第16話 夜の伝言
翌朝、わたしはいつもより早く目を覚ました。
階下では、すでに母エマがパンを焼く匂いを立てていた。
(……昨夜の伝言)
毛布から這い出すと、ノラがまだすやすやと寝息を立てていた。
わたしはそっと屋根裏の梯子を降りた。
居間で、父アルベルトがすでにテーブルについていた。
珍しい。父はいつもならこの時間、工房にこもっているはずだった。
「リナ、おはよう」
エマがいつもの調子で振り返った。
「お母さん、お父さん、おはよう。あの、ね」
「うん?」
「昨夜、夜遅くに誰か来た?」
エマと父が一瞬、目を見合わせた。
それから父がゆっくりと椅子の上で姿勢を直した。
「……聞こえてたか」
「ちょっとだけ」
父はテーブルの上に薄い羊皮紙を一枚置いた。
赤い封蝋が縁に残っている。
「ハーラム町の商人ギルドからの正式な手紙だ」
——え。
「手紙? もう?」
「先日、俺が持ち込んだ計算珠盤についてギルド長が直接、話をしたいとのことだ」
(……ギルド長)
「向こうからこちらに来てくれるそうだ。一月半ほど後にグレンフィールド村まで。だから来週のハーラム行きは、取りやめだ」
——え。
(……え、来るの? ハーラム町のお偉いさんがわざわざ村まで?)
頭の中で、いくつもの可能性がばらばらと駆け出した。
(——リナの作った珠盤を量産したい?)
(——独占契約したい?)
(——あるいは、別の用件?)
「父さん」
「ん」
「ギルド長って、すごい人?」
「ああ。少なくともこの辺りの商売は彼の一声で動く」
(……すごい人だ)
エマがそっとわたしの肩に手を置いた。
「ね、リナ。一月半あるからちょっとずつ心の準備をしましょうね」
「うん」
「お父さんもお母さんも、いっしょにいるから」
——母の声はいつものように柔らかかった。
それでも、その柔らかさの底にわずかな緊張があるのをわたしは感じ取った。
◇◇◇
その日の予定は変更になった。
本当ならこの日、わたしは父と一緒にグスタフ親方の工房を初訪問するはずだった。
だけど父は「ギルド長との会談の準備をまず整える」と言った。
「リナ。グスタフの工房に行くのは十日ほど後にする。それまでは家でゆっくりしてろ」
「うん、わかった」
——わたしは素直に頷いた。
でも内心では、別のことを考えていた。
(……ちょうどいい)
ギルド長との会談の前に、わたしには確かめておきたいことがあった。
「眼」——前世のプログラマー目線で、この世界の魔法をどこまで読み解けるかだ。
ベシリア(着火)は読めた。
アクシリア(水生成)も視界の端で何かが見えた気がした。
そしてつい先日の萌の月の祭事——豊穣の祈り。あの儀式の if 文もはっきり見えた。
(——他の魔法はどこまで読めるんだろう?)
(——使い手が違っても同じものが読めるんだろうか?)
(——攻撃魔法も読めるんだろうか?)
頭の中で、いくつもの仮説が勝手に組み上がっていく。
エンジニアの本能、と言えばいいのだろうか。
新しいライブラリを渡されたとき、まず何ができて何ができないのかを片っ端から試したくなるあの感覚。
(——試したい)
何かに取り憑かれたみたいに、わたしは心の中で繰り返した。
◇◇◇
朝食が終わって、エマと父が片付けを始めた頃。
わたしは台所の隅で、母が朝の生活魔法を使う様子をじっと見ていた。
エマがいつもの黒い魔石に触れて、
「ベシリア」
火が点いた。
模様が一瞬、浮かんで消えた。
(——うん、いつも通りの構造)
頭の中で、わたしはチェックリストを一つ消した。
それからエマは別の魔石を取り出して、桶の上に手をかざした。
「アクシリア」
水が湧いた。
こちらも模様が一瞬、浮かんで消えた。
(——アクシリアもいつも通り)
(——ベシリアと構造が似てるけど、少し違う)
頭の中で、わたしはじっと目を細めた。
——本当に「少しだけ」違う。
ベシリアは中心の呼び出しに小さな繰り返しがあるけど、アクシリアは繰り返しがない代わりに「容器が指定されているか」という前提条件のチェックがより厳しい——気がする。
——同じ「家事を効率化する魔法」というカテゴリに属していそうなのに、書き方の癖が違うように見える。
(……これって、)
(……これって、もしかして別の人が書いたコードなのかもしれない)
頭の中で、新しい仮説がぱっと湧いた。
仮にそう呼ぶだけで、まだ何の確証もない。
(——あるいは別の時代に、別の流儀で書かれたもの——なのかも)
——前世のプログラミング言語で言えば、関数型と手続き型のような根本的なパラダイムの違いまではいかないだろう。
だけど書き手の「クセ」がはっきり違うように見える。
(……これは、面白い)
頭の中で、すごい速度で何かがぐるぐる回り始めた。
「リナ、また顔がにやけてるわよ」
エマが振り返って笑った。
「あ、ご、ごめんなさい」
「お母さんの料理がそんなに楽しい?」
「うん、楽しい」
——半分嘘、半分本当。
エマの料理は確かに楽しい。
だけどわたしが本当に夢中になっているのはエマの「コード」だ。
——お母さん、ごめん。
◇◇◇
その日の午後。
ヨハンが鶏小屋の手入れを終えて、井戸に水を汲みに行った。
わたしは「ついていく」と手を挙げた。
「リナ、また?」
「うん。お兄ちゃんのお水汲み、見てたい」
「変なやつ」
ヨハンは肩をすくめたけれど、何も言わずに連れていってくれた。
井戸では、村のおばさんが二人洗濯物のついでに別の魔法を使っていた。
「ヴェントリス」
軽い言葉と優しい風。
洗濯物がふわりと膨らんで乾き始めた。
(……あ、これは初めて見る)
風魔法、というやつだろうか。
わたしはエマの腕に抱かれていない代わりに、地面にぺたんと座って靴紐を結び直すふりをした。
そして指先の動きを最小限にしながら、おばさんの手元をじっと観察した。
「ヴェントリス」
おばさんの指先と空気の間にふっと何かの模様が浮かんで消えた。
(……うん、見える)
模様の構造を頭の中で反芻する。
(——ベシリアやアクシリアとは明らかに書き方が違う)
(——これは……パターンマッチに近い構造)
(——「乾いている」「湿った」「重たい」対象を入力に応じて振り分けている)
そういえば——
前に祭司エルナの儀式で、長い古代語の詠唱を聞いた。
あの詠唱の中に「ヴェルティス・テラ」「ソルム・カスタス」「アヴェ・グランディア」と、いくつかの接頭辞があった。
あのとき、わたしは「if 文だ」と気付くので精一杯だった。
でも、いま思い返すと——
(——あの接頭辞は、もしかしたら設計者の系統名なのかもしれない)
(——同じ「ヴェルティス」を冠する魔法と同じ「ソルム」を冠する魔法は、書き方の癖が似ていてもおかしくない)
(——同じ流派の別の職人が書いた別のコード、みたいなものなのかも)
頭の中で、いくつかの点が線として繋がりかけた。
まだ仮の話だ。
(——ベシリアやアクシリアは構造的に「ヴェルティス」寄りに見える——仮にヴェルティス系と呼ぼう)
(——このヴェントリスは「ソルム」に近いかもしれない——仮にソルム系)
頭の中で、勝手に分類が進んでいく。
ただの仮称だと、自分に言い聞かせる。
(……ということは、)
(……古代の魔法陣は本当にいくつかの違う「言語」で書かれているのかもしれない)
——胸の奥がまた熱くなった。
「リナ、靴紐、まだ結べないのか」
ヨハンが桶を肩に担いだまま、振り返った。
「あ、ご、ごめん、お兄ちゃん」
わたしは慌てて立ち上がった。
紐はもうとっくに結ばれていた。
帰り道、ヨハンの背中を見ながら、わたしは小さく笑った。
(——調べることが増えた。どれから手をつけよう)
頭の中ではすでに、いくつもの「観察対象」がリストアップされていた。
村の祭司エルナの儀式魔法。
親方グスタフが使うかもしれない加工系の魔法。
村の女たちの生活魔法。
父アルベルトが工房で見せる時計修理用の細かい手技。
(——ギルド長が来るまで、一月半)
(——それまでに、この目線がどこまで通用するのか確かめておきたい)
家に戻りながら、わたしは小さな両手をこっそりぎゅっと握りしめた。
日はすでに高くなっていて、村は普段通りの静かな夏の昼を迎えようとしていた。
■あとがき・解説
「眼を、隠す」の章の入り口、静かな朝から始まる回でした。商人ギルドからの正式な手紙が届き、ハーラム町のお偉いさんがわざわざ村まで来るという知らせ。けれどリナの頭の中ではすでに別のスイッチが入っています。今回はその「スイッチ」の正体に潜む技術者の習性をご紹介します。
■この話で出てきた言葉
■「量産化」
一つ作って終わりではなく、同じ品質のものを大量に作れるようにすることを「量産化」と言います。職人が一個ずつ手作業で作っていたものを、工程を分けたり道具を統一したりして、誰がやっても同じ結果になるようにする。ものづくりの世界で大きな転換点となる考え方です。リナが作った計算珠盤は、いまはまだ父アルベルトの工房で一台だけ手作りされたものです。それを商人ギルドの目で見れば「これは商品になる」「もっと作れば売れる」と映るのは自然な流れでしょう。職人の作品が世間に出ていくとき、必ずこの「量産化」の壁が立ちはだかります。
■「能力範囲試験」
エンジニアの世界では、新しい道具やライブラリ(=既存の機能のかたまり)を渡されたとき、まず「何ができて、何ができないか」を片っ端から試して確かめます。これを「テスト」や「検証」と呼びます。本文では「能力範囲試験」と呼ばれていますが、要するに同じことです。リナが「ベシリアは読めた、アクシリアも見えた気がする、では攻撃魔法は?」と片っ端から確かめたくなっているのは、まさにこの本能の発動です。プログラマーは新しいおもちゃを渡されると、まず説明書通りに動かさず、わざと変な使い方をして限界を探したくなる生き物なのです。
■「仮説と検証」
ベシリアとアクシリアを見比べて、リナは「これは別の人が書いたコードだ」と仮説を立てます。仮説とは「たぶんこうじゃないか」という当たりをつけることで、それを実際に観察して確かめるのが「検証」。科学やプログラミングの基本動作です。リナはまだ八歳ですが、頭の中ではこの「仮説と検証」のサイクルを高速で回し始めています。
エマの料理を半分だけ楽しみ、もう半分はエマの「コード」を盗み見ているリナ。お母さんごめんね、と心の中で謝りながらも、目だけはきらきら光っている。
技術者の癖が、そんな形で顔を出しています。
次の話もお楽しみに。




