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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑥「世界が、見つける」

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109/211

第109話 王都の影

雷の月の一日目。


朝の空は晴れていた。

けれど、遠くで低い音がした。


ごろ、と鳴って、すぐ消える。


ノラは椀を両手で持ったまま顔を上げた。


「かみなり?」


「遠いから、まだ大丈夫よ」


母がそう言って、焼いた薄いパンを皿に移した。


わたしは窓の外を見た。

畑の向こうの森は、いつもより少し濃く見えた。

雨のにおいはまだない。

でも空気だけが、先に湿っている。


父は食卓の端に木片を置いていた。

昨日、グスタフ親方の工房から持ち帰った小さな遮蔽板だ。


黒く塗った薄い板。

横軸の穴。

手を離すと閉じる重さ。


父はそれを指で持ち上げ、ぱた、と戻した。


「悪くない」


「丘に置くなら、もっと大きくなります」


「ああ。だから先に小さく作っておいてよかった。引き腕の穴は、このまま写せる」


父は短く言って、木片を布で包んだ。


昨日の工房の熱が、まだ指先に残っている気がした。

銅板に映った小さな光。

板の隙間からこぼれた細い線。

光は煙よりまっすぐだった。


まっすぐだから、遠くにも届く。


そこまで考えた時、戸口の外で足音が止まった。


母が立ち上がる。

父も顔を上げた。


戸を叩く音は、三つだった。

急かす音ではない。

でも、村の人の叩き方とも少し違う。


父が戸を開けた。


立っていたのは、ベルマン氏だった。


細い外套の肩に、道の埃が白くついている。

手には革の筒を持っていた。


「朝早くに失礼します」


「ベルマンさん」


父の声が少し低くなった。


「町からですか」


「はい。王都からの便が、夜明け前にハーラムへ着きました」


ベルマン氏はそう言って、革筒を両手で差し出した。


筒の口は紐で結ばれていた。

赤い封蝋が残っている。

蝋の表面には、細い線で印が押されていた。


テオドールさんの印だ。


わたしの背中が、少しだけ冷えた。


父はすぐには受け取らなかった。


「呼び出しか」


その一言で、食卓の空気が止まった。


母の手が皿の上で止まる。

ノラは椀を持ったまま、父とベルマン氏を交互に見た。


ベルマン氏は、ほんの少し首を振った。


「いいえ。少なくとも、この筒は召し状ではありません」


父はそこで初めて筒を受け取った。


「中で読みましょう」


ベルマン氏は一礼して土間に入った。

母が椅子を引き、父が革筒の紐を解く。


封蝋はすでに一度、商人ギルドで確認されたものらしい。

中の紙は、折り目がきっちりそろっていた。


父は一枚目を開いた。

わたしは隣に座る。


紙は厚い。

王都の紙だ。


わたしたちが使う村の紙より白く、指に少し冷たい。


父は黙って目を動かした。

途中で眉を寄せる。


「リナ」


「はい」


「読めるか」


父は紙をわたしの前に置いた。


テオドールさんの字は細く、まっすぐだった。

急いでいるのに乱れていない。


最初に、こちらから送った返答への礼が書いてあった。

論理を歯車に置き換える説明。

穴のある布で手順を読ませる仕組み。

水門を人の代わりに見張らせる考え。


その三つが、王都で読まれた。


わたしはそこまで読んで、一度まばたきした。


読まれた。


会ったことのない人たちに。


紙の続きには、もっと細かいことが書いてあった。

王都の工学者たちが、歯車だけで判断を分ける考えに強く興味を示したこと。

穿孔布について、同じ布を何度も読ませた時の擦り切れを心配する声があること。

水門の仕組みについて、浮きの動きと雨量の関係を尋ねる者がいること。


そして、次の一文で指が止まった。


十一歳の娘が示した筋道であると知り、驚きが広がっている。


紙の端が、親指の腹に食い込んだ。


「……わたしの年も、書いたんですか」


声が少し小さくなった。


ベルマン氏は答える前に、父を見た。

父は紙から目を離さない。


「テオドール殿は、最初から隠していない。隠すと、あとで余計に大きくなる」


「はい」


分かる。


嘘をついても、いつか帳尻が合わなくなる。

誰が作ったのか。

どうして村の職人たちだけで、王都の工学者が悩む筋道を書けたのか。


そこをぼかし続ける方が危ない。


分かるのに、手のひらが冷たかった。


王都は遠い。


地図の上では、道をいくつも越えた先にある。

馬車で何日もかかる。

わたしはまだ、その門を見たことがない。


それなのに、わたしの名前だけが先に行っていた。


紙の上を歩いて。

封蝋の下をくぐって。

知らない廊下で、知らない人の口にのぼっている。


「リナ」


母の声がした。


顔を上げると、母が湯気の立つ椀を置いてくれた。

いつの間にか、朝の汁物は少し冷めていた。


「飲みなさい」


「はい」


椀を持つと、両手が温まった。


父は二枚目の紙を読んでいた。

ベルマン氏は土間の椅子に座り、こちらを急かさず待っている。


「追加の問いがある」


父が言った。


「はい」


わたしは椀を置いた。


「いつまでですか」


「すぐではない。テオドール殿は、返答には時間をかけろと書いている」


父の指が紙の一行を押さえた。


「それから、必ず家族と相談して書け、と」


胸の奥が少しだけ緩んだ。


あの人は覚えていた。

わたしが一人で全部を抱えようとすることを。


母が静かに息を吐いた。


「なら、今日は読んで終わりです」


「お母さん」


「読むだけです。書くのは明日から」


言い切る声だった。


父は一度わたしを見た。

それから、小さく頷いた。


「そうだな」


「でも、問いの内容は見ておきたいです」


「見るだけだ」


「はい」


父が二枚目をわたしの前にずらした。


問いは三つあった。


一つ目。

歯車で判断を分ける時、同時に二つの条件を読むことはできるか。


二つ目。

布の穴が読み取り針に引っかかった時、機械を止める仕組みは作れるか。


三つ目。

水門を動かす装置は、水が多すぎる時だけでなく、少なすぎる時にも判断を変えられるか。


どれも、知らない人の問いだった。


でも、まったく分からない問いではなかった。


一つ目は、前に作った判断する歯車を組み合わせれば考えられる。

二つ目は、昨日の遮蔽板と同じで、失敗した時に止まる向きへ倒せばいい。

三つ目は、水位の浮きを二つに分ければいいかもしれない。


答えられる。


そう思った瞬間、怖さが少し増えた。


答えられないから怖いのではない。

答えられるから、次の問いが来る。


一つ返すと、もう一つ来る。

紙が道を作る。

道ができると、人が来る。


ごろ、とまた遠くで鳴った。


今度は少し長かった。


ノラが椀を抱えたまま、わたしの袖をつまんだ。


「ねぇね、こわい?」


「少し」


「かみなり?」


わたしは首を振った。


「遠くの人」


ノラはよく分からない顔をした。

それから、わたしの袖をもう少し強く握った。


「じゃあ、ここにいて」


「うん」


その言葉が、思ったより深く胸に落ちた。


ここにいる。


まだ、わたしはこの家の椅子に座っている。

父の作業台があり、母の織機があり、ノラの小さな椀がある。

外には畑があって、丘の上にはまだ建っていない光の箱がある。


王都に行ったのは、紙だけだ。


まだ、わたしではない。


ベルマン氏が静かに立ち上がった。


「今日は、書簡をお届けするだけです。返答は急ぎません」


「町への返事は」


父が尋ねる。


「読んだ、とだけいただければ充分です。内容の返答は、まとまってからで」


「分かった」


父は紙を折り直した。

折り目がぴたりと重なる。


ベルマン氏は戸口まで歩いた。

そこで一度、こちらを振り返る。


「お嬢さん」


「はい」


「これからも、作りますか」


追及する声ではなかった。

商人の声でも、半分だけ学者の声でもない。


ただ、見届ける人の声に聞こえた。


わたしは少し考えた。


作らなければ、今の道はここで止まる。

作れば、道は伸びる。

どちらにも怖さがある。


でも昨日の灯り箱を思い出した。

手を離すと閉じる板。

失敗した時に、危ない方へ倒れない形。


作ることをやめるのではなく、閉じる仕組みを一緒に作る。


「作ります」


わたしは言った。


「でも、誰に届くかを考えてから作ります」


ベルマン氏の細い目が、ほんの少しだけやわらいだ。


「楽しみにしています」


それだけ言って、彼は戸の外へ出た。


父が戸を閉める。


家の中に、紙の匂いだけが残った。


わたしは食卓の上の書簡を見た。


白い紙。

黒い文字。

赤い封蝋の跡。


そこに書かれたわたしの名前は、わたしよりずっと先に王都へ着いていた。


遠くで三度目の雷が鳴る。


まだ雨は降っていない。


でも影だけが、先に家の中へ入ってきていた。


■あとがき・解説


第109話は、王都からの正式な呼び出しではなく「評判だけが先に届く」回でした。


リナはまだ村の家にいます。

けれど、彼女が紙で返した考え方は王都で読まれ、知らない人たちの問いを生み始めています。


今回は「すぐ王都へ行く」ではなく、その前に起きる静かな変化を書いています。


■この話で出てきた言葉


■「書簡」——人より先に届くもの


第95話で、王都案件はいったん書面でやり取りする形になりました。

第109話では、その紙が王都で読まれた結果が返ってきます。


リナ本人はまだ王都を見ていません。

それでも、名前と考え方だけは先に王都へ届いています。


この「本人より先に名前が歩く」感覚が、今回の怖さです。


■「追加の問い」——答えられるから次が来る


王都から来た問いは、まったく未知のものではありません。

むしろ、リナには答えの筋道が少し見えています。


だからこそ怖い。

答えられないならそこで終わります。

答えられると、問いが次の問いを呼びます。


技術が広がる時の怖さは、悪意だけではありません。

善意や好奇心でも、人を大きな場所へ押し出していきます。


■「誰に届くかを考えてから作る」


第108話で作った遮蔽板は、手を離すと閉じる仕組みでした。

失敗した時に危ない方へ倒れない形です。


今回のリナは、それを自分の発明全体にも当てはめようとしています。

作ることをやめるのではなく、届き方や閉じ方も一緒に考える。


第2部では、通信そのものだけでなく「届いてしまうこと」の怖さも扱っていきます。


次の話もお楽しみに。


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