無邪気の悪意
井戸の縁が砕けた。
石積みが内側から弾け飛び、黒い泥のような体液が広場へ流れ出す。
その中心から現れたのは、巨大な異形だった。
蛇のように長い胴。
節ごとに人の腕のようなものが生え、体表には無数の目。
口は縦に裂け、ノコギリのような歯が何重にも並んでいる。
見るだけで吐き気を催す存在。
レナが青ざめる。
「……何よ、あれ……」
ミレアは満足げに笑った。
「村人百人分で呼ぶ予定だったんだけど、今回は三十人で妥協したの」
レナの顔から血の気が引く。
「あなた……!」
怒りで踏み込もうとしたレナの前へ、ノヴァが立った。
小さな白い背中。
異形と比べれば、あまりにも小さい。
だが迷いなく道を塞いでいる。
レナが叫ぶ。
「どいて! 二人で戦おう!」
ノヴァは振り向いた。
その瞳は真っ直ぐだった。
行け。
連れてこい。
助けを。
言葉はなくても、レナには伝わった。
「……無茶よ!」
ノヴァは一歩、レナを押すように鼻先で背中をつついた。
早く。
異形が咆哮し、広場の家屋が震える。
地面から触手が何本も伸び始める。
時間がない。
レナは唇を噛み、膝をついた。
ノヴァの額に手を当てる。
「絶対、生きてて」
ノヴァは短く鼻を鳴らした。
レナは立ち上がり、全速力で村の外へ走った。
ミレアが楽しそうに首を傾げる。
「逃がしてよかったの?」
ノヴァは答えない。
代わりに低く唸り、異形へ向き直る。
異形の無数の目が一斉にノヴァを見た。
気持ち悪い。
本能が逃げろと叫ぶ。
だが逃げない。
ノヴァは地を蹴った。
白い閃光。
触手の隙間を縫い、胴体へ跳ぶ。
牙を突き立てる。
ぶより、と嫌な感触。
血ではなく黒い液体が噴き出した。
異形が暴れ、体表の腕がノヴァを叩き落とそうとする。
ノヴァは背を走る。
腕を踏み台に跳び、目玉の一つへ爪を叩き込む。
潰れた。
異形が絶叫する。
耳障りな超音波。
窓ガラスが砕け、ノヴァの耳から血が滲む。
それでも止まらない。
小さい体だから届く場所がある。
大きい敵ほど死角が多い。
森で学んだ。
巨大な相手は、崩せば勝てる。
だが異形は竜よりしぶとかった。
潰した目が、ぐじゅりと再生する。
裂いた傷が塞がる。
ミレアが笑う。
「かわいいのに賢いね。でも、それ再生するよ?」
ノヴァは舌打ちしたかった。できない。
なら、倒せなくてもいい。
時間を稼ぐ。
ノヴァは家屋の屋根へ飛び乗り、わざと姿を見せる。
異形が追う。
触手が家を貫く。
寸前で別の屋根へ。
異形がまた追う。
井戸。納屋。柵。
異形は巨体ゆえに、自分で村を壊しながら進んでいく。
ノヴァは常に一歩先。
時に目を潰し、時に足場を崩し、時に冷気で動きを鈍らせる。
だが体力は削られていった。
肩に触手がかすり、血が飛ぶ。
脇腹を腕に打たれ、地面を転がる。
息が苦しい。
それでも立つ。
レナを信じて
村の外から角笛が鳴った。
一度。二度。三度。
援軍。
ノヴァの耳が立つ。
森の道を駆け込んでくる影。
先頭はレナだった。
その後ろに、冒険者十数名。
さらに衛兵隊が盾を構えて続く。
レナが叫ぶ。
「ノヴァァァ!!」
ノヴァは思わず尻尾を振りそうになった。
今は我慢した。
衛兵隊長が目を見開く。
「本当にあの小さいのが一人で抑えていたのか!?」
「説明は後!」とレナが怒鳴る。
「弓兵、目を狙え! 盾兵、触手を止めて!」
矢の雨が降る。
異形の目玉が次々と潰れる。
盾兵が前進し、触手を受け止める。
吹き飛ばされながらも陣形を保つ。
冒険者たちが左右から魔法と斬撃を浴びせた。
ノヴァはその隙に駆ける。
正面。真正面へ。
レナが気づく。
「ノヴァ、まさか――!」
ノヴァは井戸跡へ飛び込んだ。
異形の胴体、その根元。
召喚された場所。
再生の核。
そこへ白銀の冷気を全力で叩き込む。
井戸全体が凍りつく。
異形の動きが止まった。
「今よ!!」レナが叫ぶ。
冒険者たちが一斉に攻撃する。
炎。雷。槍。剣。矢。
最後にレナが跳んだ。
「借り、返すわ!」
渾身の一撃が核を砕く。
眩い光。
次の瞬間、異形の巨体は崩れ、黒い塵となって夜空へ散った。
静寂。
誰もが荒い息を吐く。
レナは周囲を見回し、青ざめた。
「ノヴァ!?」
凍りついた井戸跡の中。
白い小さな体が、ぱたりと倒れていた。
レナは駆け寄り、抱き上げる。
冷たい。
だが、胸は上下している。
生きている。
レナの目から涙がこぼれた。
「……ばか……一人で背負いすぎよ……」
ノヴァは薄く目を開け、弱々しく鼻先をレナの手に押しつけた。
そして、腹の虫が鳴った。
ぐぅ。
周囲が静まり、次いで笑いが起きた。
レナは泣き笑いしながら言う。
「うん、まずご飯ね」




