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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑥「世界が、見つける」

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110/211

第110話 神殿の問い合わせ

教会の石段は、夜の雨で濡れていた。


雷の月に入ってから、空の色が少し重い。

朝は晴れていても、石の隙間には水が残っている。


わたしは紙を胸の前で抱え直した。


一昨日グスタフ親方の工房で決めた灯り箱の写し。

村長さんの条件。

それから、試す前にエルナ様へ知らせるという約束。


紙の端は、何度も持ち替えたせいで少し柔らかくなっていた。


父は工房へ行っている。

本番用の脚を組むためだ。

わたしは先に教会へ来た。


戸口に立つと、中から声がした。


エルナ様の声。

それから、聞いたことのない女の人の声。


わたしは扉の取っ手に触れたまま、少し止まった。

鉄は冷たい。

前にエルナ様へ機械を見せに来た朝と、同じ冷たさだった。


違うのは、控室の向こうに知らない人がいることだ。


◇◇◇


「入りなさい」


エルナ様の声がした。


わたしが戸を開けると、教会の中はいつもより静かだった。

祭壇の前の灯りはまだ小さい。

床の石に、窓から入った白い光が細く伸びている。


控室の戸は開いていた。


エルナ様は小さな机のそばに立っていた。

胸の古い魔石のペンダントに、指が軽く触れている。


その向かいに、灰色の司祭服を着た女の人が座っていた。

髪はきっちりまとめられている。

顔は穏やかだ。

でも、目だけが紙の上を読むように動いた。


「あなたが、リナさんですね」


女の人が言った。


「はい」


「私はリーゼと申します。神殿本部から、地方の祭務を見て回っております」


丁寧な声だった。

急かす音も、責める響きもない。


それなのに、指先が紙を強く握った。


神殿本部。


王都の書簡とは違う道から、また知らない場所の名前が来た。


「リナ」


エルナ様が静かに呼んだ。


「灯りの件かしら」


「はい。村長さんから、試す前にエルナ様にも知らせるように言われました」


わたしは机の上に紙を置いた。


リーゼ司祭の視線が、紙の端に落ちる。

でも手は伸ばさない。


エルナ様が先に紙を取った。

丸めていた端を指で押さえ、灯り箱の絵を見た。


「昨日、親方の工房で決めた形です。まだ丘には置いていません」


「火皿は箱の中なのね」


「はい。むき出しにしません。遮蔽板は手を離すと閉じます」


エルナ様は小さく頷いた。


「神殿の合図とは混ぜない?」


「混ぜません」


そこは、一番先に言うべきことだった。


「村長さんにもそう約束しました。試す日と時刻を先に知らせます。火事や病人の急報にも使いません」


リーゼ司祭が、そこで初めて口を開いた。


「光を、言葉のように扱うのですね」


胸の内側が小さく跳ねた。


言葉のように。


その言い方は正しい。

けれど、正しすぎて怖かった。


「短い光と長い光を、決めた順に見せます」


わたしはそう言った。


「でも、まだ試しです。村と町の人に、別の合図と間違えられないようにするために来ました」


リーゼ司祭はうなずいた。


「先に知らせる。それは良いことです」


そう言ってから、机の横に置いていた小さな帳面を開いた。


紙に細い字が増えていく。


良いこと。


その言葉と、帳面に書かれる音が同時に聞こえた。


◇◇◇


「エルナ様」


リーゼ司祭は帳面から目を上げた。


「先ほどの話に戻ってもよろしいでしょうか」


エルナ様の指が、胸の魔石に少しだけ触れ直した。


「ええ」


「村で広められた、整えの祈りについてです」


息が止まった。


整えの祈り。


そう呼ばれたものが何か、すぐに分かった。


プレヴェルティス。


でもリーゼ司祭は、その名を口にしなかった。

わざと言わなかったのか、まだ確かめているのかは分からない。


「家庭の魔石の不調が収まったと、祭務報告にありました」


リーゼ司祭の声は変わらない。


「祭司学校の手引きにはない形です」


エルナ様は少し黙った。

窓の外で、雫が一つ落ちる音がした。


「手引きにはありません」


「では」


「ですが、村の人は困っていました。竈の火がつかない家があり、井戸の水が出にくい家がありました」


エルナ様の声は、低く静かだった。


「わたしは祭司として、村の生活を守るために使いました」


リーゼ司祭は、すぐには書かなかった。


「その祈りを考えたのは、エルナ様ですか」


紙を握る手が冷たくなった。


エルナ様はわたしを見なかった。

わたしの方を見れば、それだけで答えになってしまう。


「唱えたのはわたしです」


「考えたのは」


「村の不調を見て、必要な形を選びました」


答えになっている。

でも全部ではない。


わたしは喉の奥で息を止めた。


リーゼ司祭の目が、ほんの少しだけ細くなった。


「リナさんは、その場に?」


「いました」


エルナ様は隠さなかった。


「記録を取り、家々の様子を見ました。けれど祈りを唱えたのはわたしです」


「魔力なき子が、魔石の不調を見分けたと聞く者もいます」


その言葉は、柔らかい布に包まれた針みたいだった。


刺さるまで、少し遅れて痛い。


エルナ様が初めて、リーゼ司祭をまっすぐ見た。


「子どもは、大人が見落とすものを見ることがあります」


「それは、教義の外へ踏み込むことではありませんか」


「見落としたものを見ること自体は、罪ではありません」


控室の空気が、少しだけ固くなった。


わたしは紙の端を見た。

昨日描いた灯り箱の線が、指の汗で少し滲んでいる。


(——答えられるから、問いが来る)


昨日の書簡と同じだった。


王都からは、歯車と布の問いが来た。

神殿からは、祈りと魔石の問いが来る。


どちらも、紙に残る。


◇◇◇


リーゼ司祭は帳面に何かを書いた。


書き終えてから、わたしを見た。


「リナさん」


「はい」


「あなたは、魔法を直したいのですか」


大きすぎる問いだった。


直したい。

困っている人を助けたい。

でも、魔法そのものに手を入れる力はない。


そこを間違えると、わたしは別のものになる。


「わたしは、困っている人がどこで困っているかを見て、書きます」


ゆっくり言った。


「直すのは、エルナ様や、その家の人です。わたし一人ではできません」


リーゼ司祭はわたしの答えを聞いて、少しだけ目を伏せた。


「一人ではない」


その言葉だけを、帳面に写すように呟いた。


エルナ様がそこで紙を閉じた。


「リーゼ様。今日のリナは、光の試験を知らせに来ただけです」


「ええ。分かっています」


リーゼ司祭は穏やかに微笑んだ。


「長く引き止めました。リナさん、ありがとうございます」


礼を言われた。


でも胸の中は軽くならなかった。


わたしは頭を下げて、紙を受け取った。

エルナ様の指が、紙の端を一瞬だけ押さえる。


「リナ。外で待っていて」


「はい」


控室を出る時、リーゼ司祭の帳面が見えた。


細い字が、数行。

まだ乾いていない黒い線。


そこに何が書かれたのかは読めなかった。


でも、わたしの名前が入っていることだけは分かった。


◇◇◇


教会の外に出ると、石段の水は少し乾き始めていた。


雲の隙間から光が落ちて、濡れたところだけが白く光っている。

わたしは紙を膝の上に置き、低いベンチに座った。


中の声は聞こえない。


ただ、時々紙をめくる音だけがした。


王都の書簡。

神殿の帳面。


昨日から、紙ばかりだ。


わたしがまだ村の道を歩いている間に、わたしの名前は紙の上で遠くへ行く。


しばらくして、扉が開いた。


リーゼ司祭が先に出てきた。


「リナさん」


「はい」


「村のために何かをなさるなら、村の祭司と共に歩いてください」


柔らかい声だった。


「一人で歩く道は、見えないところで曲がることがあります」


そう言って、リーゼ司祭は石段を下りていった。

灰色の裾が、濡れた石に触れないぎりぎりの高さで揺れる。


その後ろ姿が角を曲がるまで、エルナ様は黙って見送った。


「リナ」


「はい」


エルナ様は胸の古い魔石に触れていた。

指先が白くなるほどではない。

でも、離さない。


「前にも言ったわね」


すぐに分かった。


気をつけてね。


あの言葉だ。


「今度は、少しだけ分かりました」


「全部は分からなくていい」


エルナ様はそう言った。


「ただ、作ったものだけが見られるわけではない。誰が作ったのか。誰が許したのか。誰がそれをどう書いたのか。そこまで見られる」


胸の奥が冷えた。


リーゼ司祭の帳面の黒い線を思い出す。


「光の試験は、予定どおり知らせてから行いましょう」


「はい」


「わたしも見るわ。神殿の合図と混ざらないことを、わたしの目で確かめる」


その声は、村の祭司の声だった。


守ってくれる声。

でも同時に、線を引く声。


わたしは紙を抱え直した。


教会の石段に残った水跡が、細い文字みたいに光っている。


踏めば消える。

でも今はまだ、そこに残っていた。


「気をつけます」


わたしがそう答えると、エルナ様は小さく頷いた。


遠くでまた、低い雷が鳴った。


雨はまだ降っていない。

けれど神殿の帳面には、もうわたしの名前が書かれている。


■あとがき・解説


第110話は、神殿側の視線が初めて具体的な形でリナの前に現れる回でした。


リーゼ司祭は分かりやすい悪人ではありません。

村を壊そうとしているわけでも、リナを罰しようとしているわけでもない。

ただ、神殿本部へ正しく報告する立場の人です。


その「正しく書く」が、リナにとっては怖いものになります。


■この話で出てきた言葉


■「整えの祈り」——プレヴェルティスを神殿側が見る言葉


リナたちが村で使ったプレヴェルティスは、村の中では生活を助けるための方法でした。

でも神殿側から見ると、祭司学校の手引きにない祈りです。


同じものでも、誰がどう呼ぶかで意味が変わります。


エルナは今回、リナの名前を完全に隠すのではなく「唱えたのは私」「村のために使った」と責任の置き場所を整えています。


■「報告」——敵意のない怖さ


王都の書簡は、リナの名前と考え方を遠くへ運びました。

今回の神殿の帳面も同じです。


リーゼは嘘を書こうとしていません。

むしろ正確に書こうとしています。


だからこそ、怖い。

悪意ではなく、制度の紙が人を遠くへ運んでしまう怖さです。


■「気をつけてね」


第44話でエルナが言った「気をつけてね」が、今回は少しだけ具体的になりました。


気をつける相手は、魔石や機械だけではありません。

誰が見て、誰が許し、誰がどう書くのか。


第2部では通信が広がるほど、リナ自身もまた「伝えられる側」になっていきます。


次の話もお楽しみに。


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