第10話 妹ノラ
# 第10話 妹ノラ
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プロット参照: plot/arcs/arc-01-discovery.md(サブアーク 1-A 第10話)
作中日時: Day 36(神暦 1234年・萌の月 6 日)
登場キャラ: リナ、妹ノラ、母エマ
言及キャラ: 父アルベルト、兄ヨハン
仕込む伏線: F-PLOT-007(ノラの将来)を強化、リナの覚悟
回収する伏線: なし
想定文字数: 約3000字
ヒキ: 「わたしは、ここで、何かを、作る」
方針: 執着のコミカル + ノラの可愛さ + リナの覚悟の確定。読点は控えめ
注: ノラ3歳。「すごい」はノラがリナに対して初めて差し出した賛美の言葉という再解釈。
重要度: サブアーク 1-A 前半のクライマックス
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兄ヨハンと井戸へ水汲みに行った二日後の午後。
その日の朝、わたしが木の枝と糸で作りたい道具の落書きを父に見せたとき、父は「ふむ」と頷いて、母エマにそれを手渡した。
エマは落書きをしばらく眺めてから、ノラを膝に抱え直して、わたしを見た。
「リナは、ほんとうにすごいね」
エマの声はいつもの調子よりほんの少しだけ高かった。
ノラはエマの膝の上で、その紙をじっと見ていた。
何が描いてあるのかは、たぶん分かっていない。
ただエマの口から出た「すごい」という響きだけが、三歳の耳に届いていた。
——わたしはあの瞬間の、ノラの目を覚えている。
◇◇◇
わたしは居間で妹のノラと二人で留守番をしていた。
母エマは隣の村まで織物を納めに行っている。
父アルベルトは隣の工房で、村長さんから預かった別の鐘時計の修理に取り掛かっている。何かあれば壁越しに呼べる距離だ。
「ねぇね、おなか、すいた」
ノラがわたしの隣に座って、何度もわたしの服の裾を引っ張った。
「ぱん、たべる。ねぇねも、たべる?」
「うん、ノラ、お腹空いたの?」
「うん。いっしょ、たべる」
三歳の妹はもうだいぶ言葉を繋げられるようになっている。
「ぱん」「みず」「ねぇね」「とと」「かか」のような基本語の他に、最近は「いっしょ」「あした」「これなあに」みたいな組み立てもどんどん混ざってくる。
それでも長い文章はまだ難しくて、頭の中で言いたいことが詰まったときには、わたしの裾を引っ張って合図にする。
(……日に日に語彙が増えてくな、この子)
わたしは母エマが朝テーブルに置いていった籠の中のパンを取って、ノラの小さな手に握らせた。
「ありがと」
「上手に言えたね、ノラ」
「ありがと、ねぇね」
二回目はちゃんと相手の名前まで添えてきた。
(……ちょっと前まで『ありが』止まりだったのに)
わたしは笑った。
ノラがパンに噛み付いた。
ちぎれたと思ったら、半分以上口の中に入っていた。
「もごもご……」
「ノラ、ちょっと口の中いっぱい入れすぎ」
「うん、ねぇね」
——変な敬礼みたいな仕草でノラが頷いた。
可愛い、と思った。
思った以上に、胸にくる。
(……あ、いまお母さんがいたら、ぜったい笑ってる)
わたしはこっそり深呼吸した。
◇◇◇
ノラはパンを食べ終わると、ぐずぐずとわたしの膝に寄りかかってきた。
「ねぇね、ねむ」
「お昼寝するの?」
「うん」
「じゃあお母さんが帰ってくるまで、寝てなさい」
「うん」
ノラがわたしの膝の上にころんと頭を乗せた。
三歳児の身体は温かい。
わたしの八歳の膝には少し重いけれど、まだなんとか抱えられる大きさ。
ノラの呼吸がすうすうと規則的になっていく。
眠るのは本当に早い子だ。
わたしはノラの背中を優しくぽんぽんと叩いた。
——前世のわたしは姉妹がいなかった。
——わたしは一人っ子だった。
だからこれはまったく新しい感覚だった。
(——わたしの責任で、守る対象がいる)
そう思った瞬間に、胸がぎゅっとなった。
——わたしが頑張らないと、ノラはどうなるんだろう。
別にいまわたしが頑張らなくても、両親もヨハンもノラをちゃんと守ってくれる。
それは分かっている。
それでも——
(わたしの「眼」が本物で本当にコードを書けるなら)
(わたしのこれからの仕事がノラの世界を変える)
(——ノラが大人になる頃には、わたしの作ったものが彼女の生活を楽にしているはず)
(——だから頑張らないと)
頭の中でまた暴走しかけた。
(待って、わたし)
(まだ何も書いてない)
(まだ机上の空論)
(でも)
ノラの寝顔を見下ろした。
頬がふわふわで柔らかい。
小さな手がわたしのワンピースの裾をしっかり握りしめていた。
寝ているのに、わたしから離れないと決めているみたいに。
——可愛い。
——絶対、守る。
その気持ちがわたしの中で、初めて明確に形を持った。
◇◇◇
どれくらい経っただろう。
うとうととわたし自身も舟を漕ぎ始めた頃、
ノラがふと寝言を呟いた。
「……ねぇね……」
「……うん?」
ノラの目はまだ閉じていた。
寝言だ。
「ねぇね……すごい……」
——え?
わたしはノラの顔をまじまじと見つめた。
ノラの口がもう一度動いた。
今度ははっきりと寝言ではなく、目を半分開けていた。
「ねぇね、すごい」
——その言葉に、わたしの呼吸が止まった。
「ねぇね、すごい」
ノラはもう一度繰り返した。
眠そうな目をわたしに向けて。
ノラに「ねぇね」と呼ばれたことは、もう何百回もある。
何かを「ちょうだい」と言われたことも、「いっしょ」と言われたことも、ある。
——だけど。
ノラがわたしのことを「すごい」と言ったのは、これが初めてだった。
——わたしの中で何かが決壊した。
「ノラ……いまの、わたしのこと?」
「ねぇね、すごい」
ノラは何度も繰り返した。
たぶん寝ぼけているせいで、自分が何をしているかまだよく分かっていない。
それでも、それは確かに——ノラが初めてわたしに向けて差し出してくれた、はっきりした賛美の言葉だった。
(……いつのまにこの子)
(『すごい』って言葉を覚えてた)
(——どこで聞いたんだろう)
(……お父さんかお母さん? お兄ちゃん?)
(……たぶん誰かがわたしのことを「すごい」って言ってるのを聞いたんだ)
(それを真似て、わたしに、返してくれた)
頭の中で勝手に推理が始まった。
(……ちょっと止まれ、わたし)
(今、感動の瞬間だから)
(今は、ちゃんと受け止めるところだ)
「ノラ、ノラ、ノラ、ありがとう、ノラ」
わたしは寝起きのノラを抱きしめた。
「ねぇね、苦しい」
「ごめんごめんごめん。ありがとう、ノラ、ありがとう」
「ありがと、ねぇね」
「ねぇね、うるさい」
ノラがわたしの腕の中で笑った。
わたしはもう、何が何だか分からなくなった。
ノラを抱きしめながら、目の奥が急に熱くなって、
そして、わたしは——
(——わたしはここで生きていく)
頭の中の独白がようやく文章としてまとまった。
(——わたしはここで何かを作る)
(——お父さんが機械を作るように)
(——お母さんが織物を作るように)
(——お兄ちゃんが剣で家族を守るように)
(——わたしも、わたしの仕事をする)
(——コードを書く。魔法を書き換える)
(——みんなが楽になる世界を作る)
ノラがわたしの腕の中でもぞもぞと動いた。
「ねぇね、ぱん」
「えっ、また? さっき食べたでしょ」
「うん、ぱん」
「もう一個?」
「うん」
——お腹空きすぎでしょ。
わたしは笑った。
泣くより前に笑えた。
ノラの頭を優しく撫でた。
(——わたしはここで、何かを作る)
もう一度心の中で確認した。
その瞬間にわたしの中で、八歳のリナと三十三歳の愛田莉奈がようやく一つになった気がした。
三歳のノラはわたしの膝の上で、もう一度「ぱん、ぱん」と繰り返していた。
夕方の光が窓から差し込んできて、居間を優しい橙色に染めていた。
■あとがき・解説
ここまでの章の前半のクライマックスでした。妹ノラがリナに向けて初めてはっきりした賞賛の言葉を口にした瞬間、リナの中で何かが決壊します。今回はその場面に隠れていた技術的な視点をご紹介します。
■この話で出てきた言葉
■「文法木(構文木)」
言葉を「主語」「述語」「目的語」のような部品に分解して、木の形で表したものを「文法木」または「構文木」と呼びます。たとえば「ねぇねがすごい」という文は、「ねぇね(主語)」と「すごい(述語)」という二つの枝に分かれた、小さな木として表現できます。第6話で紹介したAST(抽象構文木)と兄弟のような概念です。コンピュータが人間の言葉を理解するときも、まずこの木の形に分解するところから始まります。
■「構文解析」
文を文法木に分解する作業のことです。英語では「パーシング(parsing)」と呼びます。プログラミング言語でも自然言語でも、コンピュータが言葉を扱うときには必ず構文解析が走っています。第10話でノラが「ねぇね、すごい」とリナへ向けてまっすぐ言葉を投げた瞬間、リナの頭の中で「ノラの脳の中で構文解析が起きてる」というエンジニア解説が始まったのは、まさにこの理由です。三歳児の脳が日々の生活の中で「単語を組み合わせて感情を伝える」ことを獲得していく過程――それは、リナの目にはコンパイラが少しずつ自我を獲得していくような大事件として映ったのです。
■「言語獲得」
人間の赤ちゃんが、誰にも教えられていないのに、周りの大人の言葉を聞いているだけで自然に言語を覚えていく現象を「言語獲得」と呼びます。最初は単語一個、次に二語文、そして三語文へ。この階段の登り方には、世界中どの言語でも驚くほど似たパターンがあります。三歳のノラはすでに三語文・四語文を日常的に組み立てる段階に入っていて、その語彙の中に「ねぇねを褒める言葉」が現れた――リナが「文法構造の獲得」と呟いたのは、その「対象に向けた肯定表現」の出現を、自分の専門の言葉で受け止め直した瞬間でした。
そしてプログラミング言語の学習にも、この「言語獲得」の研究から得た知見が応用されています。
ノラの「ねぇね、すごい」は、リナにとって生まれて初めて家族から正面から届いた肯定でした。まだ何も作っていないのに、隣で眠っていた妹がそれを先に届けてくれた――そんな回でした。
次の話もお楽しみに。




