第13話 父の認識
萌の月の半ばに入った。
季節はようやく春が深まりつつあった。
朝晩はまだひんやりするけれど、昼間は薄いシャツでも汗ばむくらい。
村の畑では麦が穂を伸ばし始めていた。
わたしは父のために二つ目の「計算珠盤」を作っていた。
父はそう、わたしの作ったあの道具を呼んでくれた。
計算珠盤、計算盤、計算機——どれもしっくり来なかったから暫定的に「珠盤」と呼ぶことにした。
二つ目は慎重に作った。
枠の木材は父が工房の余りからわたしに分けてくれた。
珠は父が時計の軸用に整えた正確な真鍮の小玉を十数個。
軸は針金。
全体に塗装も施した。
父がニスを薄く伸ばす方法を教えてくれた。
「ここはもう少し削れ」
「うん」
「いや、もっと薄く」
「うん」
父の隣に座ってわたしは何度もやすりをかけた。
細かい木屑が舞った。
◇◇◇
何時間か経った頃、父はわたしの手を止めた。
「リナ」
「うん」
「もう十分だ。これで仕上げる」
そう言って父は二つ目の珠盤をゆっくりと組み立て始めた。
枠に軸を通す。
軸に珠を通す。
両端を固定する。
父の手は迷いなく動いた。
最初の一つをわたしが何日もかけて何度も失敗しながら作ったのに比べて、
父の手にかかるとわずか一時間でそれはきれいに組み上がった。
(……速い)
(うますぎる)
(——プロの仕事ってこういうことなんだ)
わたしは黙って父の手を見ていた。
何時間でも見ていられた。
◇◇◇
工房の窓から夕方の光が差し込んできた。
父はようやく作業の手を止めて、完成した二つ目の珠盤をわたしに渡してくれた。
最初のものよりもずっと滑らかだった。
真鍮の珠はしっとりとした手触りで、軸の上をすーっと動く。
「……すごい」
わたしはそれしか言えなかった。
「気に入ったか」
「うん。……ありがとう、お父さん」
父は黙って自分の作業椅子に深く腰を下ろした。
それから低い声でゆっくりと言った。
「リナ」
「うん」
「お前はなぜこれを思いついた」
——その質問は来ると思っていた。
(……どう答えよう)
頭の中でわたしはしばらく悩んだ。
「前世の記憶があって、そこで似た道具を見たことがあるから」と言うのが本当のところ。
でもそれは八歳児として不自然すぎる。
父にいきなり「実はわたしは前世が……」と打ち明けるのもまだ早い。
——でも嘘もつきたくなかった。
そこでわたしは慎重に言葉を選んだ。
「……夢で見た」
「夢?」
「うん。何回も見た。歯車と珠と糸の夢」
——半分嘘、半分本当。
前世の記憶は確かに夢のようにふっと出てくる。
父はしばらくわたしを見つめた。
それからもう一度わたしの作った最初の珠盤を手に取った。
「……夢か」
「うん」
「夢でこんなにはっきりした設計を見るのか」
「……うん」
父は深く息を吐いた。
それから自分の作業台の引き出しを開けて何かを取り出した。
それは小さな木の板だった。
表面に細かい線が刻まれている。
「これ、お父さんの?」
「ああ。十二歳の頃、俺が初めて自分で設計した時計の図面だ」
「……えっ」
(……十二歳?)
(——お父さん、十二歳で時計の設計してたの?)
「俺の父——お前の祖父も時計師だった。だが俺はその頃、夢でよく見た。時計の動く仕組みを。歯車の噛み合わせを」
父の指が板の上をなぞった。
「夢で何度も見た。それを起きてから紙に書き出した。父はそれを見て笑った。『お前は不思議な子だ』と」
——え。
わたしは息を吸い込んだ。
「お父さんも夢で見たの?」
「ああ」
「同じ……?」
「いや。お前のとはたぶん違うものだ」
父はわずかに口角を上げた。
「だが、夢で何かを見るというのは分かる。それを自分の手で形にしたくなる気持ちも分かる」
そう言って父はその古い板をわたしの前に置いた。
「お前は不思議な子だ」
——あ、
(——同じ言葉)
(——でも、ここから先は出してはいけない)
「だがな、リナ」
「うん」
「不思議だというのは悪い意味ではない」
父の目がわたしをまっすぐ見つめた。
「俺は職人だ。物心ついた頃から、長く時計と向き合ってきた。お前の作ったものは八歳児が思いつきで作ったものではない。それは分かる」
「……」
「だからこれからもお前の見る『夢』は大事にしなさい」
——わたしは目の奥がまた熱くなった。
(……だめ。また泣く)
(——父さん。父さんは知らないんだ)
(——わたしの「夢」は本当に前世なんだ)
(——でもたぶん、それはいつか話せる。今日じゃない)
わたしは無言で頷いた。
父はもう何も言わなかった。
ただ自分の作業台に向き直って次の修理を始めた。
カチ、と極細のドライバーがまた動き始めた。
わたしはその背中をずっと見ていた。
胸の奥には温かいような寂しいような複雑な感覚がずっと残っていた。
——だけどそれは悪くなかった。
たぶんわたしは今、生まれて初めて父というものを心から誇りに思っていた。
■あとがき・解説
第13話は技術用語がほとんど出てこない、父と娘の静かなお話でした。
代わりに少しだけ、この回のテーマと、書き手として大事にした感覚について、書き残しておきます。
■この話で起きたこと
■「お前は不思議な子だ」という言葉
この回でいちばん大事な言葉は、父アルベルトの「お前は不思議な子だ」でした。
そしてその同じ言葉を、かつて父アルベルト自身が彼の父——リナにとっての祖父——から言われていた、という事実。
「不思議な子」というのは、なかなか難しい言葉です。
褒め言葉のようでもあるし、ちょっと距離を置く響きもある。
それを言われた子供の胸には、「自分は周りと少し違うのかもしれない」というかすかな感覚が残ります。
リナの場合は、本当に違いました。中身が前世のエンジニアなのですから。
だけど父アルベルトもまた、自分の幼少期に「夢で何度も歯車の噛み合わせを見た」と言いました。
幼い頃に、自分の手で何かを作りたくて仕方なかった人間が、もうひとり同じ家にいた。
それは、リナにとってたぶん大きな救いになる事実です。
■「夢で見た」という半分嘘、半分本当
リナは父に「これをどうやって思いついた?」と問われて、しばらく悩んでから「夢で見た」と答えました。
これは半分嘘、半分本当の答えです。
前世の記憶は、彼女の中でたしかに「思い出すたびにどこか夢の続きのような感触」を持っているはず。
だから完全な嘘ではない。だけど完全な本当でもない。
リナが家族との間に引いた、最初の細い線でした。
■「家族に認められる」ということ
魔力測定の日、リナは「魔力なき者」と判定されました。
そのとき彼女は、村の中で確かに線を引かれてしまった。
だけど第13話で、父アルベルトが古い木の板——彼自身の十二歳の頃の図面——をリナの前に置いたあの場面。
あれは、線を引き返してくれる瞬間でした。
「お前はこちら側だ」と、父が静かに伝えてくれた瞬間。
家族に認められる、というのは、たぶん人間の根っこにある欲しさのひとつです。
特に、村の他の子供たちと違う線を引かれてしまった子にとって、それは何より重い意味を持ちます。
リナが父の背中をずっと見ながら、胸の奥に温かいような寂しいような感覚を抱えていたあの場面で、彼女は生まれて初めて「父というものを誇りに思った」と書きました。
それは技術ではなく、人の心の話。
だけどこの物語が長く続くために、たぶん必要な一枚の床でした。
辛い場面の多かったここまでの話に比べて、第13話は穏やかな夕方の工房の話になりました。
次の話もお楽しみに。




