第106話 光信号への発想
雨の日の朝、台所の窓は白く曇っていた。
屋根を叩く音が細かく続いている。
麦畑の向こうは霞んで、ハーラム町へ続く道も途中で消えていた。
ノラは椀を両手で持ったまま、窓の外を見ていた。
「ねぇね」
「なに?」
「今日、煙、見える?」
わたしはすぐには答えられなかった。
一昨日の空に上がった「げんき」は、青い布で返ってきた。
けれど今日の空は低い。
煙を上げても、雨に叩かれて薄く広がるだけかもしれない。
「雨だと、難しいと思う」
「お兄ちゃん、見えない?」
「今日は送らないよ」
そう言ってから、胸の中が少し引っかかった。
送らない。
それは、今は困らないという意味でしかない。
でも本当に困った時が雨なら。
夜なら。
(——煙は、空が読める時だけ動く)
(——空が閉じたら、止まる)
エマが鍋の蓋をずらした。
湯気が白く立つ。
窓の外の白さと、鍋から上がる白さが似て見えた。
父は椀を置いて、外を見た。
「今日はヤンに聞いてくるか」
「はい」
「雨の日に使えん道具は、雨の日の仕事を知らん」
父はそれだけ言って、椀を持ち直した。
◇◇◇
昼前、雨は細くなった。
道の土は柔らかい。
靴の裏に泥がつき、歩くたびに小さく音を立てた。
父はいつもの鞄に読み取り板と読み札を入れている。
わたしは雨避けの布を肩にかけた。
布の端から落ちる水が、手の甲に冷たく当たる。
ハーラム町西側の狼煙台に着くと、皿は濡れて黒く光っていた。
ヤンさんは屋根の下で、湿った草を手に取っていた。
火は入っていない。
薪も草も、皿の横で濡れた匂いを出している。
「今日は上げんぞ」
こちらが言う前に、ヤンさんが言った。
「雨だからですか」
「雨だからだ」
ヤンさんは湿った草を軽く握った。
水が一筋、指の間から落ちる。
「これを燃やしても煙は上がらん。白く潰れて、風の下を這う。読む側は、煙か霧か分からん」
父が皿の縁を指で触った。
煤と水が混じって、黒い筋がつく。
「晴れを待つしかないのか」
「普通はな」
ヤンさんはそう言って、今度は空を見た。
「それと夜だ」
「夜」
「煙は暗いところじゃ読めん。火の色は見えるが、煙の長さは分からん。長い煙か、ただの火の揺れかも見分けづらい」
わたしは濡れた皿を見た。
短い煙。
長い煙。
字の間。
言葉の間。
その全部が、見えなければただの空気になる。
(——符号は、見えないと消える)
(——手順があっても、読める形にならない)
昨日作った読み札を、ヤンさんが懐から出した。
濡れないよう、布で包んであった。
「こいつは悪くない」
木片の溝に、ヤンさんの親指が置かれる。
「だが、煙が見えん日は使えん」
「はい」
分かっていた。
それでも、実際に雨の皿を前にすると別の重さがあった。
◇◇◇
ヤンさんは読み札を木箱の上に置いた。
「見える日は、これでいい。短いのが来たら一つ。長いのが来たら二つ。間で戻す」
親指が溝を進む。
ゆっくりだが、迷いはない。
「でも雨の日は、親指だけが動いて、空には何もない」
「その通りだ」
ヤンさんはわたしを見た。
「嬢ちゃん。煙の代わりはあるか」
その問いは、湿った草より重かった。
わたしはすぐに答えられなかった。
煙の代わり。
音。
旗。
火。
灯り。
頭の中で、いくつかの候補が並ぶ。
音は遠くまで届きにくい。
旗は昼なら見えるが、雨と夜に弱い。
火は見える。
でも火そのものを長くしたり短くしたりするのは、煙より危ない。
(——短い、長い)
(——それを見せられれば、煙でなくてもいい)
父が濡れた遮蔽板を持ち上げた。
板の端から水が落ちる。
「隠す板は、そのまま使えるか」
「何を隠す」
ヤンさんが聞いた。
父は答えなかった。
まだ形になっていないからだ。
わたしも、まだ言葉にできなかった。
「帰って考えます」
そう言うと、ヤンさんは短く頷いた。
「考えろ。雨の日にも夜にも、お兄ちゃんは見張りに立つ」
その一言で、ノラの朝の声が戻ってきた。
お兄ちゃん、見えない?
わたしは読み札を布で包み直した。
◇◇◇
家に戻る頃には、雨は止んでいた。
でも夕方の空はまだ厚い雲を抱えている。
家の中はいつもより早く暗くなり、エマが台所の小さな灯りに火を移した。
ノラは床に座って、乾かしていた自分の紙を見ていた。
昨日書いた「げんき」の字は、少し薄くなっている。
「ねぇね」
「うん」
「雨、煙、だめ?」
「うん。だめな日がある」
「夜も?」
「夜も、煙は見えにくいって」
ノラは口を結んだ。
それから、台所の灯りを見た。
小さな火が、土の器の中で揺れている。
壁に、その光が丸く映っていた。
ノラは自分の両手を灯りの前に出した。
ぱっと開く。
壁が明るくなる。
ぎゅっと閉じる。
壁が暗くなる。
もう一度、ぱっと開く。
「煙と同じ?」
その言葉に、わたしの背筋が伸びた。
壁の光は、ノラの手で短く消えた。
また現れた。
火は同じ場所にある。
変わっているのは、隠すものだけ。
(——煙を隠す板)
(——光を隠す板)
同じだ。
煙を長く見せるか、短く見せるか。
光を長く見せるか、短く見せるか。
見せるものが違うだけで、符号は同じ場所に残っている。
布と時計で、板を動かすことはできる。
狼煙で一度やった。
でも光は、まだ壁に映った丸でしかない。
どれくらい明るくするのか。
どんな板で隠すのか。
どこを引けば、同じだけ開くのか。
そこが決まらないまま布をつなげば、布は毎回違う光を出してしまう。
(——手でも、機械でも、同じ板を動かす)
(——先に、動かす入口を決める)
「ノラ、もう一回」
「うん」
ノラが手を開く。
すぐ閉じる。
少し長く開く。
また閉じる。
壁に、短い光と長い光が並んだ。
エマが鍋の横で手を止めた。
父は工房の入口に立ったまま、何も言わずに壁を見ている。
「短い光」
わたしは呟いた。
「長い光」
父が静かに頷いた。
「煙でなくても、短長は作れる」
「はい」
喉の奥が乾いた。
十一歳の身体の指先が、寒さではない震えを覚える。
でも今度は、走り出さなかった。
まず、紙。
まず、線。
◇◇◇
わたしは机に向かった。
紙の左に、煙、と書く。
右に、光、と書く。
その下に、同じ符号を並べた。
短長 げ
短 ん
長短 き
煙の列にも、光の列にも、同じ三つの符号が置けた。
(——符号は、煙に住んでいるんじゃない)
(——見えるものに、載せられる)
父が横から紙を覗いた。
「塔が要るな」
「塔?」
「低い灯りでは、遠くから見えん」
それは、答えではなく次の問題だった。
高い場所。
雨を避ける屋根。
遠くから見える灯り。
隠す板。
読む人。
問題がいくつも並ぶ。
でも、怖くはなかった。
ノラが壁の前で、まだ手を開いたり閉じたりしている。
短い光。
長い光。
その明るさが、紙の上の線と同じリズムで揺れていた。
■あとがき・解説
第106話は、狼煙の弱点から光信号の発想へ進む回でした。
今回は「雨と夜の通信」「媒体」「光信号」についてゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「雨と夜の通信」——煙が読めない条件
狼煙は、煙がはっきり見えることが前提の通信です。
雨の日は煙が潰れたり霧と混ざったりします。
夜は火は見えても、煙の長さを読むのが難しくなります。
道具は成功したあとに、使えない条件を見つける必要があります。
第106話では、ヤンがその現場の限界を示しました。
■「媒体」——同じ符号を載せるもの
短い煙と長い煙で作った符号は、煙そのものではありません。
短いものと長いものを区別できれば、光や音や旗にも同じ考えを載せられます。
現代の通信でも、文字そのものと、それを運ぶ電波や光や紙は別のものです。
リナはここで、その分離に気付き始めています。
■「光信号」——煙の次の形
光信号は、灯りを見せたり隠したりして短長を作る通信です。
煙より夜に強く、遠くからも見えやすい可能性があります。
ただし遠くへ届けるには、高い場所と強い灯りが要ります。
雨を避ける構造と、読む人の訓練も必要です。
次の課題は、光をどこからどう見せるかです。
次の話もお楽しみに。




