第9話 兄との対話
母エマの織物部屋を覗いた、その翌日。
わたしはまた眠れなかった。
(再利用——量産——配布——再利用——量産——配布——)
頭の中で結び目の紐がぐるぐる回るイメージが止まらない。
たぶんわたしの脳内で何かがずっと何かを計算し続けている。
ありえない速度で。
バックグラウンドで。
——眠らせて、わたし。
——お願い、せめて寝る時くらいは。
(再利用——量産——配布——)
——だめだ。止まらない。
わたしは寝床からもぞもぞと抜け出した。
屋根裏の窓から、薄い夜明けの光が差し込んでいた。
◇◇◇
家族の中で一番早く起きるのはたぶん父アルベルトだった。
その次が母エマ。
そしてその次が——
「リナ? 起きたのか」
ヨハンが目をこすりながら屋根裏に上ってきた。
朝の手伝いで井戸の水を汲みに行く前に、妹たちの寝顔を見にきたのだろう。
兄はすでに服を着替えていた。
五歳上の十三歳。十三歳とは思えないくらい自分の役割をきちんと果たしている。
「お兄ちゃん、おはよう」
「……おはよう、リナ。早いな」
「うん。お兄ちゃん、お水汲み?」
「ああ。ちょうど行こうとしてた」
ヨハンはわたしの目をじっと見た。
「お前、寝てないだろ。目の下が変な色だぞ」
「え、う、嘘」
「嘘じゃない」
兄がわたしの顔を覗き込んだ。
本当に心配そうな目だった。
——大人びてる、と思った。
前世のわたしが知っている十三歳の子供と、ヨハンはずいぶん違う。
たぶんこの世界では子供が早く大人びる。働く必要があるから。守る必要があるから。
「お兄ちゃん、わたしもついてっていい?」
「井戸まで? ノラが起きたら、誰が見るんだ」
「お母さんいるよ」
「……まあ、いいか」
ヨハンが肩をすくめた。
◇◇◇
外はまだ半分、夜だった。
東の空が紫色から薄い橙色へとゆっくり変わり始めている。
草の上に霜が降りていた。冷たい空気が頬を刺す。
兄は桶を肩にかけている。
わたしはその後ろをちょこちょことついていった。
井戸までの道はわたしの八歳の足にもまだ少し長い。
「リナ、寒くないか」
「だいじょうぶ」
「強がるな。寒かったら抱っこしてやる」
「だいじょうぶ。ほんとに」
——強がっていた。
本当はちょっと寒かった。
だけどそれよりわたしには聞きたいことがあった。
(整理してから聞こう)
頭の中で自分に言い聞かせる。
ヨハンに「魔力なき者の人生について教えて」とはいきなり言えない。
(完全に職業病だな、これは)
何かを誰かに頼みごとするとき頭の中で勝手に手順が組み上がる癖は、たぶん前世の名残だった。
最初に状況を共有して、次に質問を投げて、相手の反応で次の出方を決める。仕事のミーティングみたいだ。
(……八歳児の振る舞いとして、自然なところに着地させないと)
自分で笑った。
◇◇◇
井戸の前に着いた。
ヨハンが桶を釣瓶に結びつけた。
ガランガランと桶を井戸の底に下ろしていく。
——朝の静かな音だった。
「お兄ちゃん」
「ん」
「あのね」
「うん」
「……魔力なき者でも、何かできることあると思う?」
ヨハンの手がぴたりと止まった。
しばらくロープがぴんと張ったまま動かなかった。
吐く息が白く、夜明けの空気に溶けていく。
(……黙ってる)
(黙ってる、黙ってる)
(え、まずかった? 聞き方まずかった?)
(別にいま答えが欲しいわけじゃない。ううん欲しい。めちゃくちゃ欲しい)
頭の中でまた暴走しかけた。
そのときヨハンがゆっくりとわたしを振り返った。
「……リナ」
「うん」
「ある、に決まってる」
短くはっきりとヨハンは言った。
わたしは顔を上げた。
「……ほんと?」
「ああ」
ヨハンが釣瓶の引き上げを再開した。
ぎい、ぎい、と滑車が軋む音。
「俺はな、剣なら、頑張れる気がする」
「剣?」
「ああ。父さんの時計師を継ぐのもいいなって、ちょっと思ったんだけどな——」
ヨハンが桶を井戸から引き上げた。
ばしゃりと水が跳ねた。
「俺、不器用だから。父さんのあの細かい歯車の調整は、たぶん無理だ」
「お兄ちゃんが不器用?」
「ああ。お前はまだ知らないかもな」
ヨハンがちょっと笑った。
「でも、剣ならまだ……何ていうか、頑張れそうな気がするんだ。父さんみたいには、できないけど」
桶を地面に置いた。
「これなら、家族を守る側に回れる、かもしれないし」
——その言葉は八歳のリナの胸に響いた。
いやヨハンが知らないところで三十三歳の愛田莉奈の胸にも響いていた。
「お兄ちゃんは剣の人になるの?」
「まだ決めてない。でもたぶんそうする」
ヨハンが桶の水をわたしに見せた。
朝の光が水面にゆらゆら揺れていた。
「人にはそれぞれ向いてる道がある」
ヨハンはゆっくり続けた。
「父さんは機械。母さんは織物。俺はたぶん剣。ノラはまだ分からないけど何か」
「……うん」
「お前はお前の道がある」
ヨハンがわたしの目をまっすぐ見た。
「魔力なき者だから何もできないなんて誰が決めた」
「……」
「お前は特別賢い。父さんが毎日……えっと、その、感心してる」
——え、父さんが?
「いま父さん出てきた?」
「出てきた。ばらすなって言われたけど、まあ、いいだろ別に」
ヨハンが頬を少しかいてから、ぽつりとにやりとした。
わたしは目の奥がなんだか急に熱くなった。
(——だめ。これは泣くやつ)
(——胸の奥がいっぱいになって、処理しきれない)
「リナ?」
「な、ない、お兄ちゃん。なんでもない。本当になんでも」
「お前さあ、本当に最近変だぞ」
「うん、知ってる」
「自覚あるのか」
「ある。たくさんある」
ヨハンが声を上げて笑った。
それから空いた手でわたしの頭をぽんと撫でた。
「お前はたぶん何かすごいことをするよ」
「……すごい?」
「ああ。なんとなくそう思う」
ヨハンが桶を肩に担ぎ直した。
「だから自分の道を探せばいい。俺がそれを守る」
帰り道の途中、わたしはヨハンの背中を見ていた。
十三歳の少年のまだ細い、それでもしっかりした背中。
(——わたしは、書けるかもしれない)
(——コードを。魔法を。機械を)
頭の中でもう一度止まらなくなった。
——でも今度は悲しくなかった。
むしろ温かかった。
(——わたしには、まだできることがある)
朝の最初の光がヨハンの背中を照らし始めていた。
胸の奥でわたしはもう一度誓っていた。
誰にもまだ聞こえない声で。
——わたしはここで、何かを作る。
ヨハンが振り返って「リナ、置いてくぞ」と笑った。
わたしは慌てて走り出した。
転ばないように。ヨハンに置いていかれないように。
そして心の中で走り続ける自分の思考に、置いていかれないように。
■あとがき・解説
今回はあまり技術用語は出てきませんでした。代わりに、兄ヨハンの真っ直ぐな言葉がリナの胸に刺さる回でした。後書きでは、リナがこれまで前世で支えられてきたものについて少しだけ触れてみます。
■この話で出てきた言葉
■「コードレビュー」
プログラマーが書いたコードを、別のプログラマーが読んで「ここはこうした方がいいよ」「この書き方いいね」と意見を交わす作業です。一人で書いていると気付かないミスや、もっと良いやり方を、他人の目を借りて発見するための文化です。前世のリナ――愛田莉奈は、優秀でしたが孤独な部分もありました。それでも彼女がエンジニアとして成長できたのは、たぶん同僚たちが彼女のコードを読み「いいじゃん、これ」と言ってくれた瞬間があったからです。
兄ヨハンの「ある、に決まってる」という即答は、それと似ています。考え込んで複雑な答えを返すのではなく、ただ真っ直ぐに「お前にもできることがある」と肯定する。それは技術的なアドバイスではないけれど、人を支える力としては最強の部類です。
■「向いている道」
ヨハンの言葉「人にはそれぞれ向いてる道がある」は、現代の言葉で言えば「適性」や「特性」にあたります。父は機械、母は織物、兄は剣。それぞれが自分の得意分野で家族を支える。リナだけが、まだ自分の道を見つけていないように見えますが――前世の知識という、この世界に他の誰一人持っていない武器を、彼女はすでに手にしています。
魔力がなくても、別の道がある。それは綺麗事ではなく、現実に組み立てられる戦略です。リナはこの回で、絶望を「設計図」に変える覚悟を固めていきます。
兄の不器用な優しさと、それを受け止めるリナの涙を堪える表情――個人的にもとても気に入っている場面です。
次の話もお楽しみに。




