第110話 神殿の問い合わせ
教会の石段は、夜の雨で濡れていた。
雷の月に入ってから、空の色が少し重い。
朝は晴れていても、石の隙間には水が残っている。
わたしは紙を胸の前で抱え直した。
一昨日グスタフ親方の工房で決めた灯り箱の写し。
村長さんの条件。
それから、試す前にエルナ様へ知らせるという約束。
紙の端は、何度も持ち替えたせいで少し柔らかくなっていた。
父は工房へ行っている。
本番用の脚を組むためだ。
わたしは先に教会へ来た。
戸口に立つと、中から声がした。
エルナ様の声。
それから、聞いたことのない女の人の声。
わたしは扉の取っ手に触れたまま、少し止まった。
鉄は冷たい。
前にエルナ様へ機械を見せに来た朝と、同じ冷たさだった。
違うのは、控室の向こうに知らない人がいることだ。
◇◇◇
「入りなさい」
エルナ様の声がした。
わたしが戸を開けると、教会の中はいつもより静かだった。
祭壇の前の灯りはまだ小さい。
床の石に、窓から入った白い光が細く伸びている。
控室の戸は開いていた。
エルナ様は小さな机のそばに立っていた。
胸の古い魔石のペンダントに、指が軽く触れている。
その向かいに、灰色の司祭服を着た女の人が座っていた。
髪はきっちりまとめられている。
顔は穏やかだ。
でも、目だけが紙の上を読むように動いた。
「あなたが、リナさんですね」
女の人が言った。
「はい」
「私はリーゼと申します。神殿本部から、地方の祭務を見て回っております」
丁寧な声だった。
急かす音も、責める響きもない。
それなのに、指先が紙を強く握った。
神殿本部。
王都の書簡とは違う道から、また知らない場所の名前が来た。
「リナ」
エルナ様が静かに呼んだ。
「灯りの件かしら」
「はい。村長さんから、試す前にエルナ様にも知らせるように言われました」
わたしは机の上に紙を置いた。
リーゼ司祭の視線が、紙の端に落ちる。
でも手は伸ばさない。
エルナ様が先に紙を取った。
丸めていた端を指で押さえ、灯り箱の絵を見た。
「昨日、親方の工房で決めた形です。まだ丘には置いていません」
「火皿は箱の中なのね」
「はい。むき出しにしません。遮蔽板は手を離すと閉じます」
エルナ様は小さく頷いた。
「神殿の合図とは混ぜない?」
「混ぜません」
そこは、一番先に言うべきことだった。
「村長さんにもそう約束しました。試す日と時刻を先に知らせます。火事や病人の急報にも使いません」
リーゼ司祭が、そこで初めて口を開いた。
「光を、言葉のように扱うのですね」
胸の内側が小さく跳ねた。
言葉のように。
その言い方は正しい。
けれど、正しすぎて怖かった。
「短い光と長い光を、決めた順に見せます」
わたしはそう言った。
「でも、まだ試しです。村と町の人に、別の合図と間違えられないようにするために来ました」
リーゼ司祭はうなずいた。
「先に知らせる。それは良いことです」
そう言ってから、机の横に置いていた小さな帳面を開いた。
紙に細い字が増えていく。
良いこと。
その言葉と、帳面に書かれる音が同時に聞こえた。
◇◇◇
「エルナ様」
リーゼ司祭は帳面から目を上げた。
「先ほどの話に戻ってもよろしいでしょうか」
エルナ様の指が、胸の魔石に少しだけ触れ直した。
「ええ」
「村で広められた、整えの祈りについてです」
息が止まった。
整えの祈り。
そう呼ばれたものが何か、すぐに分かった。
プレヴェルティス。
でもリーゼ司祭は、その名を口にしなかった。
わざと言わなかったのか、まだ確かめているのかは分からない。
「家庭の魔石の不調が収まったと、祭務報告にありました」
リーゼ司祭の声は変わらない。
「祭司学校の手引きにはない形です」
エルナ様は少し黙った。
窓の外で、雫が一つ落ちる音がした。
「手引きにはありません」
「では」
「ですが、村の人は困っていました。竈の火がつかない家があり、井戸の水が出にくい家がありました」
エルナ様の声は、低く静かだった。
「わたしは祭司として、村の生活を守るために使いました」
リーゼ司祭は、すぐには書かなかった。
「その祈りを考えたのは、エルナ様ですか」
紙を握る手が冷たくなった。
エルナ様はわたしを見なかった。
わたしの方を見れば、それだけで答えになってしまう。
「唱えたのはわたしです」
「考えたのは」
「村の不調を見て、必要な形を選びました」
答えになっている。
でも全部ではない。
わたしは喉の奥で息を止めた。
リーゼ司祭の目が、ほんの少しだけ細くなった。
「リナさんは、その場に?」
「いました」
エルナ様は隠さなかった。
「記録を取り、家々の様子を見ました。けれど祈りを唱えたのはわたしです」
「魔力なき子が、魔石の不調を見分けたと聞く者もいます」
その言葉は、柔らかい布に包まれた針みたいだった。
刺さるまで、少し遅れて痛い。
エルナ様が初めて、リーゼ司祭をまっすぐ見た。
「子どもは、大人が見落とすものを見ることがあります」
「それは、教義の外へ踏み込むことではありませんか」
「見落としたものを見ること自体は、罪ではありません」
控室の空気が、少しだけ固くなった。
わたしは紙の端を見た。
昨日描いた灯り箱の線が、指の汗で少し滲んでいる。
(——答えられるから、問いが来る)
昨日の書簡と同じだった。
王都からは、歯車と布の問いが来た。
神殿からは、祈りと魔石の問いが来る。
どちらも、紙に残る。
◇◇◇
リーゼ司祭は帳面に何かを書いた。
書き終えてから、わたしを見た。
「リナさん」
「はい」
「あなたは、魔法を直したいのですか」
大きすぎる問いだった。
直したい。
困っている人を助けたい。
でも、魔法そのものに手を入れる力はない。
そこを間違えると、わたしは別のものになる。
「わたしは、困っている人がどこで困っているかを見て、書きます」
ゆっくり言った。
「直すのは、エルナ様や、その家の人です。わたし一人ではできません」
リーゼ司祭はわたしの答えを聞いて、少しだけ目を伏せた。
「一人ではない」
その言葉だけを、帳面に写すように呟いた。
エルナ様がそこで紙を閉じた。
「リーゼ様。今日のリナは、光の試験を知らせに来ただけです」
「ええ。分かっています」
リーゼ司祭は穏やかに微笑んだ。
「長く引き止めました。リナさん、ありがとうございます」
礼を言われた。
でも胸の中は軽くならなかった。
わたしは頭を下げて、紙を受け取った。
エルナ様の指が、紙の端を一瞬だけ押さえる。
「リナ。外で待っていて」
「はい」
控室を出る時、リーゼ司祭の帳面が見えた。
細い字が、数行。
まだ乾いていない黒い線。
そこに何が書かれたのかは読めなかった。
でも、わたしの名前が入っていることだけは分かった。
◇◇◇
教会の外に出ると、石段の水は少し乾き始めていた。
雲の隙間から光が落ちて、濡れたところだけが白く光っている。
わたしは紙を膝の上に置き、低いベンチに座った。
中の声は聞こえない。
ただ、時々紙をめくる音だけがした。
王都の書簡。
神殿の帳面。
昨日から、紙ばかりだ。
わたしがまだ村の道を歩いている間に、わたしの名前は紙の上で遠くへ行く。
しばらくして、扉が開いた。
リーゼ司祭が先に出てきた。
「リナさん」
「はい」
「村のために何かをなさるなら、村の祭司と共に歩いてください」
柔らかい声だった。
「一人で歩く道は、見えないところで曲がることがあります」
そう言って、リーゼ司祭は石段を下りていった。
灰色の裾が、濡れた石に触れないぎりぎりの高さで揺れる。
その後ろ姿が角を曲がるまで、エルナ様は黙って見送った。
「リナ」
「はい」
エルナ様は胸の古い魔石に触れていた。
指先が白くなるほどではない。
でも、離さない。
「前にも言ったわね」
すぐに分かった。
気をつけてね。
あの言葉だ。
「今度は、少しだけ分かりました」
「全部は分からなくていい」
エルナ様はそう言った。
「ただ、作ったものだけが見られるわけではない。誰が作ったのか。誰が許したのか。誰がそれをどう書いたのか。そこまで見られる」
胸の奥が冷えた。
リーゼ司祭の帳面の黒い線を思い出す。
「光の試験は、予定どおり知らせてから行いましょう」
「はい」
「わたしも見るわ。神殿の合図と混ざらないことを、わたしの目で確かめる」
その声は、村の祭司の声だった。
守ってくれる声。
でも同時に、線を引く声。
わたしは紙を抱え直した。
教会の石段に残った水跡が、細い文字みたいに光っている。
踏めば消える。
でも今はまだ、そこに残っていた。
「気をつけます」
わたしがそう答えると、エルナ様は小さく頷いた。
遠くでまた、低い雷が鳴った。
雨はまだ降っていない。
けれど神殿の帳面には、もうわたしの名前が書かれている。
■あとがき・解説
第110話は、神殿側の視線が初めて具体的な形でリナの前に現れる回でした。
リーゼ司祭は分かりやすい悪人ではありません。
村を壊そうとしているわけでも、リナを罰しようとしているわけでもない。
ただ、神殿本部へ正しく報告する立場の人です。
その「正しく書く」が、リナにとっては怖いものになります。
■この話で出てきた言葉
■「整えの祈り」——プレヴェルティスを神殿側が見る言葉
リナたちが村で使ったプレヴェルティスは、村の中では生活を助けるための方法でした。
でも神殿側から見ると、祭司学校の手引きにない祈りです。
同じものでも、誰がどう呼ぶかで意味が変わります。
エルナは今回、リナの名前を完全に隠すのではなく「唱えたのは私」「村のために使った」と責任の置き場所を整えています。
■「報告」——敵意のない怖さ
王都の書簡は、リナの名前と考え方を遠くへ運びました。
今回の神殿の帳面も同じです。
リーゼは嘘を書こうとしていません。
むしろ正確に書こうとしています。
だからこそ、怖い。
悪意ではなく、制度の紙が人を遠くへ運んでしまう怖さです。
■「気をつけてね」
第44話でエルナが言った「気をつけてね」が、今回は少しだけ具体的になりました。
気をつける相手は、魔石や機械だけではありません。
誰が見て、誰が許し、誰がどう書くのか。
第2部では通信が広がるほど、リナ自身もまた「伝えられる側」になっていきます。
次の話もお楽しみに。




