第130話 守りきれない
青の月の二十一日。
町役所の机の上には、地図と小石が並んでいた。
昨日よりも石が増えている。
街道の丘。
西側の道。
町の入口。
二番塔。
三番塔。
まだ何も起きていない場所にも、灰色の石が置かれていた。
「起きてから置くと、遅いですから」
コルネリアさんはそう言って、筆を置いた。
声はいつも通り静かだった。
けれど、目元の疲れは昨日より濃い。
わたしは椅子に座り、足先を横木に引っかけていた。
眠くはない。
でも、息が少し浅い。
(——見張ればいい)
(——増やせばいい)
(——本当に、それで足りる?)
昨日のダンの手が、頭から離れなかった。
木札を握りしめた手。
白くなった指の節。
薄い爪の跡。
地図の石より、そちらの方がずっと重かった。
◇◇◇
ベルマン氏が、細い棒で地図を指した。
「街道の丘に二人。西側の道に二人。町の入口に二人」
石が三つ動く。
「昨日の三点だけを見るなら、これで増やせます」
「それで足りるか」
父が聞いた。
ベルマン氏は、すぐには答えなかった。
代わりに、地図の外側へ小さな石をもう一つ置いた。
「次にこちらを狙われれば、足りません」
そこはヴェルデン道へ伸びる中継台だった。
前に火事のあった村へ続く道。
今はまだ何も起きていない場所。
「そこにも二人」
コルネリアさんが言う。
ベルマン氏は、さらに別の場所へ石を置いた。
「では、こちらにも」
「そこもですか」
「ここを傷つけられれば、南の荷道が止まります」
石が増える。
机の上で、かち、かちと乾いた音が重なった。
最初は小さかった石の列が、地図の上でだんだん太くなる。
守るための石なのに、見ていると地図が机へ沈んでいくようだった。
ヤンさんが腕を組んだまま言った。
「石は置ける」
「人は置けない、ですか」
わたしが聞くと、ヤンさんは頷いた。
「夜に立つ人間は、石じゃねぇ」
その言葉で、部屋が少し黙った。
◇◇◇
ダンとニコは、壁際に立っていた。
ダンの木札は腰に下がっている。
でも、昨日のように手では握っていない。
握っていないのに、指がときどき札の方へ動く。
ニコは読み札を胸の前で抱えていた。
肩の布は昨日と同じものだった。
押された場所を隠すように、少しだけ布の位置が高い。
「見張りが増えたら、俺たちは塔に上がらなくていいんですか」
ダンが聞いた。
声は乱暴ではなかった。
怒っているというより、答えを探している声だった。
ヤンさんが首を横に振る。
「塔に上がる奴は要る」
「でも、狙われるなら」
「狙われるから、要る」
ダンは口を閉じた。
その横で、ニコが小さく言った。
「見張る人が、見張られることもあります」
誰もすぐには返せなかった。
その通りだった。
塔を守る人を、誰が守るのか。
守る人を守る人を、さらに誰が守るのか。
(——再帰みたい)
そう思ってから、わたしはすぐに別の言葉へ直した。
(——見張りの見張りが、ずっと増えていく)
前世の言葉は、ここでは役に立たない。
でも、嫌な形だけは分かる。
守る対象を外側へ足していくと、終わりがない。
父が、机の端を指で一度叩いた。
「人は眠る」
短い言葉だった。
「夜に立てば、朝は鈍る。鈍れば見落とす。見落とせば、また人を増やしたくなる」
コルネリアさんが筆を止めた。
「それは、町の人員でも同じです」
ベルマン氏が頷く。
「商人ギルドの金でも同じです。払える額には限りがあります」
石はまだ机の上にあった。
誰も動かさない。
それでも、石が少しずつ足りなくなるのが分かった。
◇◇◇
コルネリアさんは、通信覚書の写しを開いた。
「では、当面は重要な塔だけを重点的に守ります」
「重要な塔」
わたしは地図を見る。
街道の丘。
西側塔。
町の入口。
線が集まる場所。
人が多い場所。
急報が通りやすい場所。
「重要ではない塔は、どうなりますか」
ニコが聞いた。
コルネリアさんは、少しだけ目を伏せた。
「見回りを減らします」
「そこを狙われたら」
「迂回できる場合は迂回します」
「できない場合は」
「馬を出します」
馬。
また、その言葉だった。
昨日も聞いた。
昔に戻るための言葉ではない。
でも、信号塔が止まった時に最後に残るものが、馬だった。
(——速い線を作ったのに)
(——守れないと、遅い道へ戻る)
それは悔しかった。
わたしは、手元の紙に小さな丸を描いた。
丸の中に、点を二つ打つ。
入口。
出口。
父がそれを見た。
「何を考えている」
「全部を見張るのは、無理だと思います」
自分で言って、胸が少し痛んだ。
でも、言わないと進まない。
「塔を隠すこともできません。光は見えるために出しています」
「そうだな」
父が頷いた。
「なら、見られても困らない形にしないといけない」
その言葉を出した瞬間、部屋の空気が少し変わった。
ベルマン氏が目を細める。
コルネリアさんの筆が止まる。
ヤンさんは黙ったまま、こちらを見た。
◇◇◇
「見られても困らない形、ですか」
コルネリアさんが聞いた。
「まだ、形にはなっていません」
わたしは慌てて首を横に振った。
「でも、昨日の妨害は三つありました。光を歪ませること。板の動きをずらすこと。人を怖がらせること」
「はい」
「それとは別に、前の偽急報があります」
赤い札。
空振りした応援。
正しく速く流れた嘘。
「あれは、誰が送ったか分からないことが問題でした」
父が短く言った。
「昨日は、正しい光が出る前に邪魔された」
「うん」
「偽急報は、正しい光で嘘を送った」
その整理で、頭の中の線が少しだけ分かれた。
正しい光を出すこと。
その光を誰が出したか分かること。
見られても、勝手に読まれないこと。
三つは同じではない。
(——壊されないこと)
(——なりすまされないこと)
(——盗み見されないこと)
言葉はまだ固かった。
でも、別々に置かないといけない気がした。
「リナさん」
コルネリアさんの声で、わたしは顔を上げた。
「今、何を分けましたか」
「えっと」
わたしは紙の丸を指で押さえた。
「塔を守ることと、送った人を確かめることと、読んでいい人だけが読むことです」
部屋の中が静かになった。
◇◇◇
ヤンさんが、ゆっくり息を吐いた。
「光は、隠せねぇ」
「はい」
「煙も隠せねぇ。鐘も隠せねぇ」
「はい」
「でも、誰の鐘かは分かる」
わたしは顔を上げた。
ヤンさんは窓の外を見ていた。
「村の鐘と、町の鐘は音が違う。火事の鐘と祭りの鐘も違う。間違えねぇように、鳴らし方がある」
「鳴らし方」
「ああ」
ヤンさんは、こちらを見た。
「光にも、そういうのが要るんじゃねぇか」
それは、答えではなかった。
でも、入り口だった。
誰かの鐘だと分かる鳴らし方。
勝手に真似しにくい形。
見えていても、意味を知らなければ読めない並び。
折った紙の端を、指が小さく押した。
まだ作れない。
今すぐ名前も付けられない。
けれど、道はそちらへ伸びている。
「今日、決められることではありません」
コルネリアさんが言った。
「ですが、次の課題として記録します」
筆が紙の上を走る。
塔の見張り。
発信者の確認。
読める相手の制限。
三つの言葉が、町役所の紙に並んだ。
◇◇◇
会議が終わる頃、窓の外の空は明るくなっていた。
青の月の朝の光が、役所の床に四角く落ちている。
地図の上の小石は、まだ片づけられていなかった。
ダンが、その一つを指でつついた。
「石は、俺たちの代わりにならねぇんだな」
「ならない」
ヤンさんが答える。
「でも、どこに立つかは教える」
ニコが小さく言った。
「立てない場所も、教えます」
その言葉で、わたしは地図を見直した。
守れる場所。
守れない場所。
見える光。
見えてはいけない意味。
全部が一枚の地図の上にあった。
わたしは、小さな丸を描いた紙を折った。
まだ答えではない。
ただの問いだ。
でも、その問いを持って帰らなければならない。
塔を全部は守れない。
なら、光の中に守りを入れなければならない。
その夜は、風が強かった。
屋根裏の窓から、街道の丘の方を見た。
夜番の灯りが、いつもと同じ場所で小さく揺れている。
いつもと同じ。
それを確かめてからでないと眠れなくなっている自分に、わたしは気付いた。
■あとがき・解説
第130話「守りきれない」でした。
今回は、見張りを増やすだけでは通信網を守りきれないと分かる回です。
人は石のように地図へ置けません。
夜に立つ人は眠り、疲れ、怖くもなります。
そして、見張る人をさらに見張る形にすると、守る範囲はどこまでも広がってしまいます。
リナはここで、塔を守ること、送った人を確かめること、読める相手を限ることを分け始めます。
本格的な仕組みはまだ先ですが、通信の守り方が次の段階へ進みます。
■この話で出てきた言葉
■「発信者の確認」——誰が送ったかを確かめること
偽急報の時に問題になった部分です。
光が正しく届いても、送った人が本物かどうか分からなければ、嘘も速く広がります。
■「読める相手の制限」——見えても意味を読ませないこと
光そのものは遠くから見える必要があります。
だから、光を隠すのではなく、意味を読める相手を限る発想が必要になります。
次の話もお楽しみに。




