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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑥「世界が、見つける」

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116/211

第116話 初めての急報

赤い縁の札だけが、裏返しに置かれていた。


集会所ではなく、古い狼煙台の脇だった。

夕方の草はまだ湿っていて、靴の底に土がつく。


灯り箱は三本脚の台の上に載っている。

前には遮蔽板。

横からは、操作紐が一本垂れていた。


昨日まで机の上で動かしていた白い木片ではない。

今日は本物の光が出る。


それでも、赤い札は伏せたままだった。


「急報札は、空へ出さん」


村長ハインリヒが言った。


杖の先で、草を一度押す。

その音が妙に硬く聞こえた。


「町役所には、まだ急報には使わぬと届けてある」


コルネリアさんの顔が浮かぶ。

筆の先。

帳面。

返答の有無。


(——速いものは、間違いも速く運ぶ)


あの時、自分で言った言葉だった。


だから今日は、急報札を見せるだけ。

火。

けが人。

助け。


字が読める人が記録し、ダンとニコは読み札で短長と間を追う。

空に出すのは、練習用の短い符号だけ。


そのはずだった。


◇◇◇


ダンは操作紐の前に立っていた。


昨日より背中が固い。

力仕事なら慣れているはずなのに、細い紐を持つ手だけがぎこちない。


「引きすぎるな」


父が横から言う。


「印のところまでだ。戻す時は、手を離すな。閉じたのを見てから緩める」


「分かってる」


ダンはそう言った。

でも、親指は何度も紐の結び目を探していた。


ニコは横の木箱に座って、読み札を膝の上に置いている。

土のついた爪の先に、昨日の白い粉がまだ少し残っていた。


「ニコ」


わたしが声をかける。


「間を見てください。光が出ている時だけじゃなくて、消えているところも」


ニコは頷いた。


「種の間」


「はい。近い間と、遠い間です」


ダンが横目で見た。


「お前、本当に種で読むんだな」


「字で読むより、間違えないから」


ニコは少しむっとして答えた。


その言い方に、昨日より小さな芯があった。


◇◇◇


最初の練習は、短い光を二つだけだった。


父が火皿を灯り箱の奥へ入れる。

油を吸った芯に火が移り、箱の中が淡く明るくなった。


まだ空は完全には暗くない。

雷の月の夕方は、雲の下だけが赤く残る。


ヤンさんのいる西の狼煙台には、見えるか見えないかの小さな点があった。

向こうもこちらを見ている。


「始めるぞ」


父が言った。


ダンが紐を引く。


光が出る。

すぐ閉じる。


「短い」


ニコが言った。


もう一度。


「短い」


「間」


わたしが言う前に、ニコが続けた。


ダンの手が少し止まる。


「まだか」


「まだ」


ニコは空を見たまま答える。


少し待ってから、父が頷いた。


「よし」


ダンが息を吐いた。


たった二つの短い光。

それだけで、操作紐を持つ手に汗がにじんでいた。


(——これが本番なら、もっと速くしたくなる)


(——でも、急ぐほど間が消える)


速く送ることと、正しく届くことは同じではない。


◇◇◇


丘の下から、足音が上がってきた。


最初は、誰かが見物に来たのだと思った。

けれど、その足音は途中で一度も緩まなかった。


草を踏む音。

息を切らす音。

革靴が土を滑る音。


上がってきた男の人は、肩で息をしていた。

袖に黒い煤がついている。

顔にも、雨ではない黒い筋があった。


「グレンフィールドの村長は」


声がかすれていた。


ハインリヒが一歩前へ出る。


「わしじゃ」


「ヴェルデンで火が出た。納屋だ。風で、隣の家に移る」


その場の空気が変わった。


灯り箱の火が、急に大きく見えた。


「町へ、知らせたい。走っても間に合わん」


男の人は膝に手をついた。

息の間に、焦げた匂いが混じっている。


ヴェルデン村。

マルゲルダさんの村だ。


胸の奥が冷たくなる。


◇◇◇


誰も赤い札に触らなかった。


触れれば、約束を破ることになる。

急報にはまだ使わない。

町側の規則に載せる前に、勝手に光を走らせない。


全部、正しい。


でも、正しいままでは火は待ってくれない。


ハインリヒは、伏せてある赤い札を見下ろした。


それから、ゆっくりとわたしを見た。


「リナ嬢ちゃん」


「はい」


「送れるか」


口の中が乾いた。


送れる。

たぶん。


でも、わたしが送れば早い。

わたしが読んで、わたしが数えれば、間違いは少ない。


そう思った瞬間、昨日の帳面が頭に浮かんだ。


読む。

送る。

書く。


(——ここでわたしが全部やったら)


(——信号士は育たない)


わたしは小さく息を吸った。


「わたしが手を出せば、送れます」


父がこちらを見た。


ハインリヒも黙っている。


「でも、信号士として送るなら、ダンさんが引きます。ニコが間を見ます。わたしは横で札を渡します」


ダンが紐を握り直した。


「俺か」


「あなたが送る人です」


ニコの膝の上で、読み札がかすかに鳴った。


「僕は」


「読む人です」


ニコは唇を結んだ。


ハインリヒが赤い札を表に返す。


火。

ヴェルデン。

助け。


三枚だけ。


「記録はわしが取る」


村長は短く言った。


「町へ問われたら、村長ハインリヒの責任で送ったと書け」


父が灯り箱の蓋を確かめる。


「始める」


その声に、全員の肩がそろって動いた。


◇◇◇


最初の札は、火だった。


短い。

長い。

短い。


父が札をわたしに渡し、わたしはダンの横へ置く。

ニコが読み札の溝を指で追った。


「短い。長い。短い」


ダンが紐を引く。


光が出る。

消える。


「間」


ニコが言う。


ダンの手が少し急いだ。


「まだ」


ニコの声が、今度ははっきりした。


ダンは歯を食いしばるようにして待った。


「今」


長い光。


消える。


「間」


最後の短い光が出た。


丘の上にいる全員が、同じ方向を見ていた。


次は、ヴェルデン。


長い。

短い。

短い。

間。

長い。


昨日までなら、ニコは途中で止まったかもしれない。

でも、今は読み札を指で押さえながら、小さな声で数えている。


「近い。近い。遠い」


畑の言葉だ。


でも、それでいい。


符号は、届けばいい。


最後は、助け。


ダンの額に汗が浮いている。

夜の風は冷たいのに、首筋だけが濡れていた。


「短い」


ニコが言う。


「長い」


「間」


「短い」


光が閉じる。


丘の上から、急報が出ていった。


◇◇◇


待つ時間は、練習の時より長く感じた。


ヤンさんの狼煙台の光は、小さく揺れていた。

読めているのか。

間違えたのか。

火の札が、別の札に見えたのか。


わたしは唇を噛んだ。


手を出さなかった。

それでよかったのか。


その答えが出る前に、遠い光が一度消えた。


また点く。


短い。

長い。

短い。


火。


ヤンさんが、同じ急報を町へ送り直している。


「読んだ」


父が言った。


ダンの肩が落ちそうになる。

でも、まだ終わっていない。


町の方角に、小さな光が生まれた。


短い。

短い。


受けた。


続けて、長い光が一つ。


出る。


ハインリヒが息を吐いた。


「町が受けた。人を出す」


記録板に、筆が走る。


日付。

時刻。

送り元。

内容。

操作者。


そこに、ダンの名前とニコの名前が書かれた。


◇◇◇


ヴェルデンの男の人は、その場に座り込んでいた。


膝に置いた手が震えている。

たぶん走りすぎたせいだけではない。


「今ので、町へ」


「届いた」


ハインリヒが答えた。


「町が人を出す」


男の人は顔を上げた。

煤のついた頬に、汗の筋が一本通っている。


「……走るより、早い」


その言葉が、丘の上に落ちた。


ダンは操作紐を見ていた。

さっきまで握っていた細い紐だ。


「俺が、送ったのか」


誰も笑わなかった。


父が短く頷く。


「送った」


ニコは読み札を胸の前で持っていた。

指先が赤い縁の札に触れている。


「僕が、間を止めた」


「止めたんじゃない」


わたしは言った。


「守ったんです」


ニコがこちらを見る。


「間がなかったら、別の言葉になっていました」


ニコは何か言いかけて、やめた。


それから、読み札をもう一度見た。


土のついた指。

白い粉。

赤い縁の札についた、ほんの少しの煤。


町の方角で、また光が点いた。

短く一度だけ。


ヤンさんからの終わりの合図だった。


ハインリヒは記録板を閉じた。


「今日は訓練ではなくなった」


誰も答えない。


村長は、ダンとニコを見た。


「仕事をした。そう書く」


ダンの手が、操作紐から離れた。

ニコの指は、まだ赤い札の端を押さえている。


風が丘の草を揺らした。


遠くの闇の向こうで、誰かが動き始めている。

その最初の一押しが、今ここにある細い紐と、煤のついた札から出ていった。


■あとがき・解説


第116話は、信号士見習いたちが初めて実用の急報を送る回でした。


前回までは、机上の練習と職能名の話でした。

今回は、その訓練が実際に人を動かします。


ただし、新しい装置や新しい魔法を足したわけではありません。

既にある灯り箱、遮蔽板、符号表、読み札を使っています。


■この話で出てきた言葉


■「急報札」——定型化された短い知らせ


急ぎの場面では、長い文章を送る余裕がありません。


そこで使うのが、火、けが人、助け、場所のような短い定型札です。

自由な文章ではなく、決まった意味だけを送ることで、読む側の負担を下げています。


■「間を守る」——速さより正確さ


急いでいる時ほど、符号は崩れます。

短い光と長い光だけでなく、消えている間も意味の一部です。


ニコがしたのは、光を出すことではありません。

急ぎたいダンの手を、正しい間で待たせることでした。


それも信号士の仕事です。


■「仕事をした」——見習いから実績へ


ダンは紐を引き、ニコは間を読みました。

村長はその名前を記録に残しました。


この一行が、信号士という職能を少しだけ現実に近づけます。


次の話もお楽しみに。


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