第155話 旅立ちの相談
ヨハンが家に着いたのは、夕焼けが井戸の石に半分だけ残るころだった。
詰所から借りた上着の裾には、町の土がついていた。
腰には父の古い布袋と、新しい木札。
ノラは玄関まで走り、途中で止まった。
「お兄ちゃん」
「ただいま」
ヨハンがしゃがむと、ノラは首に抱きついた。
けれどすぐに離れ、木札を見た。
「それ、えらい札?」
「えらくはない。夜に働く札」
「じゃあ、夜の札」
「そうだな」
ヨハンは笑った。
食卓には、エマが温め直した豆の煮込みと、薄く切った黒パンが並んでいた。
いつもの夕食だった。
でも椅子の位置だけが違った。
父の前に紙が一枚。
母の前に布袋。
わたしの前に、王都へ持って行くものを書き出した木札。
ヨハンの前には何もない。
何もないからこそ、そこに一番大きな話が置かれている気がした。
父は食事の前に、紙へ指を置いた。
「行くかどうかは、もう決めた」
誰も驚かなかった。
「今日は、誰が行くか。いつ出るか。何を置いていくかを決める」
ヨハンが背筋を伸ばした。
「俺も行く」
早かった。
エマは手を止めた。
ノラはパンを持ったまま、目だけを兄へ向けた。
父はすぐに返事をしなかった。
「組頭には」
「明日、戻って言う。残る返事も、行く返事も家でしてこいと言われた」
「王都までだぞ」
「分かってる。町の夜番から逃げる話じゃない」
ヨハンは膝の上で拳を作った。
「俺は、町で教わったことを持って行く。道を見ること。人を見ること。早く走る前に、どこで待つかを決めること」
わたしは、ふっと息を止めた。
二つの石の道で、ヨハンは人を追い回さなかった。
荷を押さえ、人が戻らざるを得ない形にした。
あれは兄の判断だった。
わたしの符号ではない。
「それに」
ヨハンはこちらを見た。
「リナを守るって言ったら、また怒るだろ」
「怒らないけど」
「顔が怒る」
「それは、たぶん怒る」
少しだけ食卓がゆるんだ。
ヨハンは笑わずに続けた。
「守る。でも、それだけじゃない。俺も見たい。お前が町の外で何を作るのか。町で教わった俺の足が、どこまで役に立つのか」
父は頷いた。
「明日、組頭にそう言え」
「はい」
「許しが出たら、暁の月二十七日の朝に村を出る。ハーラム町で合流して、そこから王都への荷馬車に乗る」
父の指が紙の上を動いた。
「村から王都までは馬車で三日。道はベルマンさんの紹介状の道を使う。知らん近道は使わない」
「お父さんは?」
わたしが聞くと、父は短く答えた。
「行く」
母はそこで初めて、布袋の口を結んだ。
「分かっていたけれど、言葉にすると重いわね」
「すまん」
「謝るところじゃない」
エマは父を見た。
「あなたが行くなら、リナは道具を減らしなさい。あの子は紙を持ちすぎる」
わたしは反射で木札を隠しかけた。
母には見えていた。
「図面は全部持って行かない。送る紙、持つ紙、見せない紙に分けた」
「知っているわ。でも旅の鞄は、理屈より早く重くなるの」
母の言うことは正しかった。
わたしは木札を一枚裏返した。
そこには、おぼえる仕掛け、と書いてある。
「これは置いていく」
ヨハンが眉を寄せた。
「持って行かないのか」
「まだ、家の棚で眠らせるもの。王都に持ったら、見せる前に見られる」
父が無言で頷いた。
「王都では、余白も読まれる」
テオドール様の言葉を口にすると、エマの指が少しだけ止まった。
けれど母は何も聞かなかった。
聞かない代わりに、布袋をこちらへ押した。
「なら、帰ってくる道を先に入れなさい」
袋の中には、薄い紙の束と糸が入っていた。
ノラの練習用に切った、小さな封紙もある。
「手紙は、いつもの荷で出す。急ぎの言葉は光。でも光には短い言葉だけ。ノラの話は、封にする」
ノラが顔を上げた。
「ノラの話、光じゃだめ?」
「光で言えることもある」
エマは妹の髪を撫でた。
「でもお兄ちゃんだけに言いたいことや、お姉ちゃんだけに言いたいことは、封にするの」
ノラは少し考えた。
「じゃあ、ノラは封の係?」
「そう」
「お家の封?」
「お家の封」
ノラはパンを皿に置き、まじめに頷いた。
「する」
その一言で、胸の奥が痛くなった。
置いていくものは、仕掛けや紙だけではない。
ノラの朝の声も、母の織機の音も、ここに残る。
この食卓の椅子のきしみも、ここに残る。
でも残るから、帰る場所になる。
父は紙の端を叩いた。
「明日は村長のところへ行く。推薦状を頼む」
「村長さんに?」
「王都では、家の名前だけでは足りん。村が何を見て許したかを書いてもらう」
わたしは頷いた。
水路の時も。
丘の塔の時も。
村長ハインリヒは、ただ許したわけではなかった。
条件をつけた。
責任の置き場を決めた。
止める手順も決めた。
わたしが王都へ行くなら、そのことを持って行かなければならない。
◇◇◇
翌朝、村長の家の戸は半分だけ開いていた。
中では、ハインリヒ村長が古い帳面を机に広げていた。
わたしたちの顔を見ると、目尻の皺を少し深くした。
「まあ、悪い話じゃなさそうじゃが」
「まだ何も言ってません」
わたしが言うと、村長は鼻を鳴らした。
「父親と娘が朝からそろって来て、悪い話なら戸口で顔に出る」
父が頭を下げた。
「王都へ行くことになりました。推薦状をお願いしたく」
「ふむ」
村長は驚かなかった。
この村では、驚いた人ほど先に黙る。
村長は黙らず、帳面を一枚めくった。
「リナ嬢ちゃん」
「はい」
「王都へ行って、村の名で好き勝手してよいという文は書かんぞ」
「はい」
「村の子だから偉い、という文も書かん」
「はい」
「なら書ける」
村長は筆を取った。
「水路の時、お主はまず失敗した時の損をどこに置くか言った。自分の家の畑の近くで試すとな」
筆先が紙に触れる。
「狼煙台の脇に光の塔を置く時は、急報と紛れんようにせよと言った。お主は、それを嫌がらんかった。町側に知らせ、祭司にも知らせ、止めろと言われたら止めると約束した」
父は黙って聞いていた。
わたしも黙っていた。
村長の口から聞くと、自分の作ってきたものが違う形に見えた。
装置の名前ではない。
許されるための順番だった。
「王都の者は、才を見たがるじゃろう。珍しいものを見たがる。早いもの、大きいもの、役に立つものをな」
村長は筆を止めた。
「じゃが、わしが書くのはそこではない」
顔を上げ、わたしを見た。
「この子は、村の共有のものへ手を入れる時、条件を聞く。責任の置き場を決める。止める人間の声を残す。そこを書く」
喉の奥が熱くなった。
褒められた気はしなかった。
もっと重いものを渡された気がした。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い」
村長は書き終えると、紙を乾かすために軽く振った。
「それと、お主を村のものとして縛る文にもせん」
父の眉が少し動いた。
「村長」
「村は送り出す。だが、村のためだけに行けとは書かん。王都で何を見て、何を持ち帰るかは、お主らが決めることじゃ」
村長は封を取り出した。
赤茶の封蝋が、小さな火でやわらかくなる。
「エルナ様も、神殿へ文を出すと言っておった。商人の道、神殿の道、村の道。三つあれば、少しは足場になる」
封蝋に村長印が押された。
丸い跡の中に、麦穂と水路の線が浮かんだ。
わたしはそれを見て、初めて旅の形を少しだけ理解した。
王都へ行くのは、わたし一人ではない。
父と兄が一緒に行く。
母とノラは家に残る。
でも紹介状も、神殿への文も、村長の推薦状も同じ道具袋に入る。
持って行くものと、置いていくもの。
その間に、いくつもの手が結び目を作っていた。
◇◇◇
家に戻ると、ノラは土間で封紙を並べていた。
小さな紙の真ん中に、一本ずつ線が引いてある。
まっすぐな線も、少し曲がった線もあった。
「これは?」
「ここまで、の線」
ノラは得意そうに言った。
「この線のところで折ると、きれいな封になるの」
エマが奥から声をかけた。
「まだ練習よ」
「でも、できた」
ノラは一枚をわたしに渡した。
表には、たどたどしい字で、リナへと書いてある。
中は空だった。
「まだ書かないの?」
「出したあとで書く」
「出したあとだと、遅いよ」
「じゃあ、行ったあと」
ノラは言い直した。
たぶん、言葉の順番は少し違う。
でも気持ちは分かった。
行ったあとにしか書けないことがある。
残ったあとにしか分からないこともある。
わたしは空の封紙を、旅の袋には入れなかった。
机の上に置いた。
「これは、家に置いておいて」
「どうして?」
「帰ってくる時に、読めるから」
ノラは眉を寄せた。
納得したのか、していないのか分からない顔だった。
それでも、紙を丁寧に押さえた。
夕方、ヨハンは一度町へ戻る支度をした。
組頭へ返事をし、王都行きの許しと役目を決めるためだ。
父はグスタフへ渡す部品の束を別に置いた。
わたしはヤンさんとコルネリアさんへ渡す紙を、まだ机に残した。
旅立ちの相談は終わった。
でも置いていく線の相談は、まだ終わっていない。
壁の釘に、父の旅袋が掛かった。
その隣に、わたしの軽くした鞄が掛かった。
机の上には、村長印の封と、ノラの空の封紙。
それから、明日だれかに託すための紙束が残っていた。
■あとがき・解説
第155話は、王都へ行くための段取りを家族と村の中で固める回でした。
今回は「同行者」「推薦状」「帰ってくる道」についてゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「同行者」——守るだけではない同行
父アルベルトは保護者として王都へ同行します。
ヨハンも同行する意思を示しました。
ただし、妹を守るだけではありません。
町の自警団で覚えた「道を見る」「人を見る」「どこで待つかを決める」という経験を、自分の足で王都へ持って行くためです。
■「推薦状」——村が何を見ていたか
ハインリヒ村長の推薦状は、リナの才能を大げさに褒める文ではありません。
水路や光の塔で、リナが条件を聞き、責任の置き場を決め、止める人の声を残してきたことを書いています。
王都へ持って行くのは発明の成果だけではなく、その発明が許されるまでの順番でもあります。
■「帰ってくる道」——手紙、光、封
エマは今回も、帰ってくる道を先に作ろうとします。
手紙はいつもの荷で。
急ぎの短い言葉は光で。
ノラのように一人へ向けた言葉は封で。
離れる前に通信の使い分けを決めておくことで、旅立ちは「断絶」ではなく「距離ができる」出来事になります。
次の話もお楽しみに。




