針で一押しすれば、形がひっくり返る。

押すのをやめても、新しい形のまま残る。


押した、という事実を、形が覚えている。


前世の言葉が、喉の奥まで上がってきた。


フリップフロップ。


押されるたびに灯りが入れ替わり、次に押されるまでその形を保ち続ける。

前世の機械の、記憶のいちばん小さな粒に付いていた名前だ。


口には出さない。

この世界では、まだ名前のない仕掛けだ。


◇◇◇


石は、グスタフ親方の工房で手に入った。


「灯りの石の古いのが、二つ要るんです。点きが悪くなったやつでいいの」


親方は炉の手を止めずに、顎で隅の木箱を示した。


取り替えで引き取った、くたびれた灯りの魔石が転がっている。

陣が擦り切れて、点いたり点かなかったりする石。

村では、屑石と呼ばれる側のものだ。


「持ってけ。銭は要らん」


「ありがとう。……新しい使い道を、試してみたくて」


「お前さんの試すことに、いちいち驚かんことにした」


親方はそれだけ言って、炉に向き直った。


帰り道、布袋の中で二つの石が小さくぶつかる音を聞きながら、わたしは考えていた。


陣を宿す側の石を、王都の学者は演算魔石と呼ぶらしい。

これもテオドール様の書簡の言葉だ。


屑石と、演算魔石。


同じ石が、書く手ひとつで、どちらの名前にもなる。


◇◇◇


その夜、わたしは工房に一人で残った。


擦り切れた古い陣を、布で丁寧に拭い消す。

石の面がまっさらになる。


息を整えて、細い筆を取った。


一画目は、震えた。


二画目から、手が思い出した。


読んできた何百の陣の線が、指の先に貯まっていたらしい。

迷いは線の上に出なかった。

怖さだけが、背中に残った。


小さな灯りの陣、ひとつ。

相手を受ける枝、ひとつ。


書き終えた陣の隅に、見覚えのない模様が、ひとりでに滲んでいた。


細い横線と、斜めの線。


ずっと前から「わたしの印」のつもりで、符号の覚書の隅に描き添えてきた、あの仮の形に似ていた。


(——魂紋)


(——本当に、浮かぶんだ)


書き手の癖が、陣に勝手に刻まれる。

いつか父の職人印から思いついて、紙の上の約束にしてきたもの。


それが今、わたしの書いた最初の陣の隅で、静かに光を待っていた。


きれいだ、とは思えなかった。


これは署名だ。

読める誰かがこの石を読めば、書いた手はいつか、わたしまでたどられてしまう。


二つ目の石にも、同じ陣を書いた。

隅に浮かんだ模様は、寸分違わず同じだった。


筆を置いて、わたしはしばらく動けなかった。


書いてしまった。


読む側から、書く側へ。

岸を、ひとつ渡ってしまった。


このことは、誰にも言えない。

エルナさんにも、バルドゥス爺さんにも、まだ。


父は次の朝、机の上の石を見て、何も聞かなかった。

何も聞かないことが、父の聞き方だった。


◇◇◇


組み上げには、さらに一日かかった。


陣を書いた古い灯りの石がふたつ。

互いの光を受け渡す銅の覗き窓。

動力は、冬に買った蓄魔石。

入り口を一瞬ふさぐための、物理の針。


最後の点火だけは、わたしにはできない。


「お母さん、お願い」


エマは手を拭いて、工房へ来てくれた。


「触るだけでいいの?」


「うん。ここと、ここ」


エマの指が二つの陣に触れ、短い詠唱がひとつ。


ふ、と。


片方の陣が灯った。

もう片方は、暗いまま。


二つの陣は、その形のまま、静かに釣り合った。


「……点きっぱなしで、いいの?」


「うん。点きっぱなしが、いいの」


エマは不思議そうな顔で、それでも頷いて台所へ戻っていった。


わたしは針を持ち、暗い側の入り口を、一瞬だけふさいだ。


灯りが、入れ替わった。


点いていた側が消え、消えていた側が点く。


もう一度押す。


また、入れ替わる。


何度押しても、押された通りに反転して、押すのをやめればその形で止まる。


「覚えてる」


声に出すと、ノラが土間から顔を出した。


「なにを?」


「押された、ってことを」


ノラは灯りをしばらく見て、針を一度だけ押して、満足して戻っていった。


◇◇◇


その夜、わたしは仕掛けを窓辺に置いて寝た。


寝る前に、針を一度押す。

右の陣が灯った形で、夜に入る。


朝。


凍った窓の内側で、右の陣はまだ灯っていた。


夜の間、誰も見ていなかった。

誰も書き留めていなかった。


それでも、形は残っていた。


覚えていた。

ひと晩、ずっと。


息が白い工房の中で、わたしはしばらく、その小さな灯りを見ていた。


書く手のいらない記憶。

眠らない番人。


夜中に来た定時の光をこれに受けさせれば、朝の番が「来たか、来なかったか」を確かめられる。

夜番の目は、もっと大事なものだけを見ていられる。


ただし——


麦ふた袋分の蓄魔石は、ふた晩で目に見えて痩せた。

村で買える石では、灯りを支え続ける力が足りない。


「村の石じゃ、ここまでだな」


父が蓄魔石を手の中で転がした。


「原理は、立った。続きは、もっといい石の話だ」


もっといい石。


それが買える場所を、わたしは一つしか知らない。


◇◇◇


仕掛けを棚に上げる時、ふと思った。


これは、一つで「ひとつのこと」を覚える。


押された、か。

押されていない、か。


それだけ。


もし、これが十個並んだら。

百個並んだら。


数を覚えられる。

言葉を覚えられる。


机に置いた符牒の表も、穿孔布の穴も、人が書いた「動かない記憶」だ。

この仕掛けは、機械が自分で書き換えられる記憶になる。


(——覚える機械)


(——その先にいるのは……考える機械?)


ぞくり、として、わたしは棚の戸を閉めた。


閉めた戸の向こうで、考えのほうは、まだ静かに灯っている気がした。


夕方、村の道で行商人が言っていた。


雪が解けて道が乾いたら、今年は早めに王都から客が来るらしい、と。


■あとがき・解説


第149話は、七ヶ月半の月日を越えて——リナが初めて「意図して」魔法陣を書く回でした。


今回は「読む側から書く側へ」「支え合う二つの陣」「屑石と演算魔石」についてゆるく書いていきます。


■この話で出てきた言葉


■「読む側から書く側へ」——岸をひとつ渡る


リナはこれまで、陣を「読む」だけでした。

読めることすら隠して、無意識に描いてしまう手には鍵をかけてきました。


新しい陣を書ける者は、王国に一人いるかいないか。


その一線を、夜番の負担を減らすという小さな目的のために越える。

大きな力の解放を派手に描くのではなく、いちばん小さな灯りの陣を二つだけ、という越え方にしました。


書き終えた陣の隅に、ひとりでに浮かんだ模様——魂紋。

紙の上の約束だったものが、初めて本物になった瞬間でもあります。


■「支え合う二つの陣」——フリップフロップの心臓


片方が灯れば相手を抑え、相手が消えていれば自分が支えられる。


安定する形は二つだけ。

外から一押しすると反転し、押すのをやめても新しい形のまま残る。


現実のフリップフロップ(1919年)と同じ原理で、コンピュータのメモリの最小単位は今もこの「互いに支え合う二つの素子」でできています。


■「屑石と演算魔石」——同じ石の二つの名前


材料は、グスタフ親方の工房に転がっていた、陣の擦り切れた古い灯りの石。

村では屑石と呼ばれる側のものです。


陣を宿す石を、王都の学者は演算魔石と呼ぶ——同じ石が、書く手ひとつでどちらの名前にもなる。


いっぽう動力の蓄魔石は麦ふた袋分の値段で、設計の代金がなければ買えませんでした。

魔石は安いものではなく、だからこそ「ふた晩で痩せる」村の石の限界が、次の場所への扉になります。


春には、王都から客が来るようです。


次の話もお楽しみに。


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