悪意との遭遇
夜の街道を、ノヴァは風のように駆けた。
石畳から土道へ。
土道から草原へ。
月明かりの中、小さな白い体だけが一直線に伸びていく。
後ろから女性冒険者――レナが叫ぶ。
「速っ……ちょ、ちょっと待って!」
ノヴァはぴたりと止まり、振り返った。
レナは膝に手をつき、肩で息をする。
「あなた、基準がおかしいのよ……」
ノヴァは首を傾げた。
普通に走っただけである。
森へ近づくほど空気が重くなった。
木々の葉先が赤く染まり、地面には黒い粘液のようなものが広がっている。
草は枯れ、虫の声もない。
生き物の気配が、消えていた。
ノヴァの毛が逆立つ。
嫌な場所だ。
レナも剣の柄を握る。
「……瘴気?」
その言葉の意味は分からなくても、危険なのは理解できた。
ノヴァは地面に鼻先を近づける。
匂いは腐敗。血。
そして、妙に甘い。
甘いのに吐き気がする。
森の奥へ一本、何かを引きずった跡が続いていた。
ノヴァはレナを見上げる。
レナは頷く。
「追うしかないわね」
森を抜けた先に、小さな村があった。
柵に囲まれた農村。
だが明かりがない。
家の扉は開き、畑は荒れ、井戸の桶が倒れている。
人の気配がない。
レナが低く呟く。
「避難した……わけじゃない」
ノヴァも分かった。
匂いがある。
人間の匂いはある。
だが“ここにいない”。
連れ去られている。
広場の中央には、黒い紋様が刻まれていた。
見ているだけで目が痛くなるような、ねじれた円陣。
その中央に、何かが座っている。
人影。
フードを被った、小柄な人物。
レナが剣を抜く。
「誰!」
人影はゆっくり顔を上げた。
フードの奥から覗いたのは、少女だった。
ノヴァと同じくらいの年頃に見える。
青白い肌。赤い瞳。
そして、口元には不自然な笑み。
「やっと来た」
レナが息を呑む。
「子ども……?」
少女はくすりと笑った。
「違うよ。もう三百歳」
ノヴァは一歩前へ出る。
この相手は危険だ。
理屈ではなく、本能が告げていた。
少女は立ち上がり、スカートの裾を払う。
「黒竜を倒した白い獣。見たかったの」
レナの声が鋭くなる。
「村人はどこ!」
「生きてるよ、たぶん」
あまりにも軽い口調。
「今は地下。儀式の材料としてね」
レナが踏み込もうとする。
その瞬間。
地面の影が伸びた。
黒い腕のようなものが地面から飛び出し、レナの足首を掴む。
「っ!?」
ノヴァは即座に跳ぶ。
爪で影を裂く。
黒い腕は煙になって散った。
少女――ミレアが目を丸くする。
「へえ。速い」
ノヴァは低く唸る。
ミレアは嬉しそうに拍手した。
「いいなあ、その体。小さくて強くてかわいい」
ノヴァは嫌そうに耳を伏せた。
褒められている気がしない。
ミレアが指を鳴らす。
広場の地面から、次々と黒い影が湧き上がった。
狼。熊。人型。
形だけの偽物。
だが数が多い。
レナが剣で一体を斬る。
「本体を叩くわよ!」
ノヴァはもう走っていた。
右から狼影。
低く潜って回避。
左から人影。
前足で顔面を叩き砕く。
正面の熊影。
その腕を踏み台に跳び越える。
小さな体だからこそ、隙間を抜けられる。
ノヴァは一直線にミレアへ迫った。
あと三歩。
二歩。
一歩。
噛みつこうとした瞬間――。
ミレアの姿が霧のように消えた。
ノヴァの牙は空を切る。
背後から声。
「残念」
振り向くより早く、黒い鎖が地面から伸びた。
四肢に絡みつく。
ノヴァは地面へ叩きつけられた。
レナが叫ぶ。
「ノヴァ!」
ミレアはしゃがみ込み、拘束されたノヴァの鼻先をつつく。
「かわいい。本当にほしい」
ノヴァの瞳が細くなる。
怒った。
次の瞬間。
白銀の冷気が全身から噴き出した。
黒い鎖が一瞬で凍り、砕け散る。
ミレアが初めて驚いた顔をした。
ノヴァはそのまま頭突きを叩き込む。
ごつん。
「いたっ!?」
ミレアが額を押さえて後ずさる。
レナが思わず吹き出した。
「ふ、ふふっ……!」
緊迫した戦場で、なぜか一瞬だけ空気が崩れた。
だがミレアの赤い瞳は、すぐ冷えた。
「……決めた」
広場全体の紋様が赤く輝く。
地面が揺れる。
井戸の奥から、巨大な何かが這い上がる音。
レナの顔色が変わった。
「まさか……召喚!?」
ノヴァは井戸を睨む。
闇の中で、無数の目が開いた。
そして、ぬめる巨大な顎が姿を現した。




