第12話 計算尺の原型
それから三日かけて、わたしはようやくそれを完成させた。
寝床の片隅で夜な夜なこつこつと組み立ててきた小さな道具。
横十五センチほどの薄い木の枠。
中に二本の細い枝が平行に並んでいる。
それぞれの枝には父からもらった小さな円盤が十枚ずつ通されている。
「珠」を左へ寄せたり右へ寄せたりすることで数を表す。
一の位と十の位、二桁だけ。
——前世のそろばんの、さらに簡易版の試作一号。
(これでいけるはず)
何度も試して確かめてようやく確信が持てた。
枠は少し歪んでいて、珠の動きも渋い。
桁上がりは仕組みとして組み込めていないから、説明しながら手で補ってやる必要がある。
それでも、二桁の足し算ならこれで誰でも紙とペンより速くできる。
村の市場で村人がお金を計算するときのよくある手間。
あれをこれで軽くできるはずだ。
(——披露しよう)
そう決めた。
◇◇◇
朝食の席でわたしは思い切ってそれを家族の前に置いた。
「……お父さん、お母さん、お兄ちゃん」
「あらリナ、なあに、これ」
エマが目を丸くした。
「あの、計算する道具」
「計算?」
ヨハンが身を乗り出した。
「計算って、お金の計算とか? 学校でたまにやるやつ?」
「うん」
父アルベルトはわたしの作ったその「道具」をじっと見ていた。
何も言わない。
でもその目は明らかに何かを「探って」いた。
——たぶん今、父の頭の中で構造の解析が始まっている。
(——お父さん、技術者だもんね。分かるよね)
「リナ、見せて? どう使うの?」
エマが興味津々で身を乗り出した。
わたしは深く息を吸ってこくりと頷いた。
◇◇◇
「えっと、たとえばお母さん」
「うん」
「『三十四に二十三を足す』って言ってくれる?」
「三十四に二十三を足す? うーん……ええっと、暗算するのちょっと時間がかかるわね」
「うん。そのためにこれを使う」
わたしはまず十の位の枝で玉を三つ右に寄せた。
次に一の位の枝で玉を四つ右に寄せた。
「これで三十四」
「あら、なるほど?」
そこに二十三を「足す」。
一の位の枝で玉をさらに三つ右に寄せた。
今、一の位は七つ。
それから十の位の枝で玉をさらに二つ右に寄せた。
十の位は五つ。
「これで、十の位が五つで、一の位が七つ」
エマがじっとわたしの指を追いかけていた。
「えーと答えは、五十と七」
「……五十七」
エマがゆっくりとわたしの答えを言葉に直してくれた。
「……正解ね」
エマが目を丸くしたままわたしを見つめた。
ヨハンも口を開けたままわたしを見ていた。
そして父アルベルトは——
腕を組んでわたしの作った道具をじっと見つめていた。
◇◇◇
「リナ」
父の低い声がテーブルに響いた。
「うん」
「これ、お前、自分で考えたのか」
「えっと……」
(……どう答えよう)
(完全に自分で考えたわけじゃない。前世の知識がベース)
(けどここで「前世の」と言うわけにはいかない)
「えーと、お父さんの工房で歯車を見ててその、思いついた」
——半分嘘、半分本当。
父の工房で歯車比に気付いたのは事実。だけどそろばんの原理は前世の記憶。
父はそれ以上追及しなかった。
ただもう一度わたしの「道具」を手に取って、じっくり眺めた。
「……これは」
「うん」
「これは街の商人が欲しがる」
え、とわたしは口をぽかんと開けた。
「商人?」
「ああ。市場でお金の計算をする職人や商人はいつも紙とペンを使ってる。慣れてる者は速いが、慣れてない者は何度も間違える。だがこれがあれば——」
父はもう一度玉を一つ指で動かした。
カラと軽い音がした。
「これがあれば、慣れてない者でもある程度正確に計算できる」
——え。
(——お父さん、その分析、速くない?)
わたしは思わず父の顔を見た。
父はわたしが知っているいつもの寡黙な父だった。
ただ目だけがいつもより少しだけ明るく見えた。
「リナ」
「うん」
「これ、もう一個作ってくれ。今度はもう少し丁寧に」
「もう一個?」
「ああ。職人ギルドの知り合いに見せたい」
——え。
(——ええ、え、え)
頭の中で何かがばらばらと駆け出した。
(……職人ギルド)
(……街の商人)
(……外の世界)
(——外に出るの? わたしのこれが?)
エマが隣で笑っていた。
「お父さん、リナはまだ八歳よ」
「分かっている。出来はまだ粗い。だが——考え方は、大人のものだ」
父の手がもう一度わたしの作った道具を軽く撫でた。
「お前は不思議な子だな」
そう言って父はようやくふっと笑った。
わたしは答えられなかった。
ただ顔を真っ赤にしてこくこくと頷いた。
(やった、やった、やった)
(動いた。認められた)
——「魔力なき者」のわたしが、
——「眼」で読むことしかできないと思っていたわたしが、
(——わたしの手でものを作って、それが認められた)
胸の奥がまた激しく爆ぜていた。
ヨハンがわたしの肩をぽんと軽く叩いた。
「リナ、お前本当に何かをするんだな」
その言葉は数日前、井戸からの帰り道で聞いたものと似ているようで少しだけ違った。
今度のそれは確信に近かった。
■あとがき・解説
第12話は、リナが作り上げた最初の「道具」が、ついに家族の前で披露される回でした。
作中で「計算珠盤」と呼ばれることになるあの道具。
実はあれ、わたしたちの世界にもよく似たものが昔から存在します。
今回はその話をさせてください。
■この話で出てきた言葉
■「そろばん/計算珠盤」
そろばんは、棒に通った珠を指で動かすことで計算をする道具です。
今でも日本のあちこちで使われていますし、「そろばん教室」に通った経験のある方も多いかもしれません。
発祥はとても古く、何千年も前の中国や中東にまでさかのぼると言われています。
電気を使わず、機械の歯車も使わず、ただ珠と棒だけで足し算・引き算・かけ算・割り算ができてしまう、人類の発明品の中でもかなり優秀なものです。
リナが朝食の席で家族の前にぽんと置いたあの道具——四本の枝にそれぞれ十個の珠が通った、横二十センチほどの板。
あれはまさに、簡易版そろばんの再発明でした。
一の位、十の位、百の位、千の位。位ごとに珠を寄せていけば、暗算では時間のかかる「七十五に四十二を足す」がすっと出てきます。
■「アナログ計算機」
第4話の後書きでも少し触れた言葉ですが、改めて。
「アナログ」というのは、滑らかに連続して変化するものを扱う、という意味の言葉です。
歯車の回転、振り子の揺れ、水位の上下、棒の傾き——こうした連続した動きをそのまま「数」として読み取る計算機を、アナログ計算機と呼びます。
そろばんは実はちょっと違って、珠の位置が「ここか、向こうか」のどちらかしかない、いわば段階を踏んだ計算機です。これはこれで「デジタル」と呼ばれます。
ただし、電気を使わず手で動かす、という意味では、そろばんもアナログ計算機の仲間として扱われることがあります。
リナの作った珠盤も、電気のないこの世界では立派な計算機。電気がなくても、人間の指と簡単な部品さえあれば、計算は十分に速くなる——というのは、ものすごく大事な発見です。
■「無駄がない」ということ
父アルベルトが珠盤を見て「これは慣れてない者でもある程度正確に計算できる」と評したあの場面。
道具を作るときに大事なのは、それを使う人が、難しいことを学ばずに正しい結果にたどり着けるかということです。
珠を寄せるだけで計算ができる仕組みは、計算が苦手な人でも結果を出せるようにしてくれます。
人の能力の差を、道具が肩代わりしてくれる。これは技術の本質のひとつです。
そして、いちばん大事だったのは父アルベルトの一言でした。
「これは街の商人が欲しがる」
リナの作った道具が、家族の中だけでなく外の世界で価値を持つかもしれない、と父が見抜いた瞬間。
八歳児のリナの中で、何かがばらばらと駆け出していくのを感じました。
職人ギルド、街の商人——
彼女がまだ見たこともない言葉が、急に手の届くところに浮かび始めた回でもあります。
次の話もお楽しみに。




