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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑥「世界が、見つける」

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131/211

第131話 信号塔、破壊される

夜明け前の町役所は、紙の匂いより油の匂いが強かった。


扉の外で、誰かが走る音がした。

革靴ではない。

土のついた靴底が、石の床を乱暴に叩いている。


コルネリアさんが顔を上げた。


「開けてください」


戸口の見張りが扉を開ける。

入ってきた男の肩は濡れていた。

青の月の朝露なのか、汗なのか分からない。


「街道の丘です」


その一言で、部屋の空気が変わった。


昨日、地図の上に石を置いた場所。

昨日、守りきれるかと考えた場所。


「塔が倒されています」


わたしは椅子から立とうとして、足が横木に引っかかった。

小さな音を立てて椅子が揺れる。


(——倒された)


(——傷じゃない)


父の手が、わたしの背に触れた。

押すのではなく、倒れないように支える手だった。


「行く」


父はそれだけ言った。


◇◇◇


街道の丘へ向かう道は、まだ薄暗かった。


麦畑の上に白い霧が浅く残っている。

馬の蹄が湿った土を踏むたび、草の匂いが立った。


わたしは父の前に乗せられていた。

体は小さい。

こういう時だけ、その小ささがはっきり分かる。

馬の揺れで胸が詰まり、手綱を握る父の腕に何度も肩が当たった。


(——走るのが遅い)


(——自分の足なら、もっと遅い)


前世のわたしなら、現場へ向かう途中で障害票を切り、影響範囲を並べていたかもしれない。

でも今は、馬の背で息をするだけで精いっぱいだった。


丘の上に着く前から、焦げた匂いがした。


火事の匂いではない。

油を含んだ布が、短く燃えた後の匂いだった。


ヤンさんが先に立っていた。

腕を組んでいない。

片手で、倒れた支柱の端を押さえていた。


「嬢ちゃん」


声が低かった。


「見るなら、足元から見ろ」


わたしは頷いた。

塔そのものを見上げる前に、足元を見る。


土に深い跡があった。

引きずった跡。

支え綱を切った跡。

それから、人の足跡がいくつも重なっていた。


重なりの端に、一つだけ見覚えのある形があった。


つま先が細く、踵の縁が深い。


白い線の朝にも、銅板の傷の朝にも、同じ足が立っていた。


(——三度目)


(——同じ足が、三度来た)


父がしゃがみ込み、切れた綱の端を拾った。


「刃物だ」


短い言葉だった。


「擦り切れたんじゃない」


ヤンさんが、切れた綱の端から目を上げた。


「黒い手だ」


「黒い手?」


「夜番どもが、いつからかそう呼んでる。顔も見せず、夜に来て、跡だけ残していく手だ」


名前のない相手は、怖い。

だから人は、捕まえるより先に呼び名を作る。


黒い手。


呼び名ができても、顔は見えないままだった。


◇◇◇


塔は、横へ折れていた。


完全に燃えたわけではない。

でも、灯り箱の片側は黒く焦げ、銅板は地面に落ちて歪んでいた。

光を返す面に泥がつき、朝の薄い光を鈍く弾いている。


遮蔽板は外れていた。

昨日のように止め木を外しただけではない。

軸受けごと割られている。


引き腕は、根元から曲がっていた。


わたしはそこに目を止めた。


手で引く場所。

布時計をつなぐ場所。

同じ光を出すために、父が何度も穴の位置を合わせた場所。


そこが、曲げられていた。


(——入口を狙っている)


(——見られたから、そこを壊された)


背中が冷たくなる。


便利だから揃えた。

手でも布時計でも使えるようにした。

誰が使っても同じ動きになるようにした。


だから、壊す方もそこを見ればいい。


父は引き腕を触らなかった。

触る前に、泥の上の跡を見ている。


「工具を使ったな」


「分かるのか」


ヤンさんが聞く。


父は曲がった金具の端を指した。


「石で叩けば、つぶれる。これは挟んで曲げている」


ベルマン氏が後ろで息を吐いた。


「作り方を聞いていた客が、壊し方まで覚えたわけですか」


ヤンさんの眉が動いた。


「同じ奴かは分からん」


「ええ」


ベルマン氏は頷いた。

その声は柔らかかったが、細い目は笑っていなかった。


「ですが、偶然で済ませるには手がきれいすぎます」


◇◇◇


コルネリアさんは、倒れた塔の横で記録板を開いた。


「昨夜、ここを通る通常伝言は停止中でした」


「急報は」


父が聞く。


「夜半に一件。町の入口から西側塔へ迂回しました。時間はかかりましたが、届いています」


時間はかかった。


その言葉が、小さく残った。


光ならすぐ届く。

でも線が折れれば、光は回り道をする。

回り道ができなければ、馬になる。


「見張りは」


ヤンさんが聞いた。


コルネリアさんは少し黙った。


「外周を回っていました。塔の足元に張り付く配置ではありません」


「昨日の決め方なら、そうなる」


ベルマン氏が言った。


誰も責めなかった。


責めても、切れた綱は戻らない。

折れた支柱も立たない。


ダンとニコは、丘の下にいた。

二人とも上まで来ようとして、ヤンさんに止められている。


「見せない方がいいですか」


わたしが聞くと、ヤンさんは首を横に振った。


「見るべきだ。だが、近すぎる」


ニコは両手で読み札を抱えていた。

ダンは腰の木札を握っている。

昨日は握っていなかった札を、今日は握っていた。


二人の顔が、朝霧の向こうで白く見えた。


(——塔が壊れただけじゃない)


(——あの二人の中の線も、切られかけている)


わたしは、何も言えなかった。


◇◇◇


父とヤンさんは、倒れた塔の部品を一つずつ見た。


灯り箱。

銅板。

遮蔽板。

引き腕。

布時計を入れる小箱。


小箱は空だった。


中身は置いていなかった。

通常伝言を止めていたから、布時計は町へ戻してある。


それでも、小箱の蓋は割られていた。

蓋の裏には、刃を入れたような短い傷が二本並んでいる。

探した跡ではない。

割ったと知らせるための傷に見えた。


ヤンさんが舌打ちした。


「空だと分かってても、割るか」


「見せるためでしょう」


ベルマン氏が言った。


「使えないようにした、というより、使うなと言っている」


風が丘を抜けた。

焦げた匂いが薄くなり、代わりに湿った土の匂いが戻ってくる。


でも、わたしの胸の中では匂いが残ったままだった。


コルネリアさんが筆を止める。


「街道の丘経由は、復旧まで停止します」


「迂回は」


「西側塔と町の入口を使います。ただし、急報優先。通常伝言は止めます」


通常伝言。


ノラの字。

ヨハンの返事。

商人の荷の知らせ。

火事ではないけれど、日々を少しだけ速くする光。


それが止まる。


「壊されたのは、一つの塔です」


コルネリアさんは言った。


「ですが、止まる伝言は一つではありません」


その通りだった。


塔は点に見える。

でも、点ではない。

そこを通る人の用事と、待つ人の時間が集まっている。


◇◇◇


父が折れた引き腕を布で包んだ。


「持ち帰る」


「直せますか」


わたしが聞く。


父はすぐには答えなかった。


「部品は作れる」


その言い方で、答えが分かった。


部品は作れる。

でも、それだけでは元に戻らない。


ヤンさんが、丘の下のダンとニコを見た。


「あいつらを戻すのは、部品より難しい」


ベルマン氏が小さく頷く。


「客も同じです。一度、届かないと思えば、次は馬を雇う。馬を雇えば、光の料金は払わない」


「金の話ですか」


コルネリアさんが聞いた。


ベルマン氏は静かに首を振った。


「信用の話です」


その言葉は、丘の上に低く残った。


信用。


光が届くと信じること。

送った人が本物だと信じること。

読んでいい人だけが読めると信じること。


一つ壊れると、全部が疑われる。


(——塔を直すだけでは足りない)


(——線を信じる理由を直さないと)


わたしは曲がった引き腕を見た。


そこは、手と布時計が同じように塔を動かすための入口だった。

今は、敵にとっても入口になっている。


「お父さん」


声が思ったより小さく出た。


父がこちらを見る。


「同じ入口は、必要です」


「ああ」


「でも、誰でも同じように使えるだけだと、壊す人にも分かります」


父は黙って聞いていた。


ヤンさんも、ベルマン氏も、コルネリアさんも口を挟まなかった。


「塔の外を守るだけじゃなくて」


わたしは、言葉を探した。


まだ道具にも紙にもなっていない。

符号表にも、覚書にも、木札にも書けない。


けれど、折れた引き腕が答えを急かしていた。


「光を使う人を、光の中で確かめる形が要ります」


風で、焦げた灯り箱の灰が少しだけ舞った。


その灰が、曲がった引き腕の上に落ちた。


■あとがき・解説


第131話「信号塔、破壊される」でした。


今回は、通信網そのものが攻撃対象になる回です。


前の話までは、見張りを増やすかどうかが問題でした。

けれど、主要な塔が壊されると、塔を直せば終わりではありません。

そこを通っていた伝言、待っていた人、信じていた仕事まで影響を受けます。


リナはここで、物理的な守りだけでは足りないとさらに強く感じます。

次の段階では、誰が送ったかを確かめることや、読んでいい相手だけが読めることが重要になっていきます。


■この話で出てきた言葉


■「主要地点」——線が集まる場所


通信網では、すべての場所が同じ重さではありません。

多くの伝言が通る場所や、ほかの道へつながる場所が壊れると、全体への影響が大きくなります。

今回の街道の丘は、まさにそういう場所です。


■「入口」——同じ使い方をするための接続点


リナたちは、手で動かす時も布時計をつなぐ時も、同じ引き腕を使えるようにしていました。

これは便利な標準化ですが、外から見れば狙いやすい場所にもなります。

便利さと守りは、いつも同時に考える必要があります。


■「信用」——届くと信じてもらうこと


通信は、光が届くだけでは成り立ちません。

使う人が「届く」「正しく届く」と信じてくれて初めて、料金を払い、仕事や生活に組み込みます。

塔の破壊は、木や金具だけでなく、その信用も傷つけます。


次の話もお楽しみに。


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