第132話 貴族の使者
町役所の机の上に、折れた引き腕が置かれていた。
父が布で包んで持ち帰ったものだ。
泥は拭いた。
焦げた灰も払った。
それでも、金具の曲がりは戻らない。
部屋の隅には、油と焦げた木の匂いが残っていた。
窓を開けても消えない。
むしろ外から入る青の月の湿った風で、匂いが少し広がる。
コルネリアさんは、破壊記録の写しに印を押していた。
ベルマン氏は、黙って帳面を閉じたり開いたりしている。
父は引き腕を見ている。
わたしは、その横で膝の上の手を握っていた。
(——直すものは見えている)
(——でも、直す順番が見えない)
木。
金具。
信号士の気持ち。
町の信用。
どれから直しても、どれかが残る。
◇◇◇
昼を過ぎたころ、町役所の前に馬車が止まった。
商人の荷車ではない。
車輪の音が軽く、馬具の金具が細かく鳴っている。
外を見ると、黒い上着の男が降りてくるところだった。
男は道の泥を避けるように足を置いた。
白い手袋をしている。
その手袋だけが、町役所の土ぼこりの中で浮いて見えた。
戸口の見張りが、名を尋ねる。
男は短く答えた。
「ヴェルメル伯爵家の使いです」
部屋の中で、ベルマン氏の指が止まった。
コルネリアさんは筆を置く。
父は引き腕から目を離さなかった。
(——貴族)
その言葉は、紙の上で見るより近かった。
王都の技師団からの依頼状は、ベルマン氏が運んできた。
あれは遠いけれど、仕事の匂いがした。
今、戸口に立っている男からは、仕事とは別の匂いがした。
封蝋。
上等な革。
人を待たせることに慣れた家の匂い。
◇◇◇
使者の男は、部屋に入ると深くは頭を下げなかった。
礼を欠いているわけではない。
けれど、どこまで頭を下げればよいかを、きっちり測っているような動きだった。
「ハーラム町長補佐コルネリア殿。商人ギルド長ベルマン殿。グレンフィールド村のリナ様」
最後の呼び方で、わたしは少し肩をすくめた。
様。
その響きは、まだ体に合わない。
椅子に座ると足は床につかない。
それなのに、紙の上では大人と同じ場所へ置かれている。
胸が少し縮んだ。
「ヴェルメル伯爵家より、書状をお預かりしています」
使者は革の筒を取り出した。
筒の口には赤い封蝋がついている。
丸い印には、細い蔦のような模様が彫られていた。
その手つきは、壊れた塔の部品を扱う父の手とはまるで違った。
汚れないように持つ手。
中身より先に、印を見せる手。
わたしの指先に、今朝の灰のざらつきが残っている気がした。
ベルマン氏が静かに言う。
「こちらへ来た理由は、信号塔の破壊ではありませんな」
「いいえ」
使者は短く答えた。
「この書状は、それより前に用意されたものです」
それを聞いて、わたしは少し息を吐いた。
今朝の破壊を、もう貴族が知っていたわけではない。
でも、安心はできなかった。
破壊の前から、別の場所で同じ問題を見ていた人がいる。
そういうことでもある。
◇◇◇
書状は、わたしの前に置かれた。
父がこちらを見る。
「開けるか」
前にも似たことがあった。
王都からの依頼状。
父はその時も、わたしに先に開けさせた。
けれど、今日の紙は少し違った。
王都の紙は、広い場所へ呼ぶ紙だった。
この紙は、どこか閉じた部屋の奥から出てきたように見える。
わたしは封蝋の端に指をかけた。
硬い。
十一歳の指では、思ったより力が要る。
父が何も言わず、小さな薄刃を差し出した。
わたしはそれを受け取り、封蝋を割った。
赤い欠片が机に落ちる。
折れた引き腕の横で、封蝋の欠片が小さく転がった。
(——壊すために割るもの)
(——開くために割るもの)
同じ「割る」でも、意味が違う。
紙を広げると、整った字が並んでいた。
『通信の秘密について、助言を乞う』
最初の一文を見て、胸の奥が少し鳴った。
秘密。
今朝、折れた塔の前で考えた言葉が、別の紙から返ってきた。
◇◇◇
書状には、こう書かれていた。
ヴェルメル伯爵家では、遠方の領地や王都の屋敷との間で、早い連絡を必要としていること。
封書は遅く、使者は道中で止められることがあること。
けれど、光の伝言は遠くから見えるため、見た者が意味を読めてしまうこと。
そして。
『決まった相手にしか読めない符号を、設計できるか』
わたしは、その行を二度読んだ。
決まった相手にしか読めない符号。
前世の言葉なら、すぐに浮かぶものがある。
暗号。
鍵。
平文。
復号。
でも、頭の中に浮かんだ言葉を、そのまま口に出しそうになって止めた。
(——言葉を先に出すと、仕組みが簡単に見える)
(——簡単じゃない)
秘密にするということは、誰かを守ることだ。
同時に、誰かから隠すことでもある。
ノラの字を他人に読ませないための秘密と、商人が損を隠すための秘密は違う。
貴族の家の秘密なら、もっと厄介なものが混じるかもしれない。
わたしは紙から目を上げた。
「これは、わたしだけで返事をしていいものではありません」
使者の眉が少し動いた。
「リナ様への依頼です」
「作るのは、たぶんわたしです。でも使うのは、わたしではありません」
父が黙って頷いた。
コルネリアさんの筆が、紙の上で止まる。
ベルマン氏は、目を細めていた。
◇◇◇
使者は、手袋の指先を揃えた。
「伯爵家は、十分な礼金を用意しています」
「お金の話だけではありません」
わたしの声は、思ったより硬かった。
使者の顔が、ほんの少し冷える。
父の手が、机の下でわたしの椅子の背に触れた。
止める手ではない。
倒れないようにする手だった。
わたしは息を吸う。
「誰に読ませたいのか。誰に読まれてはいけないのか。間違って読めなかった時、誰が困るのか。それを知らないと、考えられません」
使者はすぐには答えなかった。
コルネリアさんが、静かに言う。
「町の通信網を使う場合、町の規則にも関わります」
ベルマン氏も続けた。
「商人ギルドの経路を使うなら、料金と責任の置き場所も決める必要があります」
使者は、二人を順に見た。
貴族の使者が、町の役人と商人の言葉を聞いている。
その光景は、少し不思議だった。
前なら、こんな場面はなかったかもしれない。
光信号塔ができたから、町の机に貴族の封書が乗っている。
便利なものを作ると、遠い人まで近づいてくる。
近づいてくる人が、いつも優しいとは限らない。
◇◇◇
使者は革の筒から、もう一枚の薄い紙を取り出した。
「本日は、可否を問うだけと伺っています」
「可否」
「ヴェルメル卿は、詳細な条件を改めて書状にまとめる用意があります」
わたしは、折れた引き腕を見た。
今朝まで、わたしは光をどう守るかを考えていた。
午後には、光に何を隠すかを聞かれている。
順番が早すぎる。
でも、問題は待ってくれない。
(——また、積まれていく)
(——でも、今度は一人で抱えない)
「考えます」
わたしは言った。
「ただし、条件を聞いてからです」
使者は少しだけ目を伏せた。
「そのように、お伝えします」
赤い封蝋の欠片が、机の上で光った。
隣には、曲がった引き腕がある。
ひとつは、塔を折った朝のもの。
ひとつは、秘密を運んできた午後のもの。
どちらも、同じくらい動かしにくく見えた。
■あとがき・解説
第132話「貴族の使者」でした。
今回は、ヴェルメル伯爵家から「決まった相手にしか読めない符号」を作れるかという打診が届く回です。
前の話では、信号塔が物理的に壊されました。
今回はそこへ、見えてしまう通信をどう守るのかという依頼が外からやってきます。
リナはすぐに作りますとは言いません。
秘密にする仕組みは、誰を守るのか、誰から隠すのか、失敗した時に誰が困るのかを決めないと危ないからです。
■この話で出てきた言葉
■「通信の秘密」——読める相手を限ること
光信号は、遠くから見えるから役に立ちます。
しかし、見えるということは、見てはいけない人にも見えるということです。
そこで、光は見えても意味は決まった相手だけが読めるようにする発想が出てきます。
■「暗号」——意味を隠すための符号
暗号は、単なる格好いい秘密文字ではありません。
本来は「読んでいい人」と「読んではいけない人」を分けるための道具です。
この物語では、まだ方式の説明には入りません。
まずは、なぜ必要なのかを描いています。
■「条件」——作る前に決めること
リナがすぐに受けないのは、前世の設計者としての感覚でもあります。
何を守るのかが分からないまま仕組みを作ると、後で大きな失敗になります。
技術より先に、目的と責任を確認する必要があります。
次の話もお楽しみに。




