第114話 読める、ということ
集会所の机に、木札が一枚置かれていた。
昨日、コルネリアさんが押してくれた町の印だ。
墨はもう乾いているのに、わたしにはまだ少し湿って見えた。
その横に、父が符号表を広げる。
短い線。
長い線。
小さな間。
少し大きな間。
紙の上では、どれも静かだった。
(——光にすれば動く)
(——でも、人が読めなければ止まる)
町の仮許可は、塔だけを許したものではなかった。
送る人の名前。
記録する人の名前。
それがなければ、町の規則には載せられない。
父は紙の端を指で押さえた。
「村長が、人を呼ぶ」
「読み書きできる人ですか」
「まずは、そうだ」
まずは。
その言い方が、少しだけ引っかかった。
◇◇◇
朝の鐘が鳴ってしばらくすると、集会所に若い人たちが集まってきた。
村長ハインリヒは入口に立ち、一人ずつ名前を聞いていた。
手に持った板に、短く印をつけていく。
来たのは、全部で七人だった。
麦の帳面を手伝っている人。
教会で祭礼の札を読む人。
商人の荷札を読める人。
それから、字は少しだけなら分かるという人。
わたしは、その数を見て思った。
(——少ない)
村には若い人がもっといる。
でも、読み書きができるだけでは足りない。
昼に時間を空けられて、町の規則に名前を出していい人となると、急に少なくなる。
椅子に座った人たちも、どこか落ち着かなかった。
信号塔を動かす、と聞いて来たのに、机の上にあるのは光る道具ではなく紙ばかりだ。
ハインリヒが咳払いをした。
「今日は、塔を動かす話ではない」
七人の顔が、少しだけ残念そうになる。
「塔を動かす前に、読めるかどうかを見る」
村長の声は落ち着いていた。
でも、言われた方は余計に硬くなった。
読む。
その一言が、思ったより重い。
◇◇◇
父が、符号表を机の上に置いた。
「これは字ではない」
そう言ってから、少し考えて付け足す。
「だが、字の代わりに使う印だ」
一人の若者が手を上げた。
「普通の字を送るんじゃないんですか」
「そのまま送ると長い」
わたしが答えた。
「よく使う音を短くしています。短い光と長い光、それから間の大きさで読みます」
説明しながら、机の上の木片を取った。
ヤンさんに渡した読み札と同じ形のものだ。
浅い溝が短い線。
深い溝が長い線。
溝の間が、短い間と長い間に分かれている。
「目で読むだけじゃなくて、指でも追えます」
木片を一人ずつ回す。
最初の若者は、すぐに頷いた。
教会の札を読む人だ。
「これなら、印として覚えられそうです」
次の人も頷いた。
三人目は、溝を指でなぞりながら眉を寄せた。
「短いのと長いのは分かる。けど、間ってどれだ」
わたしは木片を指した。
「ここです。光が続くところと、光が切れるところを分けます」
「光が消えてる間も読むのか」
「はい」
その言葉で、何人かが黙った。
光っているところだけを見ると思っていたのかもしれない。
でも、符号は光だけではない。
消えている時間も、文字の一部だ。
(——空白も、意味を持つ)
前世で何度も見た。
同じ文字でも、区切る場所が違えば別の命令になる。
空白を一つ間違えただけで、思った通りに動かないことがある。
ここでも同じだった。
短い光。
長い光。
短い間。
文字の間。
言葉の間。
読める、というのは、光っているものを見るだけでは足りない。
◇◇◇
最初の練習は、「げんき」だった。
これはもう、村の丘から町へ送ったことがある。
父が灯り箱を持ち込むことはしなかったので、代わりに白く塗った薄い木片を机に置いた。
その前に、黒い板を一枚立てる。
板を横へずらすと、白い木片が見える。
戻すと、消える。
短く見せる。
長く見せる。
少し隠す。
父の手は、時計の振り子を扱う時と同じように一定だった。
「今のを、読んでください」
わたしが言うと、教会の札を読む人がすぐに答えた。
「げ」
「はい」
別の人が、次の光でつまずいた。
「……えっと、これは長いのが二つ?」
「一つ目は長いです。二つ目は、短いのが二つです」
「同じに見えた」
その言葉に、わたしは口を閉じた。
止まっていれば分かる。
紙に書けば分かる。
でも、動くと似ている。
丘の上で遠くから見れば、今よりもっと似る。
(——符号表を読めることと、現場で読めることは違う)
また一つ、机の上に足りないものが置かれた気がした。
「もう一度お願いします」
わたしが父に言うと、父は短く頷いた。
同じ速さで、同じ間で板を動かす。
今度は、二人が正しく読めた。
三人は途中で止まった。
一人は、最初から首を横に振った。
「無理だ。俺には、こういうのは向いてねぇ」
そう言ったのは、入口の近くに立っていた若者だった。
椅子には座っていなかった。
大きな肩をしていて、手には縄の跡がついている。
畑か荷運びの仕事をしている手だった。
ハインリヒが、その人を見た。
「ダン。お前は呼んでいないはずだ」
「手がいるって聞いたんで」
ダンと呼ばれた若者は、気まずそうに頭をかいた。
「塔を立てる方なら、手伝えるかと思って」
「今日は読む練習だ」
「だから、帰ろうとしてた」
ダンはそう言って、戸口の方へ一歩下がった。
その足が、なぜか重そうに見えた。
◇◇◇
「待ってください」
わたしは思わず声を出していた。
ダンがこちらを見る。
大人の男の人に近い体格なのに、視線だけ少し子供みたいだった。
「字は、読めますか」
聞いてから、言い方が悪かったと思った。
ダンの顔が、少し固くなる。
「自分の名前くらいなら」
「すみません」
わたしは頭を下げた。
「聞き方が悪かったです」
胸の奥が熱くなった。
恥ずかしさの熱だった。
わたしは、読み書きできる人を集める、と自然に考えていた。
でもそれは、読めない人を最初から外す考えでもあった。
(——違う)
(——符号は、文字全部じゃない)
わたしは読み札を手に取った。
「この溝は、分かりますか」
ダンは戸口から戻ってきた。
大きな指で木片を受け取る。
短い溝をなぞる。
長い溝をなぞる。
「これは短い」
「はい」
「こっちは長い」
「はい」
「間は……ここか」
「はい」
ダンは木片をしばらく見ていた。
それから、父の方を見た。
「もう一回、見せてくれますか」
父が黒い板を動かす。
白が短く見える。
長く見える。
隠れる。
ダンは木片の溝を指で追った。
「今のは、短い、長い。で、切れた」
「そうです」
「字は分からん。でも、これなら分かる」
集会所の中が、静かになった。
その静けさの中で、わたしは自分の手元の符号表を見た。
紙の上には、音がたくさん並んでいる。
全部覚えろと言われたら、たぶん怖い。
読めない人なら、なおさらだ。
でも一つずつなら。
短い。
長い。
切れる。
その三つから始められるなら。
「全部を一度に覚えなくていいです」
わたしは言った。
「今日は、一つだけでいいです」
ダンが眉を寄せた。
「一つ?」
「はい。最初の一つを、読めるようにします」
コルネリアさんの記録簿が頭に浮かんだ。
そこには、操作者の名前を書く欄があった。
名前を書ける人。
光を読める人。
記録できる人。
全部同じ人でなくてもいい。
でも、町に出す名前には、その人が何をできるのかを書かなければいけない。
「読める、って一つじゃない」
声に出すと、ハインリヒがこちらを見た。
わたしは、もう一度言った。
「字を読める。符号を読める。間を読める。記録を読める。分けられます」
父が小さく頷いた。
ハインリヒは少し考えてから、手元の板に何かを書き足した。
「では、今日の名簿は三つに分ける」
村長の声が、集会所に落ちた。
「記録を書ける者。符号を読める者。塔を動かす者」
ダンが、読み札を握ったまま立っていた。
「俺は」
言いかけて、少し口ごもる。
「俺は、どこに入る」
わたしはダンの手を見た。
太い指が、短い溝の上で止まっている。
「まだ、決めません」
そう答えると、ダンの顔が少し沈んだ。
慌てて付け足す。
「今日、一つ読めたら、符号を読める人の候補です」
ダンの指が、もう一度短い溝をなぞった。
「一つなら」
小さな声だった。
でも、はっきり聞こえた。
「一つなら、覚えられるかもしれねぇ」
窓の外から、春の風が入ってきた。
机の上の紙が少しだけ揺れる。
わたしは、その紙を手で押さえた。
光の道は、塔だけでは足りない。
でも、文字を全部知っている人だけのものにしなくてもいい。
最初の一つを読める手が、目の前にあった。
■あとがき・解説
第114話は、信号塔を動かす前に「人が読めるか」を確認する回でした。
前回、町から仮許可は出ました。
ただし、操作する人の名前を届ける必要があります。
そこで初めて、道具ではなく人の訓練が問題になります。
今回は「符号を読む」「ログを書く人と操作する人」「最小単位から覚える」についてゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「符号を読む」——文字そのものではなく決まりを読む
今回の光信号は、普通の文字をそのまま送っているわけではありません。
短い光、長い光、間の長さを組み合わせて音を表します。
そのため、文字を全部読めることと、符号を現場で読めることは少し違います。
紙の表なら読めても、実際の光や動きになると間違える。
逆に、文字は苦手でも短い・長い・切れ目なら覚えられる人もいます。
■「役割を分ける」——一人に全部を求めない
記録を書ける人。
符号を読める人。
塔を動かす人。
この三つは似ていますが、完全に同じ技能ではありません。
一人で全部できれば便利です。
でも最初からそれを求めると、参加できる人が少なくなります。
リナはここで、町の記録簿の条件を守りつつ、人の得意不得意に合わせて役割を分ける方向へ進み始めました。
■「一つずつ覚える」——学習の最小単位
ダンは字をほとんど読めません。
それでも、短い溝と長い溝の違いは指で追えました。
全部を一度に覚えるのではなく、まず一つ。
できたら次の一つ。
これは教育でも、プログラミングでも大事な考え方です。
大きな問題を小さく分けると、今できる一歩が見えます。
信号士という仕事は、ここから少しずつ形になっていきます。
次の話もお楽しみに。




