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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑥「世界が、見つける」

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104/211

第104話 狼煙のリファクタ

狼煙台の皿は、朝の光の中でも黒かった。


縁に残った煤が、指で触れば粉になりそうに乾いている。

その下に、昨日見つけた小さなくぼみがあった。


わたしは鞄の紐を握り直した。

肩にかかった重みが、昨日より少しだけ強い。


中には試し布。

短い煙と長い煙を覚えた布。

それから、お兄ちゃんに読んでもらう小さな板。


(——今日は、机じゃない)


(——空で読む)


父は皿の横に膝をつき、木枠を置いた。

昨日の細い棒は、軸につながっている。

軸の横には小さな歯車。

歯車の後ろには、エマが織った試し布が丸く巻かれていた。


木枠の足は、皿の石台に革紐で縛る。

父が紐を引くたびに、革がきしんだ。

わたしは反対側を押さえる。


石台は冷たかった。

指の腹に、煤の粉がつく。


(——ここがずれたら、全部ずれる)


机の上なら、装置をもう一度置き直せる。

でも狼煙台では、皿も魔石も風も動かせない。

機械の方が、現場に合わせて小さく身を縮めるしかなかった。


ヤンさんは腕を組んでそれを見ている。


「これが、勝手に押すのか」


「勝手に、ではないです」


わたしは首を横に振った。


「時計の拍に合わせて、布が次の目を出します。穴があるところで、棒が少し進みます」


父が短く補った。


「詠唱はあんたに頼む。石が熱を返した後だけ、こいつが押す」


ヤンさんは眉を寄せた。


「面倒な手だな」


「はい」


「でも、俺の手よりは同じに動くか」


その言い方は、少しだけ面白がっているように聞こえた。


◇◇◇


丘の下に、ハーラム町の屋根が見えた。


自警団の詰所の屋根だけは、昨日ヨハンと決めた通り小さな青い布が結ばれている。

遠くて顔までは見えない。

でも、屋根の端に立っている人影が一つあった。


「お兄ちゃん」


声にはならなかった。


昨日の帰り、わたしたちは詰所へ寄った。

ヨハンは夜番の前で、まだ革の胸当てを外していなかった。


父が読み取り板を差し出すと、ヨハンは最初にわたしの顔を見た。


「げんき、だけか」


「うん。最初は、それだけ」


「読めなかったら?」


「青い布を振らないで」


そう言うと、ヨハンは少し困った顔をした。


「それは、嫌だな」


「でも、その方が分かります」


ヨハンは板の三つの符号を、口の中で何度も繰り返した。

短長。

短。

長短。


最後に青い布を受け取り、胸当ての紐へ挟んだ。


「読めたら、大きく振る」


その言葉が、今朝の屋根の上に立っていた。


父が、わたしの横で小さな板を広げた。

昨日の夜に書き直した読み取り板だ。


上の端には、昔からある狼煙の合図。


 長   敵あり

 長長  異常なし

 短短短 集まれ


その下に、新しい三つ。


 短長  げ

 短   ん

 長短  き


字は大きくした。

お兄ちゃんが屋根の上で、風に煽られながらでも読めるように。


「短いのと長いのだけで、本当に字になるのか」


ヤンさんが板を覗き込む。


「今日は三つだけです」


「三つだけでいいのか」


「最初は、読めることが大事です」


ヤンさんは鼻で息を吐いた。


「煙は欲張ると読めなくなる」


「はい」


その言葉は、昨日より胸に落ちた。


◇◇◇


父が軸を少しだけ回した。


かち。


布が一目進む。

小さな針が布の穴に落ちる。

落ちた針が横の板を押し、板が棒の根元をほんの少し押す。


父は動きを止めた。


「ここで触れる」


木の先が魔石のくぼみにそっと当たった。


まだ押さない。

昨日ヤンさんに叱られた場所だ。


ヤンさんが皿のそばにしゃがんだ。

腰の筒から細い粉を取り、薪の端へ落とす。


「詠唱は俺だ」


「はい」


「嬢ちゃんも父さんも、手を出すな」


「はい」


ヤンさんの声が低くなる。

短い詠唱が、皿の下へ沈んだ。


魔石の赤茶色が、少しだけ深くなる。


かち。


時計が一拍を刻む。


かち。


木の先は、くぼみに触れたまま動かない。


かち。


父の指が、安全のための止め金にかかっている。

でも、押してはいない。


かち。


布の穴に針が落ちた。


軸が、ほんの少し進む。

木の先がくぼみの縁にかかり、奥へ沈んだ。


ぱち。


皿の下で火が起きた。


湿った草から、白い煙が上がる。

ヤンさんが目を細めた。

父は止め金から指を離さない。


(——詠唱は、ヤンさんの声)


(——押したのは、機械)


(——ここから先は、布)


わたしは息を吸った。

煙の匂いが喉に入って、少し咳が出そうになった。


◇◇◇


遮蔽板が上がった。


白い煙が、空へ細く伸びる。


かち。


板が落ちた。

煙が切れる。


短い。


かち。


また板が上がる。

今度は少し長い。


長い。


板が落ちた。

一文字目が終わるだけの間が空く。


(——げ)


指先が板の端を掴んだ。


空に字が出ている。

それは紙の上の線よりずっと頼りなく、風に少し揺れていた。


でも、短い煙と長い煙に見えた。


「風は悪くない」


ヤンさんが言った。


父は黙って頷いた。


次は短い煙だけ。


板が上がる。

すぐに落ちる。


(——ん)


短い間。


最後は長い煙と短い煙。


板が上がる。

白い煙が伸びる。

少し待って、板が落ちる。


また上がる。

すぐ落ちる。


(——き)


わたしの中で、三つの音が並んだ。


げ。

ん。

き。


紙の上で何度も見た言葉。

ノラが指で押さえた言葉。

母が布に織った言葉。

父が木と歯車にした言葉。


それが今、空に上がっている。


◇◇◇


狼煙が消えると、丘の上に急に静けさが戻った。


薪の端だけが小さく赤い。

父が火を弱め、ヤンさんが湿草を脇へ寄せる。


わたしは町の屋根を見た。


青い布のそばの人影は、動かなかった。


一拍。

二拍。


胸の奥が冷たくなる。


(——読めなかった?)


(——間が短かった?)


(——風で崩れた?)


頭の中で、失敗の候補が勝手に並ぶ。

布の穴。

板の重さ。

煙の量。

お兄ちゃんの位置。


その時、屋根の上の人影が両腕を上げた。


小さな青い布が、左右に大きく振られる。


一度。

二度。

三度。


ヤンさんが低く笑った。


「読んだな」


父が何も言わず、わたしの肩に手を置いた。


手の重みが来た瞬間に、膝から力が抜けそうになった。

わたしは慌てて足を踏ん張る。


十一歳の体は、こういう時にすぐ震える。

前世の頭の中では、成功ログを見た時の静かな安堵に近いはずだった。

でも今は、喉の奥が熱くて、目の前の屋根が少し滲んだ。


「届いた」


声にすると、ただそれだけだった。


「お兄ちゃんに、届いた」


父の手が、肩の上で一度だけ強くなった。


◇◇◇


昼前の風で、最後の煙が薄くほどけていった。


ヤンさんは皿の煤を見ながら、読み取り板を指で叩いた。


「俺にも一枚作れ」


「え」


「これがないと読めん。あの兄ちゃんだけが読めても困る」


父が短く息を吐いた。


「もっと大きい字にするか」


「字もだ。あと、間の印を入れろ。短い間と、字の間と、言葉の間。見張りは煙を見てる時に頭で数える。数えるものは、板に書いておけ」


わたしは板を見た。


さっきまで、これはお兄ちゃんに読んでもらうための板だった。

でもヤンさんの手に渡れば、見張りの道具になる。


(——読む人の道具)


(——送る機械だけじゃ、足りない)


空を通った「げんき」は、町の屋根へ届いた。

けれど明日も明後日も、別の人が読めるようにするには、まだ直すところがある。


わたしは板の余白に、小さく線を引いた。


短い間。

字の間。

言葉の間。


ヤンさんがそれを覗き込み、少しだけ口の端を上げた。


丘の下で、青い布がもう一度振られた。


わたしは読み取り板を胸の前で抱えた。

机の上で生まれた「げんき」は、今、屋根の上のお兄ちゃんの手に返事をさせていた。


■あとがき・解説


第104話は、狼煙が「決まった合図」から「文字を送る仕組み」へ変わる回でした。


今回は「リファクタ」「半自動」「読む側の道具」についてゆるく書いていきます。


■この話で出てきた言葉


■「リファクタ」——意味を変えずに作り直すこと


リファクタは、プログラムの外から見える動きは保ったまま、中の形を整理して扱いやすくする考え方です。


今回の狼煙も、煙を上げるという外見は同じです。

ただし中身は、決まった合図を丸暗記する方式から、短い煙と長い煙を組み合わせて文字を送る方式へ変わりました。


■「半自動」——人の詠唱と機械の手


この世界の魔石は、勝手に動く電池ではありません。

今回も詠唱はヤンが担当しています。


機械が担ったのは、起動待ちになった魔石を正しい拍で押すことと、遮蔽板を動かして煙を切ることです。

つまり完全自動ではなく、人の手順を機械が一部だけ安定させる半自動です。


■「読む側の道具」——通信は届いて終わりではない


通信は、送る側だけでは成立しません。

ヨハンが読めたから成功ですが、次に別の見張りが読むなら、同じ符号表と間の数え方が必要になります。


ヤンが「俺にも一枚作れ」と言ったのは、ここが現場の道具になり始めた合図です。


次の話もお楽しみに。


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