第15話 一区切り
青の月の七日。
翌日はグスタフ親方の工房に初めて訪れる予定だった。
父が一緒に来てくれる。
そこでわたしの計算珠盤の量産用に、より良い部品の作り方を相談する。
そして来週の終わりに予定していたハーラム行き——商人ギルドへ父と一緒に見せに行くことが決まっていた。
——八歳の身体には少し詰め込みすぎだ。
(……でも楽しみ)
夜、わたしは寝床に入る前に屋根裏の窓際にぺたんと座った。
二つの月がまた空に並んで浮かんでいた。
転生してから何回この二つの月を見ただろう。
(——転生してから九十七日)
頭の中で数えてみた。
たった九十七日。
八歳のリナとしてわたしが生きてきた日数。
それなのに——
(……いろいろあった)
過労死したあの夜のことを思い出す。
モニターの白い光。「あと一つだけ」の呟き。
そして八歳のリナとして目覚めた朝。
母エマの「ベシリア」。
父アルベルトの工房の歯車。
祭司エルナの「魔力なき者」の判定。
そして父の鐘時計が組み上がったあの瞬間の「気付き」。
エマの織物の結び目の紐。
兄ヨハンの「ある、に決まってる」。
妹ノラの初めての「ねぇね、すごい」。
そして——わたしが手で初めて作ったあの計算珠盤。
(——全部繋がってる)
頭の中でそれぞれの場面が糸で繋ぎ合わされていく。
(——わたしはここで生きていく。ここで作っていく)
胸の奥が温かかった。
前世の最後の夜の寒くて孤独で焦っていたあの感覚とはぜんぜん違う温度。
◇◇◇
「リナ、まだ起きてる?」
階下からエマの声がした。
「うん、まだ。月を見てる」
「明日早いんだから、もう寝なさい」
「はーい」
声だけは元気に返したけれど、わたしはまだ月を見ていた。
(……お母さんお父さん、お兄ちゃん、ノラ)
(——みんな、ありがとう)
頭の中でもう一度家族の顔を思い浮かべた。
それからグスタフ親方のいかつい顔も。
それから祭司エルナの藍色の瞳も。
それから村のおばあさんのしわくちゃの笑顔も。
——この村が今わたしの居場所だった。
前世ではこんなに誰かを「自分の側」だと感じたことはたぶんなかった。
オフィスの同僚、上司、お客さん——みんな職場の人間関係。家に帰れば一人だった。
——だけど今、わたしには家族がいる。
——わたしのことを「不思議な子」だと笑いながら、それでも無条件に抱きしめてくれる人たちがいる。
(……これはたぶん宝物だ)
涙が出そうになってわたしは慌てて袖で目をこすった。
八歳児の身体でもまだ、感情のオーバーフローは起きやすい。
——今は泣いてる場合じゃない。
——明日からまた作るんだ。
◇◇◇
頭の中でふとこれからの計画が勝手に組み上がり始めた。
(計算珠盤の量産用、設計の見直し)
(——もっと滑らかに動く軸をグスタフさんと相談する)
(それから)
(——次は何を作ろう?)
頭の中で選択肢がぶわっと湧き出した。
(——機械式計算機の原型? 歯車を組み合わせて足し算と引き算を自動でやれる装置)
(——でもこれは技術的にまだ難しいかも)
(——もう少しシンプルな「分類」装置? 大量の物を何かの規則で分けるためのもの)
(——あるいは暗号通信? お兄ちゃんが遠くに行ったときに家族で秘密の連絡を取り合える仕組み)
(——あ、それいいかも)
(——家族の安全に繋がる。お兄ちゃんもたぶん喜ぶ)
(——ええっとシーザー暗号、いやそれだと簡単すぎ。もう少し複雑な置換式)
(——あ止まれわたし、明日朝早いんだから、止まれ止まれ止まれ)
頭の中の暴走をわたしはなんとか堪えた。
(——作りたいことがまだたくさんある)
胸の中でそれは確信に近かった。
◇◇◇
ようやくわたしは毛布の中に潜り込んだ。
隣でノラが寝息を立てている。
階下では父と母の低い話し声がまだ続いていた。
たぶん明日のグスタフ親方の工房のことを話しているんだろう。
(……明日が楽しみだ。前世の「明日」とまったく違う)
前世の「明日」はいつも不安と疲労と納期だった。
それしかなかった。
(——今のわたしの「明日」は、わくわくするものになってきた)
寝る前にわたしはもう一度、頭の中で誓った。
——わたしはここで何かを作る。
——たくさん作る。
——みんなが楽になる世界を作る。
そして最後にもう一度。
(——次は何を作ろう)
その問いに答えが出る前に、
わたしはようやく眠りに落ちた。
ここまでがわたしの「最初の百日近く」だった。
——眠りに落ちる直前。
階下で表の戸を叩く音がした。
こんな時間に、誰だろう。
父の低い声と聞き慣れない男の声がわずかに漏れ聞こえてきた。
「……夜分にすまない。ハーラム町の商人ギルドからの急ぎの伝言だ」
——え。
(……明日行く予定だったのに、向こうから来た?)
(——何かあったの?)
毛布の中で半分意識を手放しかけていたわたしの頭の片隅で、何かが小さくぴくりと動いた。
階下の戸が、もう一度低く鳴った。
■あとがき・解説
第15話は、リナがこの異世界に転生してから「最初の百日近く」を、夜の屋根裏でしずかに振り返る回でした。
そしてこの回で、「魔法はコードだった」の章が一旦閉じます。
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。
最後のヒキで少しだけ顔を出した「次のもの」については、もう少し先のお楽しみに。
今回はリナが頭の中で勝手に走らせていた次の計画について、ちょっとだけ覗いてみます。
■この話で出てきた言葉
■「暗号通信」
リナが寝床の中で「お兄ちゃんが遠くに行ったときに家族で秘密の連絡を取り合える仕組み」を考え始めた、あの場面。
あれは現代の言葉でいうと暗号通信にあたります。
暗号通信というのは、ざっくり言えば「内容を、第三者に読まれないように送り届ける技術」のことです。
たとえばメッセージを書いた紙が途中で誰かに拾われても、そこに書かれている文字をそのまま読んだだけでは意味が分からない。
ちゃんとした読み方を知っている受け取り手だけが、正しい中身を取り出せる。
そういう仕組みです。
現代では、ネットでお買い物をするときのクレジットカード情報、メッセージアプリのやり取り、銀行のオンライン取引——わたしたちの暮らしのほとんどが、見えない場所で常にこの暗号通信に守られています。
電気のない世界では大規模には使えませんが、家族の安全のために手紙の中身を暗号化するくらいなら、紙とペンと取り決めだけで十分にできます。
■「シーザー暗号」
リナが心の中で「シーザー暗号、いやそれだと簡単すぎ」と一瞬で却下してしまった、あの古い暗号。
名前の通り、古代ローマのカエサル(シーザー)が使ったとされる暗号です。
仕組みはとてもシンプル。
たとえばあいうえお順を使って、文字を三つずらすルールを決めたとします。
「あ」と書きたいなら「え」と書く。「か」なら「け」。
こうしてずらした文字だけを並べた手紙を送れば、ルールを知らない人には意味の分からない文字列に見えます。受け取った人は「三つ戻せばいい」と知っているので、元の文に戻せます。
シンプルですが、現代の目で見るとあっという間に解かれてしまう弱い暗号でもあります。
それでもシーザー暗号は、「文字を別の文字に置き換える」という暗号のいちばん基本的な発想を教えてくれる、歴史上とても大事な一歩でした。
そして第15話の最後でリナは、自分のこれまでの百日近くを頭の中で糸でつなぎ合わせていきました。
魔力を持たないリナが、それでも自分の手で何かを動かし、家族に認められ、村の外まで噂が届くようになるまでの、たった百日足らず。
前世では一度も感じたことがなかった「明日が楽しみ」という気持ち。
ここまでが、リナの物語のいちばん最初の章でした。
——眠りに落ちる直前。
階下で表の戸を叩く音がして、ハーラム町からの急ぎの伝言が届きました。
それが何なのかは、次の話で。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。
ここからは「眼を、隠す」、リナにとっての二つ目の章が始まります。
次の話もお楽しみに。




