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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑥「世界が、見つける」

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105/211

第105話 家族の手紙とヤンの工夫

朝の食卓に、煙は残らなかった。


残っていたのは、煤の匂いが少し移った読み取り板と、エマが広げた白い紙だけだった。


窓の外では、萌の月の風が麦の葉を揺らしている。

昨日の狼煙はもう空のどこにもない。

でも紙の上には、まだ何も書かれていない白さがあった。


「煙は、速いのね」


エマが言った。


手には炭筆を持っている。

ヨハンへ出す手紙を書くための紙だった。


「はい」


「でも、残らない」


わたしは頷いた。


昨日、青い布が屋根の上で振られた。

あの瞬間は、確かに届いた。


けれど家に帰ってくると、空には何も残っていなかった。

お兄ちゃんが読んだ「げんき」は、誰かが拾って棚にしまえるものではない。


(——ログが残らない)


(——だから、手紙はなくならない)


エマは紙の左上に、ゆっくり字を書き始めた。


ヨハンへ。


その三文字だけで、昨日の煙とは違う重さがあった。


◇◇◇


ノラは椅子の上に膝を乗せて、読み取り板を見ていた。


板には、昨日のまま三つの符号が残っている。


 短長  げ

 短   ん

 長短  き


「ねぇね」


「なに?」


「これ、お兄ちゃんが読んだの?」


「うん」


「ノラも読む」


ノラは小さな指で、最初の行をたどった。

短い線と長い線。

その横の「げ」。


「げ」


「うん」


次に短い線。


「ん」


「そう」


長い線と短い線。


「き」


ノラはそれを言い終えると、ぱっと顔を上げた。


「げんき」


声が、台所の梁に小さく跳ねた。


エマが手紙を書く手を止めて、少し笑った。

父は椀の横で板を見ている。


ノラは今度は白い紙の端を指差した。


「ノラも、書く」


「書く?」


「ねぇねの字、覚えたい」


その言葉は、昨日の青い布より近くで揺れた。


わたしは炭筆を一本取った。

ノラの手に合わせるには少し長い。

だから半分のところを持たせ、わたしはその上からそっと支えた。


「じゃあ、げ、から」


「げ」


ノラの手は力が入りすぎて、線が太くなった。

炭の粉が紙に黒く広がる。


「あ」


「大丈夫」


わたしは紙を押さえた。


「煙も、最初は揺れた」


ノラは少し考えた。


「字も、揺れる?」


「うん。最初は揺れる」


父が短く息を吐いた。

笑ったのかもしれない。


◇◇◇


ノラの「げんき」は、三文字とも少しずつ違う方向を向いた。


「げ」は大きすぎた。

「ん」は途中で細くなった。

「き」は最後の線が紙の外へ逃げた。


それでも、読めた。


エマはその紙を見て、手紙の下の方を空けた。


「ここに貼る?」


「貼る」


ノラが即答した。


「お兄ちゃんに見せる」


「煙では、見せられないからね」


エマの声は柔らかかった。


わたしはその言葉を、頭の中でゆっくり置いた。


煙は、速い。

でも、消える。


手紙は、遅い。

でも、残る。


(——速い通信と、残る通信)


(——役割が違う)


前世なら、即時の通知とあとで読む文書を分ける。

ここでは、煙と紙だった。


お兄ちゃんに「今、元気?」と聞くには煙がいい。

ノラの揺れた字を届けるには、手紙でなければならない。


エマはノラの紙を乾かすため、窓辺に置いた。

黒い炭の字が、朝の光で少しだけ銀色に見えた。


◇◇◇


昼前、父とわたしはハーラム町へ向かった。


鞄の中には、エマの手紙。

ノラの「げんき」。

それから、ヤンさんに渡す新しい読み取り板。


昨日の板より大きい。

文字も太くした。

短い間と字の間と言葉の間。

それぞれ違う長さの刻みで入れてある。


道の土は少し乾いていた。

昨日より足は軽い。

でも鞄の中の手紙が、歩くたびに背中で揺れた。


「煙だけでは足りなかったな」


父が言った。


「うん」


「だが、煙がなければ昨日の返事は分からん」


「うん」


父は前を向いたまま続けた。


「どちらも要る」


その短い言葉で、さっきの紙と煙が同じ机の上に並んだ気がした。


◇◇◇


ハーラム町西側の狼煙台に着くと、ヤンさんは皿の横で木片を削っていた。


皿には火が入っていない。

代わりに、地面の上へ短い線と長い線が何本も引かれていた。


短長。

短。

長短。


昨日の「げんき」だった。


「覚えてるんですか」


「三つだけならな」


ヤンさんは木片を削る手を止めずに言った。


「だが、これは駄目だ」


「駄目?」


「俺が覚えるだけならいい。あの兄ちゃんも読めた。だが、ほかの見張りに渡すには足りん」


父が鞄から新しい読み取り板を出した。


「これを持ってきた」


ヤンさんは板を受け取った。

表面を指で撫でる。

太い指の腹が、刻みのところで止まった。


「短い間。字の間。言葉の間」


「はい」


「刻みはいい」


ヤンさんはそう言って、板を横にした。


「だが、字が多い」


「まだ三つです」


「嬢ちゃんには三つだ。字を知らん見張りには、三つでも多い」


わたしは言葉を止めた。


字を知らない見張り。


考えていなかったわけではない。

でも昨日、ヨハンに読ませた時は、字が読める人だけを相手にしていた。


(——読める人のための板)


(——読めない人には、まだ板じゃない)


ヤンさんは削っていた木片を見せた。


そこには字がなかった。


短い線と長い線。

その横に、煙の形を真似た小さな刻み。

最後に、指を置くための丸いくぼみ。


「このくぼみから始める。短い煙が見えたらここを一つ進める。長い煙なら二つ進める。字が読めなくても、手が場所を覚える」


父が少しだけ身を乗り出した。


「読み札か」


「名前は知らん」


ヤンさんは肩をすくめた。


「素人にも使える符号にしたい。読めるやつだけが読める煙じゃ、見張りの仕事にならん」


その言葉で、昨日の青い布が少し遠くなった。


あれは、お兄ちゃんに届いた。

でもそれだけでは終わらない。


お兄ちゃん以外の誰かも、いつか同じ煙を読む。

字を知らない人も、夜番の新人も、目のいいだけの若者も。


その人たちの手に渡るなら、符号は紙の上のきれいな表だけでは足りない。


◇◇◇


わたしは膝をついて、ヤンさんの木片を見た。


炭で書いた線は太い。

まっすぐではない。

でも、指を置くくぼみは分かりやすかった。


「これ、もう少し長くできますか」


「何を」


「字の間です。手で進めるなら、戻る場所が要ります」


ヤンさんは少し黙った。


それから、木片の横に小刀で一本、深い溝を入れた。


「ここで戻す」


「はい」


父が小さく頷いた。


「なら、板を二種類作る。字が読める者用と、手で追う者用だ」


「二つも要るのか」


「一つで全部やると、見づらい」


ヤンさんは板と木片を見比べた。


「面倒だな」


「はい」


わたしが答えると、ヤンさんは喉の奥で笑った。


「昨日よりは、ましな面倒だ」


風が皿の上を通った。

煤の匂いが少しだけ動く。


わたしは鞄の中の手紙を思い出した。

ノラの曲がった「げんき」は、今からヨハンの手に渡る。

ヤンさんの粗い木片は、これから見張りの手に渡る。


どちらも、きれいではない。

でも、誰かが読むための形をしていた。


「ヤンさん」


「何だ」


「この符号、もっと使えるようにします」


「当たり前だ」


ヤンさんは新しい読み取り板を皿の横へ立てかけた。


「俺にも読ませるんだろ」


わたしは頷いた。


板の下で、短い線と長い線が昼の光を受けていた。


昨日はお兄ちゃんへ届いた線。

今日は、知らない誰かの手に渡るための線になり始めていた。


■あとがき・解説


第105話は、狼煙通信が成功したあとも、手紙が必要であり続けることを描く回でした。


今回は「速い通信と残る通信」「使う人に合わせた道具」「読み札」についてゆるく書いていきます。


■この話で出てきた言葉


■「速い通信と残る通信」——役割の違い


狼煙はすぐ届きます。

けれど煙なので、あとには残りません。


一方で手紙は届くまで時間がかかりますが、手元に残して読み返せます。

現代でも通知やチャットと、あとで読む文書を使い分けるように、通信手段にはそれぞれ向いた役割があります。


■「使う人に合わせた道具」——読める人だけの表では足りない


リナが作った読み取り板は、字を読める人には分かりやすい道具です。

でも、現場には字を読むのが苦手な見張りもいます。


ヤンの指摘は、技術が「作れる」だけではなく「使える」形になっているかを問うものです。

これは道具づくりでとても大事な視点です。


■「読み札」——手で追うための工夫


ヤンが作り始めた木片は、符号を目だけでなく手でも追えるようにする道具です。

短い煙と長い煙と間を、指の動きとして覚えられるようにする工夫です。


まだ粗い試作ですが、ここから「信号士」という仕事の道具へ育っていきます。


次の話もお楽しみに。


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