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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑥「世界が、見つける」

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148/211

第148話 納めた表

出発の朝、父は枠板をもう一度だけ磨いていた。


柾目の通った、狂いの少ない板。

溝のひとつひとつに布を通し、最後に乾いた手のひらで全体を撫でる。


納める朝の時計師の手は、いつもより少しだけ遅い。


ノラが土間から覗き込んだ。


「ねぇね、このすのこ、なに?」


「字を並べ替える道具」


「ならべかえ?」


「縦に書いて、横に読むの。そうすると、知らない人には読めなくなる」


ノラはしばらく考えて、結論を出した。


「ずるい」


そうかもしれない。

読める人を選ぶというのは、選ばれない人から見れば、ずるいことなのだ。


六歳の言葉は、ときどき暗号の本質を一言で言い当てる。


そこへ、町役所から控えが届いた。


王都の書庫からの、返事の写しだ。


コルネリアさんの字で、要点だけが書き抜いてある。


該当番号の原本は、十年前の蔵替えで技師団預かり。

書庫に残るのは台帳の行のみ。

作者名の欄は、台帳でも空白。


「……技師団預かり」


紙はあるのに、紙のある場所が変わっていた。


問い合わせの矢は、的に届く前に、別の的へ逸れていった。


(——王都まで行かないと、この先は無い)


(——行く日なんて、来るんだろうか)


折り畳んで、鞄の奥へしまった。


今日の仕事は、別にある。


◇◇◇


ヴェルメル卿の邸は、二十日あまり前と同じ丘の中腹にあった。


変わっていたのは、荷物だ。


父の膝の上に、布で包んだ平たい箱。

わたしの鞄に、封蝋つきの紙の束。


納める日が、来た。


玄関をくぐる時、二階から弦の音が降りてきた。


前と同じ楽器。

前と同じ、途中で止まってはまた始まる弾き方。


ただ、今日は一度だけ、わたしたちの足音に合わせるように音が途切れた。


家令は、やはりそちらを見なかった。


◇◇◇


執務の間で、父が箱を開けた。


中身は三つ。


一つ。

番号を彫った薄い枠板。

縦に細い溝が並び、紙片を差し込めるようになっている。


二つ。

封蝋で閉じた置き換えの表が、三組。

表紙にそれぞれ「一」「二」「三」の番号。


三つ。

手順を絵で描いた、一枚の紙。


「説明してくれ」


卿は身を乗り出した。

袖口の墨の汚れは、今日もあった。


「書く時は、まず置き換えます」


わたしは表の一番を開いて見せた。


「字を別の字に。これは前にお見せした通りです。そのあとが、新しいところです」


父が枠板を机に置く。


「書いた字を、この枠に縦に差します。読む時は、横に拾う」


卿が枠板を持ち上げ、重さを確かめた。


「いい板だ」


「狂うと、差した紙が浮きます」


父が答えた。


「浮いた紙は、読み間違いになる。だから狂わん木を選びました」


道具の信用は、木目から始まっている。


縦に書いて、横に読む。


それだけで、字の並び順が崩れる。

置き換えた上に、並べ替えが重なる。


「言葉の間は、書きません。続け書きにして、足りない端は捨て字で埋めます」


卿の目が、枠板の溝を一本ずつたどった。


「……うちの古い符牒が破られた手筋を、ぜんぶ裏返したな」


「はい」


言葉の間を消す。

繰り返しの形を、並べ替えで崩す。

そして——


「表は三組。番号つきです。漏れたと思ったら、その番号を捨てて次の番号へ。表を取り替えても、枠と手順はそのまま使えます」


鍵は、なくす前提で作る。


破られない箱より、すぐ替えられる鍵。


それが、この納品のいちばん大事な約束だった。


◇◇◇


「では、試そう」


卿は自分で紙を取った。


わたしが用意した練習文ではなく、その場で短い文を書く。

表の一番で置き換え、枠に差して横に拾う。


途中で二度、手が止まった。


一度目は、置き換えの表の引き方で。

二度目は、枠の差す向きで。


そのたびに手順の絵を確かめて、卿は自分で直した。


誰も、手を貸さなかった。


書き上がった符牒の紙を、卿はわたしへ寄こした。


「読めるか」


わたしは表と枠を借りて、ほどいた。


あすのあさ、にかいへちゃをはこべ。


読み上げる前に、少しだけ迷った。


二階。


卿は、わたしの目を見ていた。

試したのは、符牒だけではなかったのかもしれない。


「——明日の朝、二階へ茶を運べ。と、書いてあります」


「正しい」


卿は短く言って、その紙を燭台の火で燃やした。


灰が皿に落ちるまで、誰も喋らなかった。


「読めない手紙は、ただの紙だと言ったな」


「はい」


「これは、読める。読む者を、わたしが選べる」


卿は枠板を布で包み直した。


「良い仕事だ」


◇◇◇


対価の書付は、使者が運んできた。


銭の額は、町の見立て通り。

コルネリアさんが確かめた相場から、銅貨一枚ぶんも動いていない。


「それと、これはわたしの礼だ」


卿がもう一通、封書を机に置いた。


宛名に、知らない名前があった。


王都商業ギルド連合

レオンハルト殿


「王都の商人たちの、いちばん上にいる男だ。腐れ縁でな。——お前さんの網の話は、ベルマンの筋でとうに王都へ届いておる。だが、紙が一枚あると届き方が変わる」


紹介状。


父が、わたしより先に頭を下げた。


「使う日が来るかは、分からん」


卿は言った。


「来た時に、無いと困るのが紹介状だ」


(——王都)


(——今朝の控えと、同じ方角)


書庫の台帳も技師団も、この紹介状の宛名も、ぜんぶ同じ町にある。


行く日なんて来るんだろうか、と今朝思ったばかりだった。


道の方が先に、束になって伸びてくる。


◇◇◇


「ザイデルの沙汰は、まだ先になる」


帰り際、卿は事務の声に戻って言った。


「倉は封じた。審問は王都で続いておる。早くて秋、長引けば年を越す」


「長引くのですか」


「あの男は、王都にも貸しがある。商人の裁きは、剣より遅い」


決着は、まだ書かれない。

遠くの手続きは、遠くの速さで動く。


それから卿は、机の上の表の三組を見て、付け足した。


「一番はわたしが持つ。二番は王都屋敷の、信を置ける者へ送る。三番は——」


少しだけ、間があった。


「三番は、しまっておく」


「どなたにも、渡さないのですか」


「渡す相手を、まだ決めておらん」


卿は包みを家令へ渡しながら、半分だけ独り言のように言った。


「二階へは、渡さん」


それ以上は、何も言わなかった。


廊下に出ると、弦の音はもう聞こえなかった。


◇◇◇


帰りの馬車で、父は包みのなくなった膝を撫でた。


「終わったな」


「うん。……ううん」


「どっちだ」


「納めるのは、終わった。使われるのは、これからだから」


父は小さく息で笑った。


「時計と同じだ」


作って、納めて、それから先は持ち主の時間が動く。

父はそれを、何十回も繰り返してきた人だった。


窓の外を、翠の月の終わりの麦畑が流れていく。


穂はもう、こうべを垂れ始めている。

次に村が忙しくなるのは、刈り入れだ。


壊す者は捕まり、守りは納まり、沙汰と書庫は遠くでゆっくり動いている。


(——しばらくは、ゆっくり作る日々)


(——それでいい。根を張る時間だ)


鞄の中で、対価の書付と紹介状が、固い音を立てた。


夏が、深くなる。


■あとがき・解説


第148話は、ヴェルメル家へ新しい符牒一式を納める回でした。


今回は「縦に書いて横に読む」「番号つきの表」「読む者を選べる」についてゆるく書いていきます。


■この話で出てきた言葉


■「縦に書いて横に読む」——転置を道具にする


枠板の溝に字を縦に差し、横に拾う。


それだけで字の並び順が崩れます。

置き換え(換字)の上に並べ替え(転置)が重なるので、前話までに出てきた「繰り返しの形」の手がかりが消えます。


実際の暗号史でも、棒に紙を巻きつけて読むスキュタレーなど、転置を道具で実現する方法は古くからありました。

時計師の父が「狂わない木」を選ぶところから道具の信用が始まる、というのがこの世界らしいところです。


■「番号つきの表」——鍵は、なくす前提で作る


表は三組、番号つき。

漏れたと思ったらその番号を捨てて、次の番号へ。


破られない箱を目指すより、すぐ替えられる鍵を作る。

鍵の管理と更新を最初から設計に入れる考え方は、現代の仕組みでも守りの基本です。


■「読む者を選べる」——暗号は配り方で完成する


卿は表の三組の行き先を自分で決めました。

そして「二階へは、渡さん」と。


どんなに良い符牒でも、表を渡す相手を間違えれば守りは破れます。

道具の出来と同じくらい、配り方が守りそのものなのです。


納める仕事がひと区切り。

物語は少しだけ、ゆっくりの季節に入ります。


次の話もお楽しみに。


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