表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑥「世界が、見つける」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
111/211

第111話 最初の光信号

丘の上の草は、夕方の湿り気を含んでいた。


膝をつくと、裾に冷たさが移る。

雷の月に入ってから、土の匂いが少し重くなった。


古い狼煙台の脇に、三本脚の台が立っている。

その上に灯り箱。

箱の中には火皿と磨いた銅板。

前には、横軸で吊った遮蔽板。


グスタフ親方が脚を揺すった。


「動かねぇな」


父が反対側の楔を押し込む。


「もう一つ締める」


「締めすぎると足が割れるぞ」


「分かっている」


二人の声は短い。

でもその短さが、かえって落ち着いた。


丘の下では村の家々に夕餉の煙が上がっている。

今日は火事でも敵襲でもない。

村長さんがそう知らせてくれたはずだ。


それでも、何人かの村人が遠巻きに立っていた。

読み書きのできる若者も二人いる。

村長さんに言われて、合図の記録を手伝うために来た人たちだ。


わたしは符号表を抱えたまま、灯り箱の前に立った。


(——煙ではなく、光)


(——でも、送るものは同じ)


げんき。


その三つの音だけを、今夜も送る。


◇◇◇


エルナ様は少し離れた場所に立っていた。


白い祭司服ではなく、濃い色の外套を羽織っている。

胸の古い魔石には、布がかけられていた。

光と混ざらないようにしたのだと思う。


「リナ」


呼ばれて、わたしは符号表を持って近づいた。


「はい」


「もう一度、今日の合図を言って」


エルナ様の声は静かだった。

昨日教会で聞いた声より、少しだけ村の祭司の声に戻っている。


「短い光と長い光だけを使います。急報の合図は使いません。神殿の灯りとも混ぜません。終わったらすぐ箱の火を消します」


「村人が見間違えたら」


「村長さんかエルナ様の停止で、すぐやめます」


エルナ様は頷いた。


「よろしい」


その横で村長さんが、杖の先を草に押し当てていた。


「町側には話が通っておるな」


「はい。ヤンさんが西の狼煙台で見ます。そこから町の詰所へ送ってくれます」


「返すのは」


「お兄ちゃんです」


言ってから、胸のあたりが少し詰まった。


ヨハンはハーラム町の自警団詰所の屋根にいる。

ヤンさんが中継した光を見て、同じ「げんき」を返す約束だった。


狼煙の時と違って、青い布は見えない。

夜の屋根から返るのは、同じ短い光と長い光。


村長さんは遠い町の方角を見た。


「家族の返事を、村の丘で待つわけじゃな」


その言い方に、からかう響きはなかった。


わたしは小さく頷いた。


◇◇◇


灯り箱の中で、火がついた。


魔石ではない。

普通の火打ちと油を染み込ませた芯だ。

父が火皿を箱の奥へ押し込み、グスタフ親方が銅板の角度を見た。


箱の内側がぼんやり明るくなる。


まだ遮蔽板は閉じている。

外へ漏れる光は細い隙間だけだった。


「一度、空で見る」


グスタフ親方が言った。


父が操作紐を若者の一人に渡した。


「引きすぎるな。印のところまでで止める」


若者は緊張した顔で紐を受け取った。

指が少し白い。


「俺でいいんですか」


「いい」


父は短く答えた。


「リナが全部引いていたら、リナしか使えん」


それから父は、遮蔽板の横から出ている小さな引き腕を指で叩いた。


「この輪を引く」


若者が目を瞬かせる。


「紐は、ここですか」


「ああ。後で布と時計をつける時も、ここを引かせる」


父の声は、いつもより低かった。


「だから今日は、人の手で同じ動きになるか見る」


「ここで揃わんものは、布と時計をつけても揃わん」


その言葉が、胸の中に落ちた。


(——そうだ)


(——わたしが送れる、じゃ足りない)


(——これは、送信の練習だけじゃない)


(——引き腕の検査だ)


若者が紐を引く。


引き腕が少し動き、遮蔽板が上がった。


箱の中の光が、丘の先へ向かって細く伸びる。

湿った空気に、薄い白い線が浮いたように見えた。


「閉じろ」


父が言った。


若者が慌てて紐を戻す。

板は閉じた。


でも、遅かった。


光が少し長く残った。


グスタフ親方が舌打ちした。


「戻りが鈍い」


父が軸を触る。


「湿っている」


「油を足すか」


「足すと今度は揺れる」


二人が短く言い合う。


わたしは遮蔽板の端を見た。

木の縁に、わずかに草の湿りがついている。

さっき運ぶ時に地面へ触れたのだ。


「端を拭いてもいいですか」


父がこちらを見た。


「布」


わたしは鞄から古い布を出した。

板の下の縁を拭く。

冷たい水気が布に移った。


もう一度、若者が紐を引いた。


上がる。

閉じる。


今度は短く切れた。


グスタフ親方が鼻で息を鳴らした。


「それでいい」


若者の肩が少し下がった。


わたしも、知らないうちに止めていた息を吐いた。


◇◇◇


夜が降りるのは早かった。


村の灯りが一つずつ小さくなり、丘の上の灯り箱だけが濃く見える。

遠くのハーラム町は黒い塊になっていた。


ヤンさんのいる西の狼煙台は、町の手前の高みにある。

そこに小さな光が一つ点いた。


合図だ。


こちらを見ている。


父が符号表を若者に見せた。


「最初は短長」


若者が唾を飲んだ。


「短く引いて、一拍空けて、長く引く」


「はい」


わたしは横で数える役だった。

手を出さない。

声だけ出す。


それが、今夜のわたしの場所だった。


(——送る手は、わたしじゃない)


(——でも、間違えたらわたしが直す)


胸の奥が変なふうに揺れる。

十一歳の身体は、寒さと緊張の区別がまだ下手だ。

指先だけがやけに冷たい。


「始めるぞ」


父が言った。


若者が頷く。


わたしは口を開いた。


「今。短」


紐が引かれる。

光が出る。

すぐ閉じる。


「一拍。長」


光が長く伸びる。


閉じる。


丘の上が静かになった。


「一文字の間」


誰も動かない。


「短」


二つ目。


「一文字の間」


空気の音が大きくなる。

草の間を風が抜けた。


「長」


三つ目の一つ目。


「短」


最後の光が閉じた。


げんき。


紙の上では何度も見た三つの音が、丘の上から夜へ出ていった。


◇◇◇


すぐには何も起きなかった。


ヤンさんの狼煙台の光は、小さいまま動かない。


若者が紐を握ったままこちらを見る。

村長さんも黙っている。

エルナ様は胸の布の上に手を添えていた。


(——届かなかった?)


(——短と長が、潰れた?)


口の中が乾く。


わたしは町の方を見つめた。

目を細めても、遠い光は小さいままだ。


その時、ヤンさんの狼煙台の光が一度消えた。


また点く。


「読んだ」


父が言った。


声が低く、けれど確かだった。


ヤンさんが、こちらの符号を町へ送り直している。


短長。


間。


短。


間。


長短。


一つずつ、光が町の方へ渡っていく。


わたしはそれを見ていた。

自分の胸の中で作った符号が、もうわたしの口の中にはない。

ヤンさんの手で、町へ向かっている。


遠い詰所の屋根のあたりに、小さな点が生まれた。


最初は星かと思った。

でも星なら、消えたりしない。


点が消える。


「返ってきた」


誰かが言った。


わたしではなかった。


短長。

短。

長短。


げんき。


同じ符号が、町の屋根から返ってきた。


ヨハンが返している。

あるいは、ヨハンの横にいる誰かが手伝っているのかもしれない。

でも、あの屋根の上にお兄ちゃんがいる。


それだけは分かった。


若者が紐から手を離した。

遮蔽板が閉じる。

灯り箱の光が、箱の中へ戻った。


◇◇◇


しばらく誰も話さなかった。


村長さんが杖を持ち直す音だけがした。


「火は消せ」


父が言う。


若者が慌てて頷く。

グスタフ親方が箱を開け、火皿の蓋を落とした。

丘の上が一段暗くなる。


目が慣れるまで、遠くの返答の光だけが残った。


町の屋根で、もう一度短い光が点いた。

今度は符号ではなく、終わりの合図だった。


ヤンさんの狼煙台も、同じように短く返す。


村長さんが小さく息を吐いた。


「……見えたのう」


「はい」


「村の丘から町へ、夜に言葉が行った」


その言葉を聞いた瞬間、足元の草の冷たさが急に戻ってきた。


わたしは膝のあたりを握った。

指が震えている。


怖いのか、嬉しいのか。

たぶん両方だ。


エルナ様が近づいてきた。


「リナ」


「はい」


「神殿の合図とは違う。そこは私が見ました」


その声に、胸の奥の固いところが少しだけ緩んだ。


でもエルナ様は続けた。


「ただ、よく見えます」


わたしは町の方を見た。


確かに、見えた。

遠い場所にいる人の手が、夜の上に小さな線を引く。

見えないはずの声が、光になって戻ってくる。


「はい」


わたしはそう答えた。


灯り箱の中では、消えた芯から細い煙が上がっていた。

その匂いが、普通の台所の油とは少し違っていた。


父が符号表を畳む。

でも若者の一人が、まだ町の方を見ていた。


「今の、俺でも送れました」


ぽつりと言った。


父は頷いた。


「だから、意味がある」


グスタフ親方が空の箱を肩に担いだ。


「嬢ちゃん一人の道具じゃねぇな」


その言葉に、わたしはすぐ返事ができなかった。


丘の向こうで、町の灯りが静かに滲んでいる。


わたしの手の中にあった符号は、もうわたしの手の中だけにはなかった。


若者の手で丘を出て、ヤンさんの手で町へ渡り、お兄ちゃんの手で返ってきた。


光は消えた。

でも、夜の暗さはさっきと同じ暗さではなかった。


■あとがき・解説


第111話は、光信号が初めて実際の夜に使われる回でした。


ここで大事なのは、リナ本人が紐を引いていないことです。

父やグスタフが作り、村の若者が操作し、ヤンが中継し、ヨハンが返す。


通信は、発明品だけでは成立しません。

それを扱う人の手順と、見守る人の約束がそろって初めて動きます。


■この話で出てきた言葉


■「光信号」——煙ではなく光に符号を載せる


狼煙は、昼間なら遠くから見えます。

でも夜は煙の長さが読みにくく、雨の日も形が崩れます。


そこで今回は、短い光と長い光を使いました。

仕組みとしては、煙の代わりに灯りを出したり隠したりしているだけです。


現代でいうと、モールス信号の光版に近い考え方です。


■「中継」——一度読んで、もう一度送る


村の丘から町の詰所まで、直接すべてが届くとは限りません。

そこでヤンが途中の狼煙台で読み、同じ符号を町へ送り直しています。


これは通信網の基本になる考え方です。

一つの点から全部へ届かせるのではなく、届く範囲ごとに渡していく。


第2部後半では、この「渡す人」が仕事として立ち上がっていきます。


■「リナの手を離れる」


今回の最後で、リナは自分が考えた符号を他人が扱うところを見ます。


発明は、作った本人だけが使えるうちはまだ小さいものです。

別の人が使い、間違え、直し、また使えるようになると、少しずつ社会の道具になります。


狼煙では、布と時計を使って半自動で煙を切りました。


ただ、光信号では最初からそこへ進まず、まず人が短い光と長い光を送れる形に戻しています。


これは手動を最終形にするためではありません。


手でも機械でも同じ遮蔽板を動かせること、止めたい時に人が止められることを確かめるためです。


光信号は、ここから家族の連絡を越えて村と町をつなぐ仕組みへ進んでいきます。


次の話もお楽しみに。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ