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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑥「世界が、見つける」

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103/211

第103話 ヤンの協力

朝の道は、昨日より冷たかった。


萌の月の風は柔らかくなっているはずなのに、丘へ向かう道ではまだ指先が冷える。

わたしは袖の中で手を握ったり開いたりしながら、父の少し後ろを歩いた。


鞄の中では、試し布と小さな板がかすかに揺れている。


机の上では読めた「げんき」。

でも、空にはまだ一文字も出ていない。


(——机の上では、聞けた)


(——でも、煙にはなっていない)


父はいつもよりゆっくり歩いていた。

わたしの歩幅に合わせているのだと分かる。


「足は」


「大丈夫」


「痛くなったら言え」


「うん」


それだけの会話だった。

けれど、父の鞄には細い木の棒と小さな金具が増えていた。

昨日、魔石にうまく触れなかった棒の先を作り直すためのものだ。


◇◇◇


ハーラム町西側の狼煙台に着くと、ヤンさんはすでに皿のそばにいた。


皿の縁には煤が厚くついている。

湿った草の匂いと、昨日残った煙の匂いが混ざっていた。

丘の下では町の屋根が薄く光っている。


「来たか」


ヤンさんは、わたしたちを見るなり言った。


「今日は火遊びか」


「火遊びではないです」


「火をつける話だろ」


「……はい」


ヤンさんは喉の奥で笑った。


父は挨拶だけして、皿の下の魔石を見た。

昨日見た台所の古い魔石より大きい。

赤茶色の石の一部に、指の腹ほどの小さなくぼみがあった。


「そこ」


わたしが言う前に、ヤンさんが指差した。


「昨日はそこを押しても点かなかったんだろ」


「はい」


「そりゃ点かん」


短い言葉だった。

胸の奥が少しだけ縮む。


「押すだけじゃないんですか」


「押すだけなら、誰でもできる」


ヤンさんは腰の筒を外した。

中から細い粉を少しだけ皿の端へ落とす。

それから、右手の親指を魔石のくぼみに置いた。


「見るなら、手を見るんだ」


「はい」


◇◇◇


ヤンさんの親指は、すぐには動かなかった。


くぼみに指を置いたまま、短く息を吸う。

小さく詠唱する。

そのあと、ほんの少し待つ。


火はまだ出ない。


「今」


ヤンさんが言った。


親指の下の魔石が、かすかに色を変えた。

赤茶色の奥に、小さな熱が沈んだように見えた。


次の瞬間、ヤンさんの親指がくぼみの奥へ沈む。

押す、というより、奥へ引っかけてから少しだけずらす動きだった。


皿の下で、ぱち、と乾いた音がした。

薪の端に小さな火がつく。

湿った草から白い煙が上がった。


「今の」


思わず声が出た。


「もう一度お願いします」


ヤンさんは眉を寄せた。


「火がついたぞ」


「手順を見たいです」


「嬢ちゃんは、火じゃなく、点くまでが見たいのか」


「はい」


父が横で小さく頷いた。


ヤンさんは面倒そうに皿の薪を外し、火を消した。

それから、もう一度魔石の前にしゃがんだ。


◇◇◇


二度目は、父も近くで見た。


「指を置く」


わたしは紙に書いた。


「詠唱」


「待つ」


「熱」


「押す」


ヤンさんが顔をしかめる。


「そんな順番じゃない」


「違いますか」


「置く。息を入れる。石が返す。返したら、押す」


わたしは紙の上で炭筆を止めた。


息を入れる。

石が返す。


言葉としては曖昧だった。

でも、ヤンさんの手は曖昧ではない。


くぼみに親指を置く。

短く詠唱する。

指の腹がほとんど動かないまま、少し待つ。

魔石が温まる。

温まってから、親指が奥へ沈む。


(——入力が二段階)


(——触れるだけじゃなく、返ってきた後に押す)


前世の機械なら、信号を待つ。

準備完了の印を受け取ってから、次の命令を出す。


けれど、ここにランプはない。

あるのはヤンさんの親指の腹だけだった。


「熱くなるんですか」


「少しな」


「どこが」


ヤンさんは自分の親指を見た。


「ここ」


指の腹の真ん中ではない。

少し右寄り。

爪の近くでもない。


「くぼみの奥ですか」


「奥というか、縁だ」


父が皿の下から魔石を覗き込んだ。


「縁」


「真ん中を押しても駄目だ。端にかけて、石が温まったら沈める」


父はその言葉を聞いて、鞄から細い木の棒を取り出した。


棒の先は丸く削られている。

昨日より少し平たい。


「これでは」


ヤンさんは棒の先を見て、首を振った。


「真っ直ぐすぎる」


「真っ直ぐ」


「指は真っ直ぐじゃない」


そう言って、ヤンさんは自分の親指を見せた。

硬くなった皮。

煤で黒くなった爪。

くぼみに何度も触れてできた、小さな盛り上がり。


「ここが引っかかる」


父は棒の先とヤンさんの親指を交互に見た。


「なら、先を斜めにする」


「斜め?」


「縁にかける面を作る」


父は短く言うと、腰の小刀を抜いた。


◇◇◇


父が棒を削っている間、わたしはヤンさんの手をもう一度見せてもらった。


火はつけない。

詠唱も小さく、途中で止める。

魔石がほんの少し温まったところで、ヤンさんは指を離す。


「今の」


「熱くなっただけだ」


「熱くなってから、どれくらいで押していますか」


「どれくらい」


ヤンさんは困った顔をした。


「手が知ってる」


その言葉で、昨日の母の声を思い出した。


手が勝手に探しているだけよ。


(——また、手だ)


(——でも、今回は見ている人がいる)


わたしは小さな振り子時計を出した。

小さな板の間を数えるために使っている時計だ。


「この音で数えてもいいですか」


「勝手にしろ」


父が棒を削る音の横で、わたしは振り子を弾いた。


かち。


ヤンさんがくぼみに指を置く。


かち。


短い詠唱。


かち。


指が止まる。


かち。


魔石が温まる。


かち。


親指が沈む。


「四つ」


「何が四つだ」


「音です。触れてから、押すまで」


ヤンさんは肩をすくめた。


「風が強けりゃ違う」


「はい」


「石が冷えてても違う」


「はい」


「湿った薪でも違う」


「はい」


わたしは紙に書いた。


四つ。

ただし、石の熱で確認。

風・冷え・薪で変わる。


数字だけでは足りない。

けれど数字がなければ、機械には渡せない。


◇◇◇


父の棒の先は、少し変な形になった。


丸い棒の先に、小さな平たい面が斜めについている。

親指の腹を、木で真似したような形だ。


父はそれを細い軸に取り付けた。

軸を回すと、棒の先がくぼみの縁へ入り、少し遅れて奥へ沈む。


「押すだけじゃなく、かけてから押す」


父が言った。


「うん」


「待つ時間も要る」


「四つ。最初は四拍で」


「熱を見て変えるのは、まだ無理だ」


「はい」


そこは、悔しかった。


人の指なら、熱が返ったことが分かる。

機械の木の棒には分からない。


(——機械は、熱を知らない)


(——だから、まずは人が合わせる)


全部を自動にするには、まだ足りない。

でも今は、最初の一通が必要だった。


ヨハンに「げんき」を届ける。

机の上ではなく、空に。


「試してみるぞ」


父が言った。


◇◇◇


火を大きくしないよう、ヤンさんが薪を少しだけ置いた。

湿った草はまだ乗せない。


父は軸を手でゆっくり回した。

木の先が魔石のくぼみに触れる。


ヤンさんが皿のそばに膝をついた。


「詠唱は俺がやる。押すな。まだだ」


「はい」


ヤンさんが短く詠唱した。


かち。


触れたまま止める。


かち。


父がわたしを見る。


かち。


わたしは紙の上の四つ目の印を指で押さえた。


かち。


「今」


父が軸を少し進めた。

木の先がくぼみの縁にかかり、奥へ沈む。


ぱち。


皿の下で、小さな火が起きた。


ほんの小さい火だった。

薪の端を一瞬だけ舐めて、すぐに弱くなる。


けれど、火だった。


父は手を止めた。

ヤンさんも、何も言わなかった。


わたしは紙を握ったまま、息をするのを忘れていた。


(——機械の手が、石を起こした)


(——まだ、人の手で回しただけ)


(——でも、押す場所は分かった)


胸の奥が熱くなった。

魔石の熱とは違う、喉の下から上がってくる熱だった。


◇◇◇


夕方、丘の上の風は少し冷たくなっていた。


ヤンさんは皿の煤を払っている。

父は削った木の先を外し、布に包んで鞄へ入れた。


「明日、煙を上げるのか」


ヤンさんが言った。


「まだ調整します」


「嬢ちゃん」


「はい」


「読む方も用意しろ」


その一言で、浮かれていた胸が少しだけ静かになった。


煙が上がっても、読まれなければ届かない。

ヤンさんは最初からずっと、それを言っている。


「ヨハンに、見てもらいます」


「あの自警団の兄ちゃんか」


「はい」


ヤンさんは短く頷いた。


「なら、短くしろ。最初は短い方がいい」


「げんき、だけです」


「それでいい」


父が鞄を肩にかけた。


わたしも紙を畳んだ。

紙には、くぼみの絵と斜めの木の先。

それから、四つの拍が並んでいる。


丘を下りる前に振り返ると、狼煙台の皿は夕方の光を受けて黒く光っていた。


その下に、今日見つけた小さなくぼみがある。


わたしは畳んだ紙を胸の前で押さえた。

明日は、このくぼみから空へ向かう。


■あとがき・解説


第103話は、ヤンの現場知識によって、機械が魔石へ触れるための接続点を見つける回でした。


リナが新しい能力で見抜くのではなく、ヤンの親指が覚えている手順を、父アルベルトと一緒に機械へ写していきます。

今回は「現場の身体知」「点火の二段階」「機械の手」についてゆるく書いていきます。


■この話で出てきた言葉


■「現場の身体知」——言葉より先に手が覚えている知識


ヤンは、魔石のどこをどう触れば点火するかを理屈として説明できる人ではありません。


けれど毎日狼煙台を扱っているので、指の腹が熱や引っかかりを覚えています。


リナはそれを「曖昧だから使えない」と切り捨てず、観察して機械に写せる形へ変えようとしました。


■「点火の二段階」——触れてから押すまでの待ち時間


今回の魔石は、ただ押すだけでは点きません。


くぼみに触れ、詠唱し、魔石がわずかに熱を返してから押す必要があります。


この「待つ」部分があるため、機械側にも拍やタイミングが必要になります。


■「機械の手」——人の指の形を木でまねる


父アルベルトは、ヤンの親指を見て、棒の先を真っ直ぐではなく斜めに削りました。


押す力だけではなく、くぼみの縁にかけてから沈める動きを作るためです。


ここでは完成した自動機械ではなく、人の手順を機械の部品へ翻訳する最初の段階を描いています。


次回は、机の上で読めた「げんき」を実際に煙へ変える山場になります。

次の話もお楽しみに。


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