第129話 観察から、妨害へ
青の月の二十日。
朝の道には、まだ夜の湿り気が残っていた。
荷車の車輪が泥を浅く切り、細い跡を街道の方へ伸ばしている。
わたしは父の少し後ろを歩いていた。
短い足で急ぐと、みぞおちのあたりが痛くなる。
それでも足を緩める気にはならなかった。
(——また、丘の塔)
(——昨日はお金の話だった)
(——今日は、何が起きたんだろう)
商人ギルドから来た使いは、細かいことを言わなかった。
ただ「街道の丘の塔で、また変なことが」とだけ伝えた。
その言い方が、かえって嫌だった。
壊れたなら、壊れたと言う。
燃えたなら、燃えたと言う。
変なこと。
その曖昧さが、小さな棘のように残っていた。
◇◇◇
塔の下には、ヤンさんが立っていた。
腕を組んでいる。
顔はいつもより険しい。
その足元に、磨いた銅板が一枚置かれていた。
光を返すために、父とグスタフ親方が何度も磨いた板だ。
昨日まで、昼の光を薄く映していた。
今は、その真ん中に白い傷が走っている。
「割れては、いない」
父が膝をついた。
太い指が、傷の上をなぞらずに止まる。
「石か」
「たぶんな」
ヤンさんが顎で地面を示した。
塔の脚の脇に、小さな石が二つ落ちている。
片方は泥に沈み、片方には銅の粉が少しだけ付いていた。
石のそばの泥に、足跡が残っていた。
つま先が細く、踵の縁が深い。
見覚えのある形だった。
一昨日、白い線と一緒に塔の脚を半円に回っていた足跡。
「同じ足だ」
ヤンさんが言った。
(——見に来た足が)
(——今度は、傷をつけに来た)
顔は見えない。
名前も分からない。
でも、足だけは、二度同じ場所に立っていた。
わたしは銅板を覗き込んだ。
鏡のように磨いた面が、傷のところだけ光を散らしている。
短い光と長い光を作る前に、光そのものが歪む。
(——灯り箱じゃない)
(——引き腕でもない)
(——光を返すところを、傷つけた)
壊し方が、乱暴なのに細かかった。
塔を倒すわけではない。
火をつけるわけでもない。
でも、このままでは遠くの塔で読みにくくなる。
読みにくい光は、間違った光に近い。
父が低く言った。
「今日は、この板では送らん」
「代えはあるか」
ヤンさんが聞く。
「ある。だが、ここには置いていない」
父の声は静かだった。
静かだから、余計に重かった。
◇◇◇
銅板だけではなかった。
塔の上に登った父が、すぐに呼んだ。
「リナ」
わたしは梯子を途中まで登り、父の手を借りて足場へ上がった。
高いところの風は、地面より少し冷たい。
下を見ると、膝の力が抜けそうになった。
でも、父の指が示した場所を見た瞬間、怖さの向きが変わった。
遮蔽板の横の止め木が、外れていた。
板そのものは残っている。
引き腕も折れていない。
でも、止め木がないせいで、遮蔽板は少しだけ余計に開く。
短く切ったつもりの光が、半端に伸びる。
長く出したつもりの光が、閉じる時に引っかかる。
「誰かが抜いた」
父が言った。
「落ちたんじゃないの」
わたしは聞いた。
聞きながら、違うと分かっていた。
父は足場の隅を指した。
そこに、止め木が一本置かれている。
落ちたのではない。
外して、そこへ置いたのだ。
(——使えば、壊れていると分かる)
(——でも、使う前には、気づきにくい)
胸の中が冷たくなった。
これは塔を倒す攻撃ではない。
間違った光を出させる攻撃だった。
父が止め木を拾い、差し直した。
「直せる」
「うん」
「だが、直せるからいいわけじゃない」
父の言葉に、わたしは頷いた。
ネジ一本。
止め木一本。
銅板の傷一本。
どれも小さい。
でも、小さいから見落とす。
小さいから、毎回全部を疑うことになる。
◇◇◇
塔を下りると、ベルマン氏が来ていた。
いつもの上等な服ではなく、裾を少し上げた歩きやすい格好だった。
額に薄く汗が浮いている。
「間に合いましたか」
「壊れてはいません」
父が答えた。
ベルマン氏は、銅板と止め木を順に見た。
細い目が、さらに細くなる。
「観察では、ありませんな」
その言葉で、空気が一段冷えた。
昨日までの足跡や白い線は、見るための跡だった。
今日の傷は、動きを鈍らせるための跡だった。
「見張りは」
父が聞く。
ベルマン氏は、首を横に振った。
「道の分かれ目に置きました。塔の真下ではありません。夜の間、誰も見なかったと」
「見張りがいても、抜けるか」
「ええ」
ベルマン氏は短く答えた。
「道を見る者は、塔の上までは見ません。塔を見る者は、道の奥までは見ません」
(——役割を分けた)
(——でも、分けた隙間がある)
前世で見た障害報告のようだった。
担当を分ければ、責任ははっきりする。
けれど、担当の境目には必ず隙間ができる。
そこを誰かが歩いている。
◇◇◇
昼前、ハーラム町へ戻る途中で、ダンとニコに会った。
二人は西側の道の端に立っていた。
ダンは木札を握っている。
ニコは、その横で口を結んでいた。
ヤンさんが先に気づいた。
「どうした」
ダンは、すぐには答えなかった。
大きな肩が、少しだけ縮んでいる。
「朝、町の手前で」
ニコが代わりに言った。
「知らない人に、ぶつかられました」
「ぶつかられた?」
「はい」
ニコは、自分の肩を押さえた。
押さえた指が、布の上で少し震えていた。
痛いのか。
怖いのか。
その両方なのか。
わたしには、すぐに分からなかった。
「塔に近づくな、と」
その場の音が消えたように感じた。
荷車の音も、町の入口の声も、遠くへ下がる。
ダンがようやく口を開いた。
「次に光を出したら、手を折るって」
太い手が、木札を握りしめていた。
指の節が白くなっている。
手の甲に、爪の跡が薄くついていた。
たぶん、ずっと握っていたのだ。
わたしは、何か言おうとして言葉を失った。
銅板の傷より、止め木より、その手の方が怖かった。
信号塔は直せる。
銅板も替えられる。
止め木も作れる。
でも、夜に立つ人が怖くなったら。
起動の紐に触る手が震えたら。
読む人が、読めた光を読めないふりをしたくなったら。
(——そこを狙うの)
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
ヤンさんがダンの前に立った。
「誰だ」
「分かんねぇ」
「顔は」
「帽子を深くかぶってた」
ダンの声は小さかった。
ヤンさんは舌打ちをしなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、ダンの握った木札を見て言った。
「今日は塔に上がるな」
ダンが顔を上げる。
「俺、逃げたみてぇじゃ」
「逃げろと言ってるんじゃねぇ」
ヤンさんの声は低かった。
「脅されたことを記録する。お前が黙ると、次に脅されたやつが一人になる」
ダンの口が、少しだけ開いた。
ニコが小さく頷いた。
「記録、します」
「ああ」
ヤンさんは言った。
「今日は、それが仕事だ」
◇◇◇
町役所の机の上に、三つの印が並んだ。
銅板の傷。
遮蔽板の止め木。
信号士見習いへの脅し。
コルネリアさんは、一つずつ書き取った。
筆の音が、乾いた紙の上を走る。
「これは、事故ではありません」
「はい」
わたしは頷いた。
「信号塔への妨害として記録します。通常伝言は、街道の丘を通す分だけ一時停止。急報は、別の塔を使える場合のみ迂回。使えない場合は、馬を出します」
馬。
その言葉が、妙に古く聞こえた。
少し前まで、それが当たり前だったのに。
コルネリアさんは顔を上げた。
「リナさん」
「はい」
「速い仕組みは、止められた時も速く影響が出ます」
その通りだった。
線がつながったから、一本傷つけば遠くまで止まる。
人がつながったから、一人脅されれば他の人も怯える。
ベルマン氏が、地図の端に小さな石を三つ置いた。
街道の丘。
西側の道。
町の入口。
「三つです」
ベルマン氏は言った。
「同じ朝に」
父が地図を見た。
「手が足りんな」
誰も、すぐには答えなかった。
見張りを増やした。
名簿も作った。
記録も残した。
それでも、三つの石は地図の上に残っている。
わたしは、その石を見つめた。
石は小さい。
でも、小さい石が三つ置かれただけで、地図の線が少し暗く見えた。
(——見られている、だけじゃない)
(——削られている)
光を通すために作った線が、誰かの手で少しずつ曇らされている。
わたしの手のひらに、汗がにじんだ。
今はまだ、塔は立っている。
でも、塔が立っているだけでは、通信網は守れない。
■あとがき・解説
第129話「観察から、妨害へ」でした。
今回は、信号塔網への攻撃が一段進みました。
塔を倒すような大きな破壊ではありません。
銅板を傷つける、止め木を外す、信号士見習いを脅す。
どれも小さい出来事です。
けれど、小さいからこそ見落としやすく、毎回すべてを疑うことになります。
■この話で出てきた言葉
■「妨害」——壊す前に、正しく動かなくすること
完全に破壊しなくても、通信網は弱らせることができます。
光を歪ませる。
板の動きをずらす。
人の手を怖がらせる。
今回は、そうした「直せるけれど削られる」攻撃を描きました。
■「役割の隙間」——分担した場所の境目
塔番は塔を見る。
道の見張りは道を見る。
役割を分けることは大切ですが、分けた境目には隙間も生まれます。
誰かがそこを狙い始めたことが、この話で見えてきます。
次の話もお楽しみに。




