第147話 読み解く側
後始末は、紙の上で進んでいった。
西の小塔の塔番が、詰所で三人目の顔を確かめた。
あの日、偽の急報札を受け取った相手に間違いない、と。
笠の男に、顔がついた。
偽急報も、塔こわしと同じ帳面に載った。
ザイデル商会の倉には、王都の手が入ったと聞いた。
頭目の沙汰が決まるのは、まだ先になる。
そういうものは、遠くでゆっくり動く。
村と町の手元では、別のものが動き始めていた。
新しい表だ。
言葉の間を消して並べ替えを重ね、取り替えられる形で作った、ヴェルメル家のための符牒。
父の彫った枠に、最初の表が納まった。
壊す話が遠ざかって、作る話が戻ってきた。
そこへ、行商の荷が返事を運んできた。
バルドゥス爺さんの返事だ。
紙には、一言だけ。
茶を飲みに来い。
◇◇◇
森の入口の家は、変わっていなかった。
苔の浮いた屋根。
戸口の脇に積まれた薪。
家の中の、乾いた草と古い木の匂い。
「来たか」
バルドゥス爺さんは、囲炉裏の前にいた。
夏なのに、小さな火が入っている。
年寄りの家の火は、季節のためじゃなく、湯のためにある。
「手紙、読んでくれた?」
「読んだ」
爺さんは鉄瓶を傾けながら言った。
「長くなったな、お前さんの手紙は」
「ごめんなさい」
「褒めておる」
椀に注がれた茶は、薄くて熱かった。
「夜にな、たまに見ておるよ」
「なにを?」
「村の丘の光だ。ここの戸口から、ちょうど見える。決まった刻に点いて、決まった刻に消える」
爺さんは茶をすすった。
「年寄りの夜は長い。あれはいい時計だ。……点かん夜が続いた時は、寂しかったぞ」
塔が壊されて、光が止まっていた間のことだ。
この森の入口でも、誰かが夜ごと、あの光を待っていた。
知らないところで時計にされて、知らないところで待たれていた。
網の上の光は、わたしが思うより多くの夜に繋がっている。
「煙が字になって、字が光になって、光が網になった。そこまでは、わしにも分かった」
「うん」
「で、網が人を捕まえた」
わたしは椀を両手で持ったまま、頷いた。
捕まえた。
塔を倒した足も、嘘の札を運んだ手も、捕まった。
わたしが解いた紙が、その始まりだった。
「……ねえ、爺さん」
「なんだ」
「読み解く側に立てる、って言ったでしょう。前に」
爺さんの白い眉が、少しだけ動いた。
「魔力なき者は、世界を読み解く側に立てる。あの言葉、ずっとお守りだった」
「だろうな」
「でも今は、少し重い」
囲炉裏の火が、小さく爆ぜた。
「読めたから、人が捕まった。それ自体は、正しかったと思う。塔は守られたし、嘘も止まった」
言葉を探す。
「でも、読むって、思っていたより強いことだった。読まれた側は、わたしの顔も知らないのに」
爺さんはしばらく黙って、茶を飲んだ。
それから言った。
「いいところに気付いたな」
「いいところ?」
「読み解く側に立つ、というのはな。高いところに立つ、という意味ではない」
鉄瓶が、囲炉裏の鉤で小さく揺れた。
「読める者は、読まれる側の痛みを知っておる者でなければならん。読めん者の心細さもな。両方知っておるだろう」
読めない側の心細さ。
字の読めなかったダンの、視線の逃げ方。
それから、わたし自身。
表を持たずに、間のないかなの川をただ眺めるしかなかった、最初の夜。
「知ってる」
「なら、よい読み手になる」
「……これからも、解いていいのかな」
「解けてしまう者が解かんのは、ただの怠けだ」
爺さんは、にべもなかった。
「解いたあとにどうするかで、迷え。解くかどうかで迷うのは、お前さんの仕事ではない」
解くかどうかではなく、解いたあとで迷う。
その順番は、持って帰る価値があった。
気付けば、椀の茶がぬるくなっていた。
爺さんは、それで終わりにした。
説教は、いつも短い。
短いから、残る。
◇◇◇
帰り際、戸口で爺さんが聞いた。
「手紙の最後の、見えん手の話だがな」
わたしは足を止めた。
壊しに来た人の顔は、もう見えた。
でも、手紙に書いた時の「見えないもの」には、もう一つの影が混じっていた。
「……顔は、見えたよ。捕まったから」
「そっちではなかろう」
爺さんは、わたしの目を見た。
年寄りの目は、濁っているのに、よく通る。
「お前さんの字は、最後の行だけ線が深かった。あれは、怖い時の字だ」
少し迷って、わたしは半分だけ話した。
「古い図面を見たの。作った人の名前が分からない。でも、すごく——筋のいい人」
「ほう」
「その人の考え方の道具が、悪い人の手に渡って使われてた。作った人は、どこの誰だか分からないまま」
「会いたいのか」
まっすぐな問いだった。
会いたいのか。
怖いのか。
机に並べた二枚の紙と、答えの出なかった夜が戻ってくる。
「……分からない」
「なら、分からんうちは、会わんでいい」
爺さんはあっさり言った。
「縁があるなら、向こうの道とお前さんの道は、どこかで交わる。交わった時に、会いたいかどうかを決めればよい」
(——道が、交わる)
(——交わるかどうかも、まだ分からないのに)
それでもその言い方は、胸の置き場所をひとつ作ってくれた。
会うか会わないかを、今決めなくていい。
分からないものは、分からないまま持っていていい。
「また来い」
「うん。また来る」
「次は、もっと長い手紙の話を聞いてやる」
◇◇◇
森の入口から村へ戻る道は、夏の匂いがした。
麦の穂が重くなり始めている。
刈り入れが近い。
丘の上では、今日も決まった刻に光が走る。
ダンとニコは、もう、わたしがいなくても塔を回せる。
ヤンさんの寄合は、新しい塔番を二人増やしたらしい。
ヴェルメル家の表は納まり、二枚目の注文が来ている。
ヨハンからは、ノラ宛ての封手紙が届いた。
ノラは封を破る前に、糊の端を三回も確かめていた。
家に戻れば、エマが刈り入れ前の道具を出している。
ノラの字の練習は、いつの間にか「ひかりでおくるれんしゅう」と呼び名が変わった。
事件は、遠くの手続きの中へ沈んでいく。
網は、暮らしの音の中へ沈んでいく。
(——ここから先の日々は、たぶん、ゆっくり流れる)
(——作って、直して、教えて。季節が回る)
それでいい。
速い知らせも、解けない紙も、いつかまた来る。
来た時に立っていられるように、ゆっくりの日々で根を張っておく。
夕方の光が、村の丘の塔をだいだい色に染めていた。
わたしは少しだけ立ち止まって、その色を見た。
塔に、決まった刻に光が点く。
その当たり前を、この夏、自分の手で取り返した。
明日も、あの塔に同じ光が点く。
■あとがき・解説
第147話は、事件のあとにバルドゥス爺さんを訪ねる、締めくくりの回でした。
今回は「読み解く側」「解いたあとで迷う」「いい時計」についてゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「読み解く側」——高いところに立つ、ではない
「魔力なき者は、世界を読み解く側に立てる」。
リナのお守りだったこの言葉が、暗号を解いて人が捕まった経験を経て、少し重くなりました。
爺さんの答えは「読める者は、読まれる側の痛みを知っておる者でなければならん」。
読む力の話が、読む資格の話に変わる回です。
■「解いたあとで迷う」——迷う場所の順番
「解けてしまう者が解かんのは、ただの怠けだ。解いたあとにどうするかで、迷え」
力を持つことと、力をどう使うかを分ける考え方です。
解読も、通信も、これから先のもっと大きな発明も——リナはこの順番を持って進むことになります。
■「いい時計」——知らないところで待たれている光
バルドゥス爺さんは、森の入口から村の丘の光を夜ごと見ていました。
決まった刻に点いて、決まった刻に消える。
それを「いい時計だ」と言う人が、網の知らないところにいる。
インフラは、使う人の数だけでなく、当てにする人の数で社会に根を張ります。
事件は手続きの中へ、網は暮らしの音の中へ。
ここから物語は、少しゆっくりの日々に入ります。
次の話もお楽しみに。




